2018年10月30日火曜日

ロレンス・ダレルの季節⑥


ダレル氏に見送られてわたしは邸をあとにした。
そのあとも旅は続くのだが、ここでそれを書きつらねているわけにはいかない。

10月もだいぶ過ぎて、わたしは身軽な姿で帰国し、5カ月ぶりに多摩川べりの借家に戻った。留守中に届いた郵便物のなかにダレル氏からのものがあった。それはイギリスで出ている詩の雑誌 Poetry London / Apple Magazine の新刊で、氏のエッセイがその巻頭を飾っている。見開きに献辞がしたためられていた。
--- I much enjoyed your visit and admired your courage as a traveller in a strange land! I wanted to give you this but refrained as your baggage... Every good wish ---
この No.2 以降、雑誌は続かなかったようだ。



今はまだダレル氏から託されたものの道筋をたどっておかねばならない。

氏から手渡された小型本、 A Smile in the Mind's Eye のことだ。 (Pub.by Granada Publishing Ltd in 1982. 初版は Wildwood House Ltd 1980)100頁にも満たないそのペーパーバックは、背負い鞄の中に入れられ、道中の読み物となった。正確に言えば、再読することになった。

Prospero's Cell を訳しながら集中的に読んだ本の中に、1980年に出たばかりのこのエッセイも含まれており、『予兆の島』の訳者あとがきで言及しているのだ。

「連鎖する記憶を語るうちに、作者のタオイストたる一面を見せていく自伝的なこのエッセイは、ダレルのコルフ島時代の情景にも立ちもどっていく。ヘラクレイトスと老子の断章を、ひとつの思想家のもののように反復していた二十三歳の自分と、聖アルセニウスを祀った淵で遊泳する姿がわかちがたく結びついている。根源的な現実の見える瞬間、心が創造物の本質とつながる引火点としてタオを思い浮かべたダレルには、紋章意匠をとった純粋形態の世界が見えていた」

当時の性急かつ集中的な読みが、若い人間にこのような文章を綴らせるのか。今思えば、この飛躍的理解がわたしをダレルという作家のもとに駆け寄らせたと言えなくもない。
現実に、ダレル氏本人からこのエッセイの再版本を手渡され、再読することになって、わたしはそこに新しいメッセージを見いだしたろうか。

まっとうな形で解説するなら、このエッセイは、ダレルが知り合った二人の人物をめぐる語りということになる。
ひとりは張忠蘭 Jolang Chang というカナダ国籍の 中国人の老子研究家。というよりむしろ性科学関連の著作で知られている学者のようだ。あのダレル邸に滞在して、老子の思想を語り、手ずから料理すれば、それがおのずとタオイズムを実現している。そんななかでダレルは自分の若き日の体験へと連想を拡散していく。
(ダレル邸の玄関の壁にかけてあった中国語の書は、どうやらこの人の手になるものだったようだ)。
もうひとりは、毎年、特定の作家を定めて集中して読むことにしているフランス人女性で、ダレルが出会ったのは、彼女の「ニーチェ」の年だった。まさしく「悦ばしき知識(愉しい学問)」を実行しているのだ。
この二人は、「道タオ」という捉えがたいものを体現している--ということなのだろう。ダレルの捉えどころのないエッセイがほのめかすものは。

わたしのロレンス・ダレルの季節は、それ以上展開していくことはなかった。
つぎの課題、「カーレン・ブリクセン」に全身で取り組むようになったのだ。

2018年10月28日日曜日

ロレンス・ダレルの季節⑤



ドアの内にわたしを招き入れると、ダレル氏は、玄関ホールの薄暗い廊下に掛けられた額のほうをそれとなく指して注意を喚起した。それは毛筆で書かれた中国語の詩文だった。短い漢詩ひとつだったら、わたしも意味を読み取ろうとしたろう。だが、縦長の行がつらなる長文となると、歯が立ちそうにない。
「ああ、中国語ですね」と応じてうなずくだけにした。

廊下の突き当たりに台所とダイニング・ルームが左右に振られていて、わたしは左手のダイニング・ルームの、壁ぎわの小テーブルに案内された。
「葡萄酒はどうかな。日本人は日が暮れてからでないと酒は飲まないということだが」
「いえ、いえ、そんな伝説があったんですか。喜んでいただきます」
台所から葡萄酒の白と、皿に乗せたチーズを取ってくると、厚手のコップに注いでくれた。

