2016年3月28日月曜日

カーレン・ブリクセン⑤ブリクセンとの出会いからさらに

もうそろそろブリクセンの話題をひと休みして、最近の映画のことに移りたいのだが、ゆきがかり上、もう少し続けることにする。

前回のものと話が前後するが、わたしのもとにブリクセン会議への招待状が突然届いたのは、1996年もだいぶ過ぎた頃だった。すでにプログラムの概要もできていて、講演者一覧のなかにわたしの名前が入れられており、当方のあずかり知らないタイトルまで掲げられていた。
"Karen Blixen in the Japanese Cultural Context"(日本の文化背景におけるカーレン・ブリクセン)

結局、このタイトルを変えることなくレクチャー原稿を練り上げることになった。
さいわいわたしは研究者の立場にないので優等生的態度をとるつもりもなく、自分自身の経験を織りまぜることをためらわなかった。自分だって日本の文化背景の一部ではないか、と。そして冒頭に山室静訳『ノルダーナイの大洪水』のエピソードを持ってきた。このレクチャーの内容についてはまた別の機会にでも。
(ところで山室静といえば、わたしの子供の頃はすっかりおなじみの名前だった。わが家では講談社の『少年少女世界文学全集』をはじめ、家庭向けの外国の翻訳本をよく買ってくれていて、北欧のいろんな話の訳者として山室静の名前が作者の横に並んでいたものだ)。

そうそう、わたしはいかにしてブリクセンと出会ったかということだ、今日の話題は。

出版当時の『ノルダーナイの大洪水』は、自分にとって出会いとはならなかった。それ以前に大阪外大の文学史の授業で教えられた名のみに等しいブリクセンもそうだ。アイスランド大学では、最終学年度にデンマーク語専攻1年生の授業にまぜてもらって、ほかの学生たちといっしょにブリクセンの物語を読んだ。でも、これも出会いとはほど遠かった。

本当の意味でブリクセンと出会うには、自分の経験を凝縮したものに十分苦みがゆきわたるまで待たねばならなかった。その苦みがまわりの世界に新しい風味を加えてくれた。物事を味わう味覚がいくらか発達してきたということか。
そんな新しい味覚でもって、わたしは英語版『アウト・オブ・アフリカ』を、自分の経験したもののように読み、さらに、それを翻訳する資格が自分のうちにあることを実感した。

本格的に翻訳にとりかかったのは、アイスランドの作家ハルドール・ラクスネスの小説を工作舎から出してもらったあとだから、1979年のはずだ。まず英語版から訳し、そのあとデンマーク語版『アフリカ農場』をたどって全面的に改訂していくと、最初の訳に深みと奥行きができていった。より鮮明になって、陰翳がきわだってきたといえるかもしれない。

ともかく現実には、この翻訳原稿は工作舎に置きっぱなしにされていた。

1980年前半をヨーロッパで過ごすためコペンハーゲンに向かった。そこは自分のハブ空港のようなものだった。そこに着いて、そこからあちこちに出発していく。
まずは友人のつてで市内に落ち着き場所を見つけてもらって、ブリクセン関連の文書をあさり、古本屋の買いまわりをした。当時は本当に古本屋が多かった。古い中心部の狭い石畳の小路では半地下や中二階の小さな店が、足の位置、目の位置になる窓辺に本を置き並べ、誘いかけていた。大きな店となると、棚が迷路のように上下階に拡散し、行き場を決めてもらえない本がただ山積みになっていた。

デンマーク滞在を終えると、友人のいるアテネに向かい、そのあと、インテリ連中といっしょに夏を過ごすという旧友のいるパトモス島へ、途中ミコノス島やデロス島を経由しながら、ゆるゆると船旅をした。
そうだ、パトモス島でデンマークの詩人ヘンリク・ノアブラント氏に出会ったことを書いておきたかったのだ、結局。

ブリクセンと取り組むようになると、いろんな引用の出どころを調べる必要ができた。『アウト・オブ・アフリカ/アフリカ農場』では、本の冒頭にかかげられたラテン語の句の出典がつきとめられず、大きな課題となっていた。そのラテン語の句を、博学で鳴らすヘンリクに見せて聞いてみた。彼のほうでもその句にはおぼえがなかったが、
「内容からすると、ペルシャのことを言っているようだな。ホラティウスかもしれない」と示唆してくれた。

帰国してからのこと。このホラティウスから派生して、ヘロドトスの『歴史』(松平千秋訳・岩波文庫)を選ぶことになり、読み進むうちに行き当たったのだ、あの引用句の内容そのままの一節に。まちがいなく、これが引用句の出どころだ。だが、ブリクセンの引用しているのはラテン語であり、だれがヘロドトスをラテン語で引用したのかはいまだにわからない。
とはいえ、この発見はまさにスクープだった。デンマークにはブリクセンの研究者があまたいても、この出どころをつきとめた人はいなかった。
1997年の翻訳者会議で、ジュデス・サーマン氏にこの出典を教えてあげられたのは、わたしのちょっとした自慢である)。


そんななか、工作舎に預けっぱなしの翻訳原稿のことがむやみに気にかかるようになった。編集者は「分量が多すぎる」と言うばかりで、目を通してくれるようすもなかった。

Henrik Nordbrandt (右の人物) 1980年4月 パトモスにて ©イタロ

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