2016年7月31日日曜日

ボビー・フィッシャーのことをもう少し

前回の記事から続ける。

ポビー・フィッシャーは、最後の時を迎えるまでの3年足らず、アイスランドで暮らし、2008年の年明け早々亡くなった。あと2カ月で65歳になるところだった。チェス盤の枡目の数 8×8=64 と同じ64歳で終局を迎えたのはさすがだ。あるいは、それは余人のあずかり知らない対局における投了だったのか。

いずれにせよ、1972年、29歳にしてチェス世界選手権の王座を獲得したアイスランドの地で、安全な避難場所を与えられたのはせめてもの慰めだ。アイスランド政府から永住ビザを与えられるまでの12年余り、彼は無国籍者として漂流せねばならなかったのだから。
発端は1992年、当時のユーゴスラビアでチェスの公式戦に出場、20年ぶりにボリス・スパスキーと対戦して勝利し、多額の懸賞金を獲得したことだった。というよりも、アメリカ政府の警告を公然と踏みにじって出場したことのほうが、重大な反逆行為とみなされたのか。
制裁を課している国で経済活動をおこなったかどで、フィッシャーはアメリカ国籍を剥奪された。

無国籍になりながら、彼はまんまとパスポートを更新して、安全と思われる国々を行き来した。支援者のいる日本もよく訪れた。しばらくのあいだ当局に泳がされていたようなものだった。
だが、アメリカ政府からすると看過できない行為があった。2001年の9.11のニュースを聞いて、フィッシャーはアメリカに対する呪詛を吐きながら、あの惨事に喝采を送ったのだ。

これを境にフィッシャーは、無国籍という犯罪でいつ拘束されてもおかしくない身になった。
2004年、成田空港から出国するさい、入管法違反で(つまりパスポートが無効だという理由で)拘束され、8カ月間収監されることになる。
最終的に救いの手をさしのべたのはアイスランドだった。フィッシャーに永住ビザを発給して、安住の地を提供した。

音楽もそうだが、共通言語や共通感覚をわきまえることで、チェスの対局における醍醐味を共有できるのだろう(と、想像するしかないのは残念だが)。対局において、フィッシャーは独特の手跡を残しており、そこにチェス・ファンは魅了された。
そういう魅力があってこそ、まわりに影響力をおよぼすのだろう。あれほど身勝手を通し、妄想と猜疑心に凝り固まって、反社会的言動に明け暮れた人物に、援助者たちがいつも手をさしのべたのだ。

晩年のフィッシャーには日本人の伴侶がいた。渡井美代子という、やはりチェス・プレイヤーだ。むずかしい立場にあったこの無国籍者に平穏な生活を与え、収監中はさまざまな形で支援した。彼がアメリカに送還されるという事態を避けるため、二人は結婚した。紆余曲折はあったものの、彼女はボビー・フィッシャーの妻として唯一の遺産相続人と認められている。

渡井とフィッシャーとのあいだがらについて、核心に触れる記述は今のところない。ふたりがチェスという言語で語り合い、チェスの世界感覚を共有していたろうことは想像にかたくない。
とはいえ、外野としては、それを言葉にして語ってもらえたら、と思う。


2016年7月18日月曜日

白夜のチェス戦争

『白夜のチェス戦争』。ジョージ・スタイナーの著作が邦訳で出たさいの書名だ。(諸岡敏行訳、1978年、晶文社刊)

原題は The Sporting Scene: White Knights of Reykjavik (The New Yorker,1972, Faber and Faber,1973)

1972年の夏、アイスランドで開催されたチェス世界選手権の観戦記である。この題名からして、読者に勝負を挑んでいるとしか思えない。
もともと記事として掲載された雑誌〈ニューヨーカー〉の常設ジャンル枠「スポーツ界」をそのまま表題にしながら、そこに「一か八かの状況」という含意まで込めておいて、つぎに副題の「レイキャヴィクの白の騎士」を演目だしものの看板として掲げ、好奇をかきたてる。

White Knights in Reykjavik が転じて、「レイキャヴィクの白夜」white nights in Reykjavik にまでイメージが広げられれば、アイスランドの夏、7週間にわたるチェスの戦いに、これほどふさわしい書名は思いつけないだろう。

歴史に残る対決を間近で追いつつ、知の巨人スタイナーが見せてくれるのは、該博な知識に裏打ちされたチェスの歴史と神髄であり、それを語る卓抜な表現であって、読者にサービスするつもりはこれっぽっちもない。