会話がとぎれなく続いた。わたしは何よりもまず、Prospero's Cell のなかでよくわからなかった箇所について訊ねておきたかった。訳文では、不明の箇所はわかる範囲内で収めたが、こうして著者本人に確認できるえがたいチャンスは逃すわけにいかない。そのほか、描かれた風物、人物たちについて、もっと知りたいことがあった。

この1982年当時でも、ダレルのコルフ島滞在から、すでに45年もの年月がたっていた。氏を不動の作家にしている小説群のことにも触れず、わたしはじつに能天気な質問ばかりしたものだ。
「ある海岸近くで潜ってみたら、昔の邸宅の跡らしき石の構築物が見つかったとありますが、その後、調査はおこなわれたのですか?
「ああ、調査した結果、ローマ時代の邸宅跡だとわかった」

イオニア海にあるコルフ島は、対岸イタリアと縁が深く、ローマ貴族の別荘地として使われていた歴史もある。作品に登場する非常に興味深い人物、D伯爵は、ヴェネツィア貴族の末裔である。

わたしは自己紹介の続きのつもりで、自分も20代のはじめ、国外の島で暮らしたという話題を振ってみた。アイスランドに留学していたのだ、と。ダレルの「イスロマニア(島狂い)」という関心事項に誘引したつもりだった。ところが、氏からするとアイスランドは身震いを起こさせる、できれば避けたい固有名詞だったようだ。
そのときわたしは、以前訳したラクスネス作品のことまでは話さなかったが、すでに伏流の見えない流れの中でダレルとつながっていた。それはあとになってわかることだった。

「日本人は英語が達者な国民なのかな?」
「いえ、その真反対で、何年も学校で英語を勉強してもしゃべれないことで有名です。ふだんの生活で外国語を使う必要がないのです」
「以前、アメリカのヘンリー・ミラーのところで過ごしたことがあってね、そこでいろんな日本人に会ったのだが、みな英語を流暢に話していたものだから」
「ホキという日本人女性がミラー氏といっしょだった頃のことですね。ところで、こちらに日本人のお知り合いは?」
「あいにくいない。一度、日本人の男がここを訪ねてきたことがあったな。名前は忘れてしまったが、詩人だと言っていた」

のちに工作舎の担当編集者に絵葉書を送ったなかで、わたしは「ロレンス・ダレルについては何よりもまず、滑らかな人、という印象を抱いた」というようなことを書いた。
あのときのわたしは、ダレル氏の滑らかな踊りのステップに絡めとられて、ふだんの自分とは思えないほど軽々と踊っていたようなものだ。
こういう言い方でダレル氏の魅力の一端を語ったとしても冒瀆には当たるまい。

そのうちに、戸口のほうで物音がして、30代くらいの女性が入ってきた。ダレル氏は、彼女とわたしを交互に紹介した。
「今、近くの町の劇場でぼくの戯曲『サッフォー』をやっていて、主役を演じてくれているんだ。うちに滞在している」
「お会いできて栄光です」
「どうぞよろしく。外のバイクはあなたのだったのね」


そろそろ退出する潮時だ。
その女優とわたしが話をしているあいだに、ダレル氏は奥の部屋に引っ込んで、何かを手にしてきた。ひとつは、その年、再版の形で出たばかりの小型のエッセイ本、 A Smile in the Mind's Eye 。イトル・ページに献辞が記してある。もうひとつは、コルフ島に行ったら旧友Aを訪ねるようにと、紹介状を入れた封筒だった

退出前、わたしは聞いた。写真をとらせてもらえないでしょうか、と。その部屋から続くポーチにプールが作られていて--水はなく、落ち葉が積もっていた--その端にダレル氏は立ってくれた。

「道中は気をつけるのだよ。最近も、このあたりで女性がアラブ人に殺される事件があったし。いや、ぼくの娘があなたと同じくらいの年齢なものだから・・・」
そんな話をしながら、ダレル氏はバイクのところまでわたしに付き添ってきてくれた。

