2016年10月30日日曜日

虎の魂(5/5)

虎をめぐる何か。これが未解決の課題となってわだかまっていた。

タイでの出来事からずっとのち、またもこの件に立ち返ることとなった。あの異常な震えをさらに体験したのだ。今度は日本で。
だが、このたびは、そこに自分なりの説明をつけて自分を納得させ、胸のうちにしまいこんで終わりにした。

これは現実の知人をめぐっての出来事であり、具体的状況を語るわけにはいかない。
つづめて言えばこういうことだ。知人のことを、わたしは批判する理由があって、できれば敬して遠ざけるようにしていた。とはいっても、どうしても会わざるをえない機会がたまに訪れる。

久しぶりに会って話をする前、わたしは知人に自分の立場を説明する内容のメールを送っておいた。だが、それは結果的に相手の立場を批判することになった。
ともかくも、表面上はなごやかな時間を過ごし、事なきをえた。だが、別れぎわ、知人はにこやかな態度をかなぐり捨て、ためこんでいた怒りを短い言葉にして一気に吐き出した。それが別れの挨拶となった。

そのあと、わたしは疲労を重荷のように抱えて電車を乗り継ぎ、自宅に戻り着くと、ベッドに倒れこんだ。しばらくして、あの異常な震えが背中を走ったのだ。
そのとき二つの言葉が重なり合うように思い浮かんだ。
「哮たけり立つ / tigerish
そうか、虎のごとき獰猛な怒りというものがあるのだ。

ただでさえ虎は生息数が減って、人里に姿を現わすことなどなくなっているのに、ラフ族の村には、昔虎が発した怒りがいまだに残照のように漂っているのだろう。わたしはそれと鉢合わせしてしまったのだ。

過剰なエネルギーを抱えた知人は、その怒りもまた虎のごとき猛烈なものだったろう。わたしはそれを背負ってしまったのだ。

『本草綱目』という明の時代の博物誌には、「琥珀」についての記述もあり、そこには、虎の魂が成ったものだとまことしやかに書かれている。
虎死則精魄入地化為石。此物状似之、故謂之虎魄。
虎が死ぬと精魄(たましい)が地に入って石となる。この物のありさまが似ているがゆえに、これを虎魄(琥珀)という。


というところで、ようやく迷路の終着点に達したようだ。

2016年10月26日水曜日

虎の魂(4/5)

このところのテーマのもとではこまごま語っている余裕はないが、タイ北部の少数民族を訪ね歩く山岳トレッキングはたいへんおもしろい体験となった。そこで、つぎは旧正月の時期を選んで出かけることにした。初めてのトレッキングから1年余り後のこと。前回意気投合したガイドのシーモン君と手紙をやりとりして、こちらの希望をつたえ、旅程をまかせて案内してもらうことになった。

仏教国タイでは、旧正月は国全体の祝祭日であっても、少数民族の多くには縁がない。中国文化圏のヤオ(瑶)族のほか、旧正月の行事をおこなうのはラフ族とのことだった。

地元のトレッキングとなると、コースや宿泊先についてあまり選択肢がないのだろう。今回のシーモン君は、ルートを巡って山あいを歩くことはせず、旅行ガイドの役に徹して、われわれ二人をあちこちの訪問先に案内してくれた。
宿泊場所も、奥さんと二人の小さな子供のいる自分の家を提供した。カレン族が住むその小さな村には、シーモン君の両親も隣接する家で暮らし、在来種の小型の黒豚をたくさん飼っていた。
シーモン君と102歳の祖父

普通の観光客なら喜ぶ〈象乗りツアー〉をわたしたちが拒むので、間が持たないと思ったのか、シーモン君は別のカレン族の村に住む祖父の家に案内してくれた。おじいさんはもう102歳になるという。シーモン君が30そこそこなので、祖父にしてはちょっと年をとりすぎてやしないか。
「それ、確かな年齢なの?」
「うん、確かだ。おやじは結婚したのが遅くて、45のとき僕が生まれた。だから、そういうことになる」
おじいさんは年齢からすると驚くほど体がしゃんとして、話す言葉に気力が感じられる。
〈十八番おはこ〉のひとつの昔話だろう、古老は若いとき村が虎に襲われたときの話をしてくれた。家の中に入り込んだ虎を必死で戸口の外に追いやって、戻ってこようとするのを、内側から戸を押さえて何とか防いだという。恐ろしかったの何のって。脇腹に爪をたてられたのが、ほら、このとおり、傷跡になっている。

