小説『犬に堕ちても』を訳していると、やはり「島」について考えることになった。デンマークで人々が暮らしているのは何十もの中小の島々であり、加えて山というものが皆無とあっては、島で暮らしているという意識がいつも心のどこかにあるだろう。
デンマーク語ではØというアルファベットの1音だけで「島」という意味になる(音はオとエの中間)。
ところで漢字の「島(嶋)」は、渡り鳥が休む海の小さい山のことだという。
それならØは、海上の小さな陸地を鳥が渡っていく形態を表している――と言ってみたくなるが、冗談はさておき、わたしにとって「島とデンマーク人」はちょっと手放しがたいテーマなのだ。
『犬に堕ちても』の主人公は家出してきた女。知らない海辺の寒村でバスを降りたのも、その入り江のすぐ先に小さな島を見かけてのことらしい。何とも心もとない状況から救い出してくれた人たちにふともらすのだ。「あの島に渡りたいのだけど」。
わたしとしては「キター!」というところだった。21世紀になってもやっぱり自分の心を島に託すデンマーク人がいるというわけで。
60年前、デンマークで話題になったマーティン・A・ハンセンの小説が「島とデンマーク人」の好サンプルと言っていい。主人公は「砂島」という小島に聖職者兼教師として赴任してきた男。ここで島の湖に浮かぶ島に自分を託すのだ。彼はそこそこのインテリでもあり、「人は島ではない、大陸の一部だ」という有名なフレーズを意識している。
Martin A. Hansen: Løgneren. 1950 より |
「人は島ではない。丸ごとひとつの島であるわけがない。だれしも大陸の一片、大きなものの一部だ。波に土をさらわれたら、大陸はそれだけ小さくなる。岬だってそうだ。自分の地所も、友人の土地も。ひとり亡くなるたびに私も小さくなる。私とて人間のはしくれなのだから」。このあとに続くのが例の有名な言葉だ。「だから知らせてくれるな、だれのために鐘が鳴っているのかと。あれはわれわれのために鳴っているのだから」(ジョン・ダンJohn Donne1572-1631『瞑想録』17より)。
ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』のタイトルの出どころということもあって、この一節はともかく忘却をまぬがれている。
わたしの古いメモに、目を通しておきたい島関連の本の名前が書きつけてある。ジャン・グルニエの『孤島』(井上究一郎訳・筑摩叢書)。読んだはずだのに内容を思い出せない。さっそく図書館にリクエスト。そのすぐあと、新刊書案内で紹介されている本に目を奪われた。旧東ドイツ出身のユーディット・シャランスキーという人の『奇妙な孤島の物語 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』(河出書房新社)。訳者はゼーバルトを訳している鈴木仁子。これは食指をそそる。
過去は現在の何をつかんだらいいか、みずからわかっているようだ。
そんなこんなで「過去の棚卸し」というこのブログの屋台骨は早くも揺らぎはじめている。
当ブログの初日、わたしは「翻訳する過程で意外な事実を発見したり、奇想にいざなわれたりする」と述べたが、絵本作家ドゥシャン・カーライの絵もそのひとつだ。たぶん2011年のことだと思うが、板橋区立美術館で開催された絵本原画展でこの絵葉書を買い求めた。あらためて見ると目が離せなくなった。
空想の島。鳥の背に乗る主人公の男の子を取りのけると、『犬に堕ちても』の主人公の女にまつわる要素が見えてくるのだ。孤島、生い茂る常緑樹と見紛う厚ぼったい緑、大きな箱、ベンチ、棺桶。といって、そこから何か有益な知見がもたらされるわけではない。
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