そのときのエピソードは、わたしにとって、ダレル氏を象徴する印象深い図柄となって心に刻み込まれることになった。
ひと目見るなり、そのバイクに難があることを見てとったのだ。(その日、わたしはガソリンスタンドで給油したさい、栓を戻し忘れ、給油口が開きっぱなしだった)。
「タンクの栓がないじゃないか。これではどんどん蒸発してしまう」
マロニエ(セイヨウトチノキ)
そう言って、あたりを見回して、地面に落ちていたマロニエの実を拾い上げるとタンクの開口部に当てがった。だが、実は大きすぎた。それでなくても、角のような棘に覆われていては、とうてい栓の役をつとめられそうになかった。

高く伸びるマロニエの大木、その根方に寄りかかる深緑色の小型バイク、そこに小柄なダレル氏が、薄緑色の丸い実を手にして立っている。--このような図柄をわたしは、いっぷう変わった紋章として記憶している。

以前のブログで書いているが、わたしが撮ったダレル氏の写真(未現像のフィルム)は、失われた鞄の中の一切合切といっしょに消えた。

だが、あのとき手渡されたエッセイ本は、機内持ち込みの手荷物の中にあって、こうして生き延びることになった。











2018年10月24日水曜日

ロレンス・ダレルの季節④


ダレル邸を訪ねることは、わたしの目標や目的にはなっていなかった。旅の行程の途中に、ダレルが住んでいるはずのラングドック県ソミエールがあり、一応そこに立ち寄ることは可能だった。事前の連絡もせず(どうやって連絡すればいいのだ)、さえぎるような門もなかったので、わたしはバイクを引いてその敷地に入っていたというのが現実だ。

その日の朝までわたしは、南仏の古都モンペリエより少し内陸部に入ったあたりの村にしばらく滞在していた。もう少し立ち入った話をすれば、わたしはその村に住んでいた旧友の家に押しかけたのだ。これこそまちがいなくわたしの目的地だった。
旧友はフリーランスの生活を基盤にし、同類のインテリがいつも周りにいる環境を作りあげる男だ。あるいは、同類たちが一時期を集って過ごすギリシャの島に移動してみたり。時代はかけ離れているが、20代のロレンス・ダレルが暮らしたコルフ島の生活がまさにそのようだった。
島嶼部が夏の一大観光地でもあるギリシャは、長逗留する外国人たちに好みの過ごし方を提供してきたし、それは今も同じだ。

南仏の旧友のところでは、ロレンス・ダレルの存在はよく知られていた。直接面識のある人はいなかったものの。それでも、モンペリエからソミエールの町に入ったら、こういうふうに行けばダレル邸が見つかるよ、と教えてくれる人はいた。
実際のところ、わたしはソミエールの町の中央広場にたどり着いて、そこにお約束のように開いている観光案内所で、難なくムッシュー・デュレルの住まう場所を教えてもらえたのだ。遠くの友人たちがそうやって訪ねてくるのはよくあることだったのだろう。

午後もだいぶ過ぎていた。敷地のあちこちに生えている喬木のひとつの根方にわたしはバイクを停めた。


ソミエールのダレル邸(ネットから借用)

かなり年季の入った館ヴィラが敷地の中央にある。それはダレルの3番目の妻、フランス人のクロードのものだったが、妻亡きあと、そのまま居住している、というふうに当時のわたしは理解していた。
今、ネットで確かめると、どうやらもう少し複雑な事情があったようだ。
ともかく正面玄関のドアベルを鳴らすこと2回、中に人の気配がしないので、背を向けて石段を降りていった。と、そのとき、背後でドアがそっと開く音がして、白シャツと短パン姿の小柄な男性が半身をのぞかせていた。その背丈は、すでに読み知っていた情報と符合する。
「お邪魔して申し訳ありません」とまずフランス語で言ってから
「You must be Mr.Durrell.」と続けた。
そのとおりだが、という返事を聞いて、わたしは吸いこまれるように石段を引き返し、自己紹介をした。
「あなたの Prospero's Cell を日本語に訳した者です。たぶんご存じないと思いますけど」
「それは知らなかった。ともかく中に入りなさい」
わたしはバイクのところにもどって、鞄から『予兆の島』を取ってきた