翌日、乗合のトラック・バスに乗って、旧正月の行事をやっているラフ族の村を訪れた。
最初のトレッキングで泊まったラフ村とちがい、住民の数も多いようだ。
中央の広場には竹を地中に刺して作った簡単なやぐらが立っていて、その上部に設けた座にお供え物の豚の頭が置かれ、笹の葉の束で囲ってある。
今夜はこのやぐらを取り巻いて、村人が踊ることになっている。まさに日本の盆踊りそのものだ。もちろんやぐらの上はまるきりちがうが。

お昼時、村の集会所ではすでに宴会が始まっていた。わたしたち二人のよそ者もそこに招き入れられ、お相伴にあずかった。そのとき食べたもののうち、生の牛肉の唐辛子味噌あえは忘れようにも忘れられない。絶品だったこと、そして、あとでひどい目にあったことで。

夜にならないとお祭りは始まらないので、ラフの村では長居しなかった。
日が落ちて、再び村へ向かう車に揺られているうちに、わたしはだんだん気分が悪くなっていった。村に着いて、お祭りの広場に達したとき、もうこれ以上がまんできず、草むらに嘔吐してしまった。その直後のことだ。全身に震えが走った。前年、別のラフ族の村で体験したときと同じく、背骨がガクガク揺さぶられた。そのときは気分のひどさのほうが切実で、震えのことなどかまっていられなかった。祭りを見物するどころではなかった。

これは旅日記ではないので、事の顛末は略すが、結果的に、旅はそこで中止するしかなく、シーモン君にチェンライの町に連れていってもらった。漢方薬局で選んだ薬が効いたらしく、さいわいそれ以上悪い事態にはならないですんだ。夫もやはり食あたりを起こしたが、わたしよりずっと軽症だった。
あとでシーモン君がチェンライの宿を訪ねてきて、わたしたちに報告してくれるには、あの日、ラフの村では住民の多くが食中毒を起こして、症状の重い何人かが町の病院にかつぎこまれたという。


そうやってチェンライの宿で半病人の身を横たえていたときだった、あの震えの記憶がよみがえってきたのは。--2度体験した異常な震え。どちらもラフの村での出来事。ラフとは虎の意味。古老の語ってくれた虎の話。
分散していたものがひとつに集束していった。それは虎だった。虎をめぐる何かだった。




2016年10月23日日曜日

虎の魂(3/5)

鳥獣虫魚は人にメッセージを送る力をそなえている、などと言い出せば、スピリチュアル系の妄想に生きている人のように思われかねない。では、こういう言い方ではどうか。--人は森羅万象から日々、無意識のうちにメッセージを受け取っている。それらはささやかで無害なのだから、軽く受け止めるまでのこと。そんな「よしなし言ごと」であるにはちがいない。
twitter がほんらい「鳥の囀り」であるように、「ツイッター」で発するメッセージはおおむね穏やかな調子を逸脱させない。

ここで虎が登場するとなると、話は不穏な気配がしてくる。でも、残念ながら、そこには興味深いドラマひとつあるわけではない。自分の体験を淡々と報告するまでだ。

何を意味していたかは不明ではあるが、あれは虎からのメッセージだった。わたし自身、虎にシンパシーを抱いたことはないし、当時、何か心理的な問題をかかえていたわけでもない。

1990年代、タイという国が気に入って、夫といっしょに何度も訪れるようになった。あの激辛のタイ料理にはまってしまったというのもあるが、それよりもタイ東北部の民俗音楽にいざなわれたのが大きかった。
イサーンと呼ばれる東北地方は、メコン川の国境に接しているだけあって、隣国ラオスと共通する言語・文化を保っている。笙の系統の楽器〈ケーン〉が手風琴に似たまったりした和音を奏で、リズムを刻んで気分を盛り上げていくなか、歌のひとり語り、あるいは二人の掛け合いが、たたみかけるように続いていく。何かと親身に接してくれるタイの人たちの人の好さそのものに聞こえたものだ。