その年の決勝戦は、国家の威信をかけて送りこまれた天才プレイヤー二人の対決だった。ソ連代表のボリス・スパスキー、アメリカ代表のボビー・フィッシャーが、両国の中間に位置するアイスランドのレイキャヴィクで、21回にわたって対局することになっていた。

ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の物語が、赤白のチェス駒の戦いによって進行していくのをなぞるかのように、ソ連という「赤の陣営」と西側という「白の陣営」の対決が、東西冷戦時代の二大大国が対決する構図そのものに置き換わっている。
最終的にフィッシャーが7局、スパスキーが3局勝ち、ドロー(引き分け)が11局と、「白」の側が勝利した。

やはり東西冷戦下、ソ連の主催でおこなわれた第一回チャイコフスキー・コンクールで、アメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーンが優勝し、英雄として華々しく迎えられるということがあった。そのときの熱狂を再現するかのように、ソ連を下したチャンピオン、ボビー・フィッシャーは英雄スター扱いされた。だが、この決戦を頂点に、彼は試合を拒否し続け、長らく伝説の天才プレイヤーのベールに覆われていた。彼に関する伝説は神話を生み、いくつもの伝聞記が書かれ、映画が作られた。

わたし自身、チェスをおぼえ、ボビー・フィッシャーという神話的人物に興味をもつようになったのは、ずっと後のことだ。

1972年当時、チェスにはまったく関心がなかった。留学して2年目を終えた夏のこと。この年度、アイスランド政府の奨学金を受けるようになって、わたしは大学の脇に立つ学生寮に住んでいた。その夏をデンマークの全寮制学校で過ごすつもりでいた。2棟の寮は、学生を退去させたあと、ツーリスト・ホテルに変身して、短い観光シーズンに集中する宿泊の需要に対応した。

今、逆算してみると、7月に入って早々わたしはアイスランドを離れたことになる。寸前まで老人施設で働いて諸々の費用を稼いでいた。当時、学生寮の1階ラウンジにチェスのセットが備えつけられていたという記憶は残っている。だが、自分の関心事で頭がいっぱいだった身は、そこにある真珠が目に入らない豚も同然だった。その夏、レイキャヴィクでおこなわれるチェスの世界選手権がどんなにすごいものだったか、あとになって認識することになる。

当時、アメリカでもチェスへの熱狂が生まれたそうだ。自分の幼い息子がどんなスポーツに才能を示すだろうか、と期待する父親に、チェスという選択肢が新たに加わった。そういう世界を描いたのが、フレッド・ウェイツキンの『ボビー・フィッシャーを探して』(1988)というノンフィクションで、映画化されて広く知られた。(邦訳は2014年、若島正訳、みすず書房刊)

2015年の『完全なるチェックメイト』という映画は、それ以前に作られたボビー・フィッシャー伝説やドキュメンタリーの映画とは一線を画している。
彼の狂気を主眼としているのだ。


1972年夏のレイキャヴィクで彼が見せた天才的対局と、それがために不問に付された傍若無人なふるまいの数々が描かれる。

試合に臨んで、自分がベストの状態になれないからといって、会場に現われない、いや、それ以前に、出国しようとしない。会場の音が気に障るからと、密室状態のピンポン室で試合をおこなわせる。
そのしつこいこと、ほとんど妄想の域に達している。まるでそれまでためこんできた猜疑心が最大限にふくれあがり、それを解消せねば、自分の天才を発揮できないとでもいうようである。その自信を裏付けるように、アメリカ出国を拒む彼のもとに、大統領府から電話がかかってきて、キッシンジャー補佐官(当時)がじきじきに懇願してくるのだ。

それほどに彼のパラノイドぶりは常軌を逸している。エゴイストなどという言葉ではとうてい説明できるものではない。自分を極限状態に追い込んだ人間に出現する狂気の一例がそこにある。だが、そこから目を離すことができない。その狂気は伝染するのか、何となく自分の身にもおぼえがあるように感じられてくる。ただ、あれほどの実行力でパラノイアを体現する人間がいることに驚くのだ。

(一徹な心が高じて凝り固まってしまうと、世の中にはびこっている怪しげな言説をすんなり受け入れられるものらしい。前々からユダヤ陰謀説に傾倒していたフィッシャーは、この試合以後、極端な反米・反ユダヤ発言を繰り返しては注目を集めた)。


Harry Benson: Bobby Fischer against the World
レイキャヴィクでの試合の期間中、フィッシャーがアイスランドの荒涼たる原野に出て、つかのま安らいでいる場面だけはほっとさせられる。実際に当時の写真も残っている。