2018年10月16日火曜日

ロレンス・ダレルの季節③


1977年の年明け、1年ぶりに帰国し、降り立った東京でそのまま暮らし始めてまもなく、わたしは知り合った人たちに導かれるまま工作舎に出入りするようになった。
すでに「『偶然』という〈觔斗雲〉のような乗り物に乗って」いたのだろう、「自分の身に起こる『偶然』を、当然と言わないまでも、ありがちなこととして受け止めて」いた。(引用部分は以前のブログ記事『偶然という乗り物』より)。

当時の工作舎はちょっとした梁山泊という趣があった。

わたしの「売り」はアイスランド文学だった。
松岡正剛編集長との雑談のなかで、アイスランドの現代作家、ハルドール・ラクスネスの小説 Kristnihald undir Jökli (氷河麓のキリスト教)についてかなり詳しく話した。
1968年に出たその戯曲風作品には、作者が若いころから傾倒していたタオイズム思想が色濃く反映されている。
自身、『老子道徳経』のアイスランド語版(訳者は Jakob J.Smári 1971年刊)の編纂にたずさわり、その小型本 Bókin um veginn『道をめぐる書』に解説を寄せているほどだ。わたし自身、アイスランド大学留学生コースの最終試験のさい、現代文学分野の課題にラクスネスのKristnihaldを選んだくらい読み込んでいた。


松岡氏を相手にそういったことを語れるだけでも楽しかったが、その場で翻訳を出そうということになったのは驚きでしかなかった。1979年にそれが実現した。邦訳タイトルは、編集部で用意した『極北の秘教』。(これについては懸命に意義を唱えたのだが・・・。また、本造りのプロセスも知らないまま、ざわついた舎内の片隅で校正作業を済ませ、結果的に相当数の誤植を見落とすことになった)。






そのあと1980年の秋、「ブリクセン」の問題が起きた。これについては過去の記事『カーレン・ブリクセン承前』でその顛末を明かしている。

さて、ここにいたるまで、なるたけ簡略に述べたつもりだのに、またしても前口上が長引いてしまった。でも、この問題がロレンス・ダレルをわたしのもとに引き寄せるきっかけになったのだから、省くわけにいかない。

編集部の側では「ブリクセン問題」をなかったことにしてしまいたかったろう。だが、当事者のわたしの怒りぶりは自然消滅させられないと見たのか、こんな提案をしてきた。
「あなたの翻訳はいずれ機会を見て出すことにしたい。その前に実績を作っておくのがいいだろう。実はロレンス・ダレルの作品で、 Spirit of Place という興味深いタイトルの本があるのだが、それを訳すのはどうだろう?」
「〈場所の精神〉という言葉自体、工作舎の方向性と合致している」というような説明もあったはずだが、わたしはそういう部分は聞き流していたようだ

そのとき手渡された大部の本に目を通してみると、Spirit of Place というタイトルは、「場所の精神」というつかみどころのないものではなく、明確に「土地の霊ーー地霊」という意味で名付けられていることが判明した。しかも、イギリスの新聞・雑誌の依頼に応じて書いた雑多なエッセーをまとめたものだ。ダレルが一般読者向けにサービス精神を発揮して、ひねりをきかせた雑文を書いてきたこともわかった。が、その内容となると、工作舎が期待しているものとはほど遠い。

「ロレンス・ダレルなら、こんなものよりほかに何かもっといいものがあるはず」
そう言って、わたしはすぐに神保町の北沢書店に出向いた。
そこで Prospero's Cell が、いわば向こうからわたしの胸に飛び込んできたのである。

それは、1945年刊行の初版が新装版になって、1975年、ハードカバーの装丁で出されたもので、しかもその第1刷だった。紙質も、写真ページに使われるような光沢と厚みがある。そのほか、この新装版には巻末に付録が付いていた。初版では当時の事情で入れられなかったエドワード・リアのコルフ島滞在記の抜粋12ページ分である。
この本は、何度かの引っ越しでカバーが擦り切れてしまってはいるが、〈見返し〉の上部に貼られた「北沢本店」のシールは健在だ。