そうやって何度かタイを訪れるうち、夫のリクエストもあって、北部の山地に暮らす少数民族を訪ねるトレッキングを試みることにした。
チェンライの宿で紹介してもらったガイドはシーモン君という、少年っぽさの残る若い男。きびきびとして快活で、行動を共にするには絶好の楽しい相手だった。彼自身、山岳民族のカレン族であり、自分の村の、自分の家に案内することもしっかり旅程に組み入れていた。

トレッキング初日の宿泊地は、山頂に開けたラフ族の村だった。Lahuという民族名は、「狩人」を意味すると言われることが多い。だが、シーモン君は、いや、そうじゃなくて、中国語由来の言葉で「虎」を意味しているという説が正しい、と言い張った。
その夜は村長おさ一族の家に泊まることになり、われわれ二人の客人のために一室が提供された。寝床に入る前、夫が用足しに出ていって、わたしひとりでそこにすわっているときだった。突然、上半身に震えが走った。悪寒がするという感じとはちがう、それまで体験したことのない震えだった。背骨が勝手にガクガク揺れ、何秒かしておさまった。とっさに思ったのは、これは風邪を引きかけているのではないか、ということだった。旅のしょっぱなから体調をくずしては困ったことになる。
だが、翌日の体調に変化はなく、あの夜、震えがきたことも忘れてしまっていた。

その出来事を思い出したのは、年後、再度この地方を訪れた時のことだ。


山頂のラフ族の村

低地のタイ人の牛を預かって飼育する

皆どこかで見たことのあるような



2016年10月18日火曜日

虎の魂(2/5)

ジグザグの道はまだ続く。今回も虎の尾にも届きそうにない。

前回、『古今和歌集』にあるコオロギを詠み込んだ和歌について書いていて、疑問に思うことがあった。
コオロギが「綴り刺せてふ」--縫い綴れとばかりに鳴いているのは、冬に備えて衣を縫っておくよう助言してくれている、と解釈するのが通り相場のようだ。
でも、もしかしたら、ここのところは、コオロギ本人が「寒くなるから衣を縫わなくちゃ」とつぶやいている言葉かもしれない。
想像が勝手に滑っていく。コオロギは秋のうちに落ち葉を何枚も重ねて縫い合わせて、寒さをしのぐ衣を作りあげ、何とか冬を乗りきるのだ。そのように古代の日本人は思っていなかっただろうか。
たちどころに『アリとキリギリス』が思い浮かぶ。イソップやラ・フォンテーヌの寓話のなかでもいちばん有名な話だ。働き者で、夏のあいだせっせと食べ物を集めて蓄えてきたアリが、冬になって、キリギリスから助けを乞われると、冷酷に言い放つのだ。「夏じゅう音楽を奏でて楽しんでいたやつは、これからもせいぜい楽しくやっていくんだな」。
日本人のだれもがこの話を幼いうちに聞かされて、いやでも勤勉精神を心に刻み込まれたろう。だが、キリギリスの哀れな末路には、内心納得できないでいる人も多いはずだ。
そこには人間と生き物との距離感が働いている。鳥や虫の声を、意味ある言葉に聞きなすということをやってのけるくらいだ。彼らに親しみをおぼえ、つい感情移入してしまうのは不思議でも何でもない。愛すべき鳥や虫に人間の属性を与えてもちっともおかしくない。
イソップやラ・フォンテーヌはあくまで建前の話だということにして、心の中では、身近な生き物に自分を託して納得する。

在原棟梁の時代、夏の終わりから鳴き始めるコオロギの音を心のうちでころがしていると、「ツ・ヅ・リ・サ・セ・〇・〇・〇、ツ・ヅ・リ・サ・セ・〇・〇・〇」(〇は無音)と8拍のリズムに乗って聞こえてきたはずだ。
俳句、和歌の字数は五七五(七七)ということになっているが、じっさいは無音の拍で間をつないで、八八八(八八)の拍で受け止めている。「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」のように、八拍のまとまりはどこでも通用する。
際限なく続くコオロギの声を聞くうちに、おのずと気持ちがまとまっていく。「冬がまた来るなあ、寒さにそなえて衣を縫っておかなくちゃ。人も虫も。それぞれの領分でやっていくまでだ」

