2016年7月12日火曜日

アンのことを語ったあとで

ハイデルベルクで過ごした夏、同じ家に寄宿して間近に接することになったアイルランド人、アン・Lのことを、わたしはいささか戯画化してしまったかもしれない。でも、今わたしの回想に現われるアンは、そのような絵柄となっているのだ。
記憶とは、自分の内なる未知の深海に長らく沈められているうちに、自分の成分が付着して変容をとげるのかもしれない。

アンといえば、何よりもまず、「パンティ4枚、15マルク」の逸話の主人公だった。
この話をわたしはいろんな人に披露し、決まって笑いをとった。言い換えれば、わたしがそれを話して聞かせる相手は、この話をおかしがることのできる人たちだった。その一方で、おかしがらない人たちもいる。
ハイデルベルクでは、その家に以前寄宿していたオーストラリア国籍の女の子が、ときどき立ち寄って話をしていくことがあった。きっと家の様子を見に行くよう言いつかってのことだったろう。このイタリア系満開の女子は、例の話をアンから聞かされ、「パンティ4枚、15マルク」のところで、アンに同情を見せ、真剣な顔でうなずくのだった。
わたしは考え込んだ。これは共感の情のあらわれなのだろうか、それとも、彼女らの理性がちがうふうにできているためだろうか。
このエピソードを、おもしろがる、あるいは、深刻に受け止める、という反応を想像することで、わたしはそれを人を判定するリトマス試験紙とするようになった。

アンはアイルランドの西、ゲール語が残っている地方の出身だ。アイルランドではゲール語が英語と並んで公用語とされているが、日常生活でゲール語が使われるのはごく限られた地域だけだ。
何かのおり、彼女の故郷の話で盛り上がったことがある。わたしがアイスランドで古い詩歌を学んだことを話したのがきっかけとなったのか、アンは自分が習いおぼえたゲール語の古い歌を歌ってみせた。英語に意訳してくれたその内容は、聞いたその場で忘れてしまうくらい他愛ないものだった。
その歌詞、ちょっと書いてみてくれない?わたしはアンに頼んだ。
うやって文字化されたゲール語の詩は、わたしにとって意味深いものをつたえてくれた。いちおうアルファベットが使われているので、少なくとも音の感じは想像できる。でも、言語そのものには全面降伏するしかない。まさしく目に一丁字なし。それだのに、韻律がはっきり見てとれるのだ。頭韻、脚韻、内部韻がもれなくそろっている。そこのところは古代アイスランド語の「スカルド詩」と同じ韻文形式だった。
アイスランド語で記された「スカルド詩」は、ノルウェー王がかかえていた「従軍詩人」--詩人として王の武勲を讃える一方で、必要とあらば戦士として戦う--の一代記として書かれたサガの中に数多く残っている。
北欧古代の韻文形式がなぜに現代の農家の娘、アンの口から湧いて出てくるのか?
それは今後の課題として、日常使うゲール語の音韻感覚が、英語を使うとき影響を受けるということはありうる。
アンは自分で気づかないまま、韻律の伝統をなぞっていた。
Four panties, fifteen marks.
頭韻は文句なし。脚韻は何とか良しとしよう。

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