わたしはその1冊だけ買って帰り、吸い込まれるように読み通し、「これは自分が知っている世界だ、自分がこの本の輝きを翻訳して見せなくては」という確信を持った。
翌日には工作舎の親しい編集者に電話して、 Prospero's Cell がいかにダレルの青春の輝きにあふれた作品であるかを、熱に浮かされたように語っていた。
それで十分だった。その場で翻訳を出すと決まったも同然だった。ただし、1975年刊行のものだと版権をとらなくてはならないという事情があり、旧版を訳したことにするという。こちらとしては何の異存もあるわけがない。

原作は地味な装丁の本だが、邦訳版は、ビジュアル面で工作舎の色合いが目立つものとなった。

それにしても、翻訳作業の期間があまりに短すぎた。訳し上げたものは、いったん忘れてクールダウンさせる期間が必要だ。そうでないと自分の文章が、張りついたシールのようにつるつる抵抗なく読めてしまうのだ。
すでに出版されてしまった『予兆の島』の訳文について、どんな言い訳をしてももう遅い。その責めは自分で負うしかない。

その後、わたしは自分の訳を全面的に改訳しており、再出版の望みはかなえられないでいるが、作品の色と香りは健在で、ふとした折り、自分の中で鮮烈によみがえってくる。
それは1982年の秋、南仏の、樹々が鬱蒼と生い茂る館を訪れた日、ムッシュー・ダレルから託された黙約のように思われる。
『プロスペロの岩屋』は、ほら、ここにあります。早まって収穫してしまった果実『予兆の島』を追熟させることができました。

ここでようやく『松岡正剛千夜一夜』というサイトに登場願うことにする。その連載が千夜になる頃まで、わたしもよく読んでいたおぼえがある。だが、今は「松岡正剛社中」といった黒子集団が存在していて、過去の記事を、現在の事情に合うよう書き換えているのだろうか?
ずっと以前、ロレンス・ダレルを取り上げていたなかでは違う言い回しだったと記憶しているが、ともかく現在読める形ではこうある。
「ダレルは場所の精神に富んだ作家でもある。そのことを探りたくて、かつてぼくはダレルの『予兆の島』(工作舎)を選び、これを渡辺洋美に訳してもらった」。

思わず笑ってしまう。こんなおかしな言説も、何度もネット検索に引っかかるなかで、お墨付きをいただいた真実になってしまうのだろうか?あるいは、これもオルタナティブ・ファクトとして通用するのだろうか?

さいわいなことにネットでは、わたしもこうやって(長々しくはあるが)記憶にもとづいて証言することができるのだ。

2018年10月14日日曜日

ロレンス・ダレルの季節②


何がきっかけになるのやら。今、目の前で見聞きしているものから糸筋が放たれ、それが自分の内奥にもぐりこみ、忘れかけていた記憶の断片をたぐり寄せてくる。--わたしはそのような体験をした。
ほんの一昨日のことだ。イタリア文化会館で開催された〈ガラニアス〉一座の公演のさなか、自分の過去の断片が、郷愁をかきたてながら、ひた寄せてきたのだ。
  
その名が「美」を意味するという〈ガラニアス〉。サルデーニャ島の女性たちが中心となって、故郷の伝承音楽を舞台向けにアレンジして歌い、演じてみせるパフォーマンス・グループである。
日本のものでなぞらえるなら、1970年代の佐渡で結成された〈鬼太鼓(おんでこ)座〉といったところか。

〈ガラニアス〉一座の真骨頂は、女性たちがポリフォニーで響かせる地声の歌唱だ。島に伝わる歌の数々と踊りのメロディは、地中海世界各地ではぐくまれてきた香りのエッセンスのように感じられる。
子守歌、愛の歌、死者を哀悼する泣き女の歌。--それらの歌とパフォーマンスのはざまから、わたしに聞こえてくるものがあった。1930年代のギリシャ、コルフ島を描写した文章だ。

・・・・楽師たちを軸に、かぶり物とスカートをなびかせた色とりどりの輪が、ゆったりしたリズミカルな拍子に乗って、行きつもどりつしながらゆっくり回転していく。輪の中央では若者たちが、流れに乗りながらも自由に、テーマを自分なりに変形させた踊りを即興で踊っている。手を腰にあて、頭をのけぞらせ、忘我の表情をたたえて。・・・・

