そんななかで、工作舎に預けっぱなしになっていた翻訳原稿のことがむやみに気にかかるようになった。編集者は「分量が多すぎる」と言うだけで、読んでくれているようすもなかった。
日が短くなるにつれ、妙に不安がつのるようになった。
10月だったと思う。あるいは11月になっていたか。わたしは工作舎の親しい編集者に頼みこんだ。置きっぱなしになっている翻訳原稿を、手を入れたいからという口実を使って引き取ってきてはくれまいか、と。じつは、ほかの出版社にこの翻訳の話を持ちかけていて、明日そこの編集者と会う約束になっているのだ、と打ち明けた。
少し前、出版社をいろいろ検討した結果、これと決めたのが晶文社だった。わたしの話を聞いて会ってくれるという編集者は島崎勉氏だった。
お茶の水駅近くの喫茶店に原稿の重い包みを下げていき、島崎氏と対面した。話を始めてすぐ
「やはりそうでしたか」と島崎氏は言った。
わたしがブリクセンという作者名で話を持ってきたので、すぐにはわからなかったが、じつはこの作品は、横山貞子という人が訳したものを、アイザック・ディネーセン作として晶文社から出すことが決まっているという。来年の春に出る予定とのこと。さらに、訳者は鶴見俊輔夫人だということも付け加えた。あれこれの話のあと島崎氏はこう宣告した。
「渡辺さんには泣いてもらわなくては」
その日、うちに帰り着くと、雨が降りはじめ、雨足はしだいに強まっていった。
* * *
ずっとのちになっても、わたしはこう聞かれることが何度かあった
「映画で有名になったから、あの本を自分でも訳してやろうと思ったのですか?」
無邪気な人たちだ、自分ならこうするという規準を相手に当てはめて、何の疑問も抱かない。わたしはそう思うだけだが、事の次第は簡単に説明できるものではない。
だから、こうしてここまで書きつらねてきた。ある種の諦念を通奏低音としながら。人は単純な図式とスローガンを好むものだ。
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