ノルウェーの作家、クナウスゴール(1968-)のトーク・イベントが昨夜、ノルウェー大使館で開催された。簡単にメモしておく。
カール・オーヴェ・クナウスゴール『わが闘争 父の死』(岡本健志・安藤佳子訳 早川書房2015)はすでに大部の作だが、まだ全6巻の1巻目にすぎない。海外のベストセラー本によくある重訳ではなく、もとのノルウェー語からの翻訳。
このトーク・イベントにはいい意味で裏切られた。まっとうに本を読んで参加している人たちがこの場を作っていた。
何よりも挨拶に時間を費やされない。
本人が直球の人で、会場も、屈折した文学畑の人がしゃしゃり出てくることはなかった。
対談相手が金原瑞人という米の飯のようなタイプとあって、邪魔にならなくてよかった。最初のぎこちない時間を、にわか勉強で用意したらしき質問でうまくすり抜けたあと、この人の出番はなかった。それがよかった。こういう立場を鷹揚に引き受けられるのはなかなかの人材。
クナウスゴール自身、英語を話し慣れていて、英語⇔日本語のプロの通訳ひとりでカバー。じつに有能な女性通訳だった。文芸分野を得意としているらしい。
文学体験を語らせると、日本ではありえないほど正統派的。彼が25歳のとき、プルーストの『失われた時』がノルウェー語訳されたのをきっかけに読んだ(すでに20世紀末!)、という話はにわかに信じがたいが、それまではデンマーク語訳で済まされていたのだろう。
話題がノルウェーの言語状況に展開しなかったのはさいわいだった。二つの公用語の話になると、歴史、政治、その他の分野に広がることになり、ひとことで説明できるものではない。
フロベールの『ボヴァリー夫人』への心酔など、対談相手はもとより、参加者の大半には意味が感じられなかった様子。
そのほか、彼のつぎの作品が、「物」を項目順に記述していくスタイルをとっていると聞いて、わたしなど「ああ、『紋切り型辞典』の別バージョンね」と思うのだが。
フロベールの『書簡集』を熱心に読んだと、いささかの弁明をまじえながら教えてくれたのがうれしい。なんて素直な人なんだ。
壇上で、堂々たる美男、とお世辞を向けられながら、そんな(どうってことない)属性については意に介しないクナウスゴールも、参加者の質問のはしばしには反応を見せた。「この小説をバロックと見た」、「自分の父が亡くなってひと月後に読んだ」、「雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたあなたの記事の写真にひとめぼれした」など。特にこの最後のものなど、「これで終わりにしてもいいね」などと、満面の笑みで応じていた。
追記)クナウスゴールの今回の本について説明していなかった。これは自伝だ。父の死から始まって、地名も人名も全部そのままで、息苦しいまでに詳細で容赦のない描写が続く。出版後、親族たちの怒りを買ったそうだが、当然だろう。ティーンエージャーの頃は、ヴィスコンティ映画『ベニスに死す』で主役を演じた美少年にそっくりだと言われていたとか。うーん、ぜひ見てみたかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