・・・・白づくめの若者は今や完全な不可抗力によって一心不乱に踊っている。頭をのけぞらせ、切れ上がった鼻翼を膨らませている。・・・・栗色の髪が頭上で上下する。片手は腰の赤い帯の上にあり、もう一方の手は指揮者のように思いきり伸ばして、機微に富んだしぐさと調和を表現している。黄と青の衣装の娘の前を踊っている。・・・・若者が娘に届くようハンカチを差し伸べると、その顔が赤らむ。連なる女たちが身をよじらせてカモメのような嬌声を上げる。踊りながら若者はいよいよ近づいていく。娘の方を見なくても、ふたりのあいだに応答と力が流れているのが即座に感じられる。一瞬、娘はうろたえた顔を見せ、それから力強い小麦色の手を伸ばしてハンカチのへりをつまむ。ふたりの上を音楽がうねる。リズムに埋もれ、この決定的な接触によって掛け金を下ろされ、音と行為を共有して、ともに回転しながら、ふたりは輪を描いていく。・・・・

・・・・しろがねのわが子
こがねのわが子
やましぎの胸もとにまさりて
おもてのうぶげのやわらかく
とびかかる蛇より敏さと
しろがねの男はいで立ち
こがねの人は往ぬめり・・・・

 いずれもロレンス・ダレルの『プロスペロの岩屋』より。出版当時の『予兆の島』を、のちに自分で改めた訳から引用している)

前回の記事の冒頭でわたしはこう述べた。
「当ブログの背後には、何とか書いておかねばという思いを背負わされた記憶の種々くさぐさが、亡者の群れのように蠢いている」
ここでまっさきに語っておくべきは、ロレンス・ダレルの『予兆の島』という訳本が1981年、工作舎から出されることになった経緯である。

2018年10月13日土曜日

ロレンス・ダレルの季節①


当ブログの背後には、何とか書いておかねばという思いを背負わされた記憶の種々くさぐさが、亡者の群れのように蠢いている。だが、自分のうちで消化しきれない生の感情など、うっかり吐き出してはいけない。膨らみそこなったホットケーキのように、とうてい食べられたものではない。それをわかっているからこそ、一瞬思い出してはみても、内なる検閲官によって「書くべき時は来ていない」と却下される。

ロレンス・ダレルのこともそのひとつだ。

わたしにとって、ロレンス・ダレルの季節は秋である。この作家の出世作となった『黒い本』や『アレクサンドリア・カルテット』もろくに知らない段階で、どちらかといえば軽く扱われるトラベル・ブックの初デビューとなった Prospero's Cell を自分で発見し、魅了され、翻訳することになったという事情がからんでいる。その本は秋の気配が濃厚に感じられた。

その翻訳を工作舎から出してもらうとき、本来のタイトルどおり『プロスペロの岩屋』としてほしいと主張した。でなければ、せめて『プロスペロの島』と。だが、編集部案の『予兆の島』で押し切られてしまった。

当ブログの過去の記事に『失われた旅行鞄』という1回物がある。その鞄の中には『予兆の島』が1部しまい込まれていて、北欧の北部から延々と小型バイクに乗って南欧にまで至り、ついに南フランスはソミエールに住んでいたロレンス・ダレル氏に直接手渡されることになった。9月のことだった。

そのとき撮らせてもらった氏の写真もそのほかのものも、最終的に失われた。せめて当時の印象だけでも、というわけで、わたしが記憶している氏の風貌をネットの写真群から探してみた。

わたしはダレル氏から「コルフ島に行ったら、この人を訪ねるように」と、メッセージを入れた封筒を託された。こういう経緯がなければ、典型的観光地という偏見もあって、もともとコルフ島に立ち寄るつもりはなかった。ダレルが描いた1930年代の姿はとっくに失せているのだし。

そのときのわたしの旅のハイライトはシチリア島となるはずで、ダレル邸を辞したあと、南仏の海岸沿いの幹線道路をジェノヴァめざして向かっていった。そこの港からパレルモ行きのフェリーが出ているのだ。
ついこの8月、崩落して大惨事となったジェノヴァ市の高架橋、モランディ橋 Ponte Morandi をこのとき通ったはずだ。