2016年7月12日火曜日

アンのことを語ったあとで

ハイデルベルクで過ごした夏、同じ家に寄宿して間近に接することになったアイルランド人、アン・Lのことを、わたしはいささか戯画化してしまったかもしれない。でも、今わたしの回想に現われるアンは、そのような絵柄となっているのだ。
記憶とは、自分の内なる未知の深海に長らく沈められているうちに、自分の成分が付着して変容をとげるのかもしれない。

アンといえば、何よりもまず、「パンティ4枚、15マルク」の逸話の主人公だった。
この話をわたしはいろんな人に披露し、決まって笑いをとった。言い換えれば、わたしがそれを話して聞かせる相手は、この話をおかしがることのできる人たちだった。その一方で、おかしがらない人たちもいる。
ハイデルベルクでは、その家に以前寄宿していたオーストラリア国籍の女の子が、ときどき立ち寄って話をしていくことがあった。きっと家の様子を見に行くよう言いつかってのことだったろう。このイタリア系満開の女子は、例の話をアンから聞かされ、「パンティ4枚、15マルク」のところで、アンに同情を見せ、真剣な顔でうなずくのだった。
わたしは考え込んだ。これは共感の情のあらわれなのだろうか、それとも、彼女らの理性がちがうふうにできているためだろうか。
このエピソードを、おもしろがる、あるいは、深刻に受け止める、という反応を想像することで、わたしはそれを人を判定するリトマス試験紙とするようになった。

アンはアイルランドの西、ゲール語が残っている地方の出身だ。アイルランドではゲール語が英語と並んで公用語とされているが、日常生活でゲール語が使われるのはごく限られた地域だけだ。
何かのおり、彼女の故郷の話で盛り上がったことがある。わたしがアイスランドで古い詩歌を学んだことを話したのがきっかけとなったのか、アンは自分が習いおぼえたゲール語の古い歌を歌ってみせた。英語に意訳してくれたその内容は、聞いたその場で忘れてしまうくらい他愛ないものだった。
その歌詞、ちょっと書いてみてくれない?わたしはアンに頼んだ。
うやって文字化されたゲール語の詩は、わたしにとって意味深いものをつたえてくれた。いちおうアルファベットが使われているので、少なくとも音の感じは想像できる。でも、言語そのものには全面降伏するしかない。まさしく目に一丁字なし。それだのに、韻律がはっきり見てとれるのだ。頭韻、脚韻、内部韻がもれなくそろっている。そこのところは古代アイスランド語の「スカルド詩」と同じ韻文形式だった。
アイスランド語で記された「スカルド詩」は、ノルウェー王がかかえていた「従軍詩人」--詩人として王の武勲を讃える一方で、必要とあらば戦士として戦う--の一代記として書かれたサガの中に数多く残っている。
北欧古代の韻文形式がなぜに現代の農家の娘、アンの口から湧いて出てくるのか?
それは今後の課題として、日常使うゲール語の音韻感覚が、英語を使うとき影響を受けるということはありうる。
アンは自分で気づかないまま、韻律の伝統をなぞっていた。
Four panties, fifteen marks.
頭韻は文句なし。脚韻は何とか良しとしよう。

2016年7月9日土曜日

黄毛のアン(3/3)

そこで講師の男が言う。
「そりゃそうだ、急にそんなことを言われても、すぐには決められないね。どうだろう、これから皆でドライブに出かけるのは。ネッカー川の川べりにいい店があってね、こんな観光客だらけの場所とちがうものを見るのも面白いんじゃないか。万年学生もいっしょだ」

京都の鴨川は、町なかを過ぎると川べりはどんなふうだろう。ハイデルベルクの町から離れたネッカー川は、だだっ広い河川敷きが手つかずのままだった。そういう寂しい場所まで来ると、川べりに停泊している船からわらわらと犬が出てきた。ブリーダーをやっているのだろうか。
居酒屋はその近くにあり、外の木陰では、椅子やテーブルが誘いかけていた。そこにわたしたちは落ち着いてビールを飲んだ。
そこでは世界の平らかな一部分が地味に展開されているように感じられた。--万年学生。人の押しかけない空間。人知れず営まれる生活。夕暮れの静謐。
アンにとって、そういう状況は負と見なされたのか、何度、講師から念を押されても、スペイン旅行に同行することはできないと返事した。