ひょっとすると鳥獣虫魚は、人にメッセージを送る力をそなえているのではあるまいか。


山本梅逸《花卉草虫図》




2016年10月14日金曜日

虎の魂(1/5)

タイトルの「虎の魂」を、いずれそこへ到る終着地として掲げてはいるものの、今のところ、迷路の入口に足を踏み入れたばかりであり、胸の内に見えている核心部に達するまで、話題は紆余曲折をたどることになりそうだ。

ナツユキカズラ
このところ気温がガクンと下がった。ベランダのナツユキカズラの茂みの中で毎晩、飽かず歌っていたコオロギにも、ついに諦めの境地が訪れたようだ。
彼--鳴く虫は雄と決まっている--が突然現われた日はわかっている。この夏、台風の風雨が通り過ぎた翌日だった。それからつい二、三日前まで、毎晩、それはそれは熱心に鳴き続けたのだ。
台風の翌朝、ひょっこり現われたといえば、まるで宮沢賢治の〈風の又三郎〉だ。この転校生は学校の生徒たちの心をつかんで離さなかった。そのように現われたコオロギは、異世界から到来した風変わりな客のようなものだったろうか。
客人は声のみでそこにいることを告げていた。暮れ方、おずおずと音を奏で始め、玉を並べて空間を埋めていくような単調かつ律儀な流儀で夜通し歌った。
〈コオロギの又三郎〉と名づけてみたものの、鳴き声でしかその存在を知らない。声が聞こえているあたりをライトで照らして探しても、その雄姿を見つけることはできなかった。
あんなに鳴いてはお腹が空くだろう、とスイカやメロンの皮を串に刺して土の上に突き立ててやってみた。でも、それらの食物はダンゴムシの一族を呼び寄せ、繁栄させるだけとわかって、早々に打ち切った。結局、彼はカズラの葉を食べているのだろうと思うことにした。
〈又三郎〉の美声に誘われて雌コオロギがやってきたかどうか、という話になると、それはなかったと思うしかない。雌は鳴かないからどちらとも言えないが、こんな高層階までわざわざ飛んでくる雌はいないだろう。地上の植え込みのいたるところで雄コオロギの声が誘いかけていた。

インターネットで調べると、鳴き声が手がかりとなって、〈又三郎〉の正式名は「ツヅレサセコオロギ」と判明した。何のことはない、コオロギ一族でもいちばんありふれた種だ。(その姿と鳴き声はこちら
このありふれた地味なコオロギが、地道な主張の持ち主であることをわたしは知った。
「ツヅレサセ、綴れ刺せ」、つまり「綴り刺せ」というのは、コオロギの鳴き声を古代の日本人がそのように聞きなしたものだという。言葉を補って言えば、「冬にそなえて衣を綴り刺せ、縫い綴れ」と助言してくれているのだと。
『古今和歌集』のなかに「綴り刺せ」を詠んだ歌が収められていて、その雰囲気をつたえている。巻19中、通し番号では1020番になる、在原棟梁の作である。


  秋風にほころびぬらしふぢばかま 綴り刺せてふきりぎりす鳴く


藤袴(フジバカマ)
「秋風で藤袴-キク科-の花が開きかかったようだ。綴り刺せ、縫い綴れというようにコオロギが鳴いている」--コオロギは古くは「きりぎりす」の名で呼ばれていた。

作者の在原棟梁(ありはらのむねやな)は、かの名高い業平の子だそうだ。生年は不明ながら、没年は898年とわかっている。
1100年以上前に歌われたとは思えないくらい、歌の情感は今の人にも違和感なくつたわってくる。コオロギの単調な歌を聞いていると、ひと針ひと針刺していく地道な縫い仕事を思い出す。すんなり受け入れられるイメージだ。
わたしのように「空間をドットで埋める」といったイメージで実感しては、いかにも風情がない。