変身したグレゴール・ザムザには、日常のすべてが途方もない難儀となる。そのこまごました描写をたどるだけで、読んでいる身も疲労感や焦燥感に襲われる。
そういえば、この感覚は別の本で体験したような。すぐに思い当たった。またもやヘレ・ヘレだ。『犬に堕ちても』の次作にあたる『これは現在形で書くべきことなのに』という作品だ。
この小説の舞台は1980年代のコペンハーゲンと、その近郊になるシェラン島中南部の田園や町。主人公は21歳のドーテ。前作『犬に堕ちても』の主人公が42歳の作家だったのと好対照をなす。年齢は半分だし、まだ何者でもない。
これまで書きためてきた原稿を破棄し、古着を山ほど捨てて、両親の家を出ていく場面から「わたし」の語りが始まる。4月。電車でコペンハーゲン大学に通うため、郊外電車の途中駅のすぐ脇にあるバンガローを借り、ひとり暮らしを始めたところだ。
だが、不調を脱しきれていない精神状態にあって、やるべきこともできないでいる。
そういう現在は、過去の記憶をよみがえらせる受け皿のようなものだ。ドーテは1、2年前にかかわってきた人々のことや当時の生活についてひんぱんに回想する。(むしろそれが色彩豊かなドラマとして展開していく)。
彼女は今、蛹の状態にある。回想の幼虫時代は生命力にあふれ、陽射しを楽しみ、暮らす樹(家、ボーイフレンド)を変えて、最後に徹底的に傷つく。
現在は蛹状態で動けないでいる自分の身を持て余しているように見える。まるで変身したグレゴールみたいだ。読んでいて疲労をおぼえる。
だが、蛹の内部には少し前の幼虫時代の豊かな養分がつまっている。だから蛹から脱皮、羽化して飛ぶ能力を得たら、ありきたりの蝶になりはしないだろうと予感させる。
じつはわたしはこの作品をすでに翻訳している。そして出版社2社に断られている。それでもまだ、だれかの目に止まらないともかぎらない、と希望をつないでいる。
グレゴールの話題から横すべりしたせいで、必要以上に重くて暗い印象を与えてしまったかもしれないので、急ぎ付け加えておく。前作の『犬』はそこはかとないおかしみが読者を楽しませ、作者の面目躍如たる色合いを見せてくれていたが、こういうおかしみは『現在形』でもやはり健在だ。しかも、ずっと軽妙でカラフル。いい季節が多いせいか、明るい空気に満ちている。
ミニマルな描写はインディーズ映画を思わせる。
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