アンをめぐる男たちは現われては消えた。寄宿先のリビングでのお茶に招いて、品定めがなされた。
どこでどうやって知り合ったのか、イラン出身の男は無条件にパーレビ国王を賛美し、それと同じくらい空っぽの熱意でアンをくどいて、みごとに撥ねつけられた。
一度は、本命候補の孫請け候補くらいにはなる男をアンは見いだした。アメリカ人の軍属で、まぎれもないアイルランド系だ。当時はハイデルベルクの近郊に米軍のベースがあり、週末、非番の兵士たちが町に遊びに来ていた。きっとそういうひとりだったのだろう。ジムは夜のビヤホールからアンに連れられてやってきた。わたしはその夜、外出しなかった。
リビングでお茶を前に会話をしていても、いっこうに話がはずまなかったが、それよりも何よりも、口のなかに何かが詰まっているような、彼のアメリカ式発話が聞きとりにくかった。
「ちょっと、口の中のピンポン玉、取り出してしゃべってほしいんだけど」
わたしの辛辣な口調を、ジムは大型犬のような鷹様さで受け流した。アンにとっては、言葉をかわすというそれだけのことが心地よく感じられたのだろう。それまでは「外国人と話をしていても、いまひとつ心が通い合わないんだわ」と内心こぼしていたのだと思う。
わたしは早々に自室に引き上げたが、新米のカップルは、明かりを消したリビングに長くとどまっていた。

アンの心は、ドイツ語の勉強よりも、故郷のことのほうが大きく占めるようになった。ある日、今日は買物に行ってきたいから、授業はお休みするわ、と言って、近くの商業都市マンハイムへ出かけた。ハイデルベルクとは路面電車でつながっている。
午後遅く、たくさんの袋を抱えて意気揚々と帰宅したアンは、リビングのコーヒーテーブルに戦利品を積み上げてから点検していった。大半は故郷の人たちにあげるおみやげだった。
「これは従兄弟のケヴィンにあげるの、これは昔の同級生のブレンダンに」と言いながら、スーベニアの品々を確認しているうちに、ショルダーバッグのなかをさぐって顔色を変えた。
「ああっ、ない。ないわ。そういえば、あのときよ。電車で隣の人とおしゃべりしてて、いろいろ見せてあげてたとき、包みを出したまんま座席に置き忘れてきたんだわ。ああ、何てこと!」
「何だったの?その置き忘れてきたものって」
「パンティ4枚。15マルク」
わたしはプッと吹き出すところだった。ところがアンは舞台俳優のように頭を抱えこむポーズで決め、「ああ、ああ」と大げさに嘆いてみせた。
こみ上げる笑いを何とか押しとどめようと、わたしは両手で自分の頬を引っ張り下ろしながら、「それは残念だったね」と言うのがせいいっぱいだった。

サマーコースは終了試験で終わりとなった。試験はごくやさしく作ってあった。学生たちが Sehr gut と銘記された記念品たるトロフィーを、それぞれの国に持ち帰れるよう配慮がなされていた。だが、アンは「不可」をもらってしまった。

2016年の今しも『ブルックリン』という映画が話題になっている。アイルランドからニューヨークに渡ったアイルランド娘が、かの地ですてきな青年にめぐりあい、そこで幸せな家庭を築くはずだったところに姉の訃報を受け、故郷に帰る。今度はアイルランドという国と同胞たちのなかに、今まで気づかなかった魅力を見いだすことになり、自国で新たな人生を築いていく。そういうストーリーのようだ。
今ごろアンはたくさんの孫たちに囲まれて、自分の人生はこれで良かった、と思っていることだろう。その映画を見て、主人公を自分に重ね合わせ、感慨にふけっているのかもしれない。
「若いとき、わたしはドイツでモテモテだったわ。年配の大学教授から南欧の旅に誘われるし、ペルシャの王族に求婚されるし、先祖が同じアメリカ人も捨てがたかったわ。でも、何たって、そのおかげで地元ゴールウェイの男たちもまんざらではないとわかったんだから、それだけのことはあったって言えるんじゃない?そんなこんなでドイツ語がてんで身につかなかったのはもったいなかった。けど、ちょっとくらい寄り道をしたり、失くし物をしたりすることはあるわよ。それが人生ってもの」

2016年7月8日金曜日

黄毛のアン(2/3)

回想をたどるうちに、ふと思うことがあった。寄宿先のあの家にテレビはあったろうか。ダイニング・キッチンとリビングは自由に使っていたのに、そこでテレビを観たおぼえはない、テレビはなかったのだ。ホストファミリーは最良の環境を用意してくれていた。若い人に長く感じられる夜の時間は外で過ごすべし。この季節は日も長い。

ハイデルベルクの生活にも慣れたころ、アンの親友クレアがアイルランドからやってきた。ゴールウェイ大学のクラス仲間だそうだ。その苗字も黒髪も、アイルランドの見本にしたいくらいの女性で、年齢はずっと上のようだ。町で事務の仕事についていて、世馴れているぶん包容力が感じられ、アンが何かと頼りにしているのもうなずけた。

写真の右と左が黄毛のアンと黒髪のクレア。中央はドイツ語クラスで知り合ったアイスランド人ヘルギ(仮名。どうしてもこの美少年の名前を思い出せない)。ドイツの音楽専門学校のピアノ科に入学することになっていて、ドイツ語を勉強しなくてはならないのだ。レイキャヴィークに近い小さい町の出身で、ハイデルベルクでは修道院に滞在していた。
三人の女子といっしょに市内を散策してからビヤホールに行くのはどう?とヘルギを誘ったのだ。ホストファミリーの家にはアプライト・ピアノがあった。何か弾いて聞かせてくれない?と頼むと、彼は大げさに「ば~~ん、ば~ぱ、ば~ん、ば~ぱ」と鍵盤を叩いて、ショパンの『葬送行進曲』を弾いてみせた。
「町で葬式があると、いつもこれを弾かされるんだ」

ビヤホールでヘルギはアイスランド人の作法をしっかり見せてくれた。それはアルコール摂取行動といっていい。
今では昔語りになってしまったが、長らくアイスランドでは酒類については厳格な法律がさだめられていて、どんな酒も国営販売所でしか買えなかった。処方箋薬局のように殺風景な販売所では、カウンターの向こうに怖い顔のオバサンがいて、そこで身分証明書を提示して、ようやく売ってもらえるのだ。週末をひかえて、「ちょっと政府に行ってくる」というのが、酒飲みの言いぐさだった。
このようにアルコールが規制されていると、酒の飲み方がなげかわしいことになるのも当然だった。よく見られたのが、ウォトカをコーラで割ったものをあおって、いち早く酩酊状態に達するというものだ。

ヘルギは深刻な顔をして大ジョッキの半分をひと息で飲み、いったんテーブルにジョッキを置くと、目を泳がせながら自分の酩酊具合を確かめているふうだった。当時のアイスランドでは、ウォトカやジン、ウィスキーやプランデーといった度数の高い蒸留酒は売っていても、ビールは禁制品だった。
(日本からシシャモを買いつけにやってくる船の乗組員たちは、アイスランドの理不尽な禁ビール事情をよく知っていて、自分たち用のビールを使ってなかなかうまい取り引きをしていた。大樽2個の塩蔵タラコが瓶ビール2ケースと素早く交換される場面をわたしは目撃したことがある。アイスランドでは使い道のないタラコで宝物を手に入れたおっさんはにこにこ顔だった)。

ハイデルベルクでも人気のあるビヤホールの広い内部は、昔の造りのままだったろう、年季の入ったテーブルはどれも大きく、客はカウンターでジョッキのビールをそのつど買ってきて、空いている席に座ることになる。いろんな人と相席になって、「どこから来たの?」という定番の問いかけから、いい会話に発展していくこともあった。
そういう場でアンは、話をかわす若い男たちと住所交換をしておくのが常だった。

クレアの滞在中のことだった。なじみのビヤホールで、わたしたち女三人連れのテーブルに、二人連れの男が席を占めると、自分たちのことを紹介しはじめた。ひとりは眼鏡をかけた中年男、もうひとりは禿げかかってはいるが、まだ若さは残していた。
若いほうが言うには、自分はここの大学の学生、というか万年学生ってとこで、文学、歴史、哲学なんかを渡り歩いてきたんだ。それから、連れの男を指して、この人は今専攻している学科の先生だ、と紹介した。それを受けて眼鏡の男が言う。自分はここの大学で社会学の講師をしているんだが、この男のように、気楽な学生身分がやめられないケースがあってね。
そんなたわいないことを話しているうちに、講師の男が切り出した。
「私はこれから自分の車でスペインにバカンスに出かけるところだ。道中のお供をしてくれる人がいたらいいなと思っているところに、君たちに出くわした。どうだろう、旅をいっしょするのは。ただし、ひとりしか連れてゆけない。行ってみたいと思ったら、遠慮なく手を挙げてくれ」
講師はわたしたち三人の顔を順繰りに見つめたが、その目が最初からアンを選んでいるのは見え見えだった。何ともいけすかないヒヒおやじだこと。心の内でそうつぶやきながらも表情には出さないで、クレアとわたしは即答した。
「残念ながら仕事に戻るので」
「このあと東欧を旅する予定なので」
アンひとりがじらすような内気なしぐさで、その気がないでもないといった反応を見せた。
(次回に続く)