2016年6月30日木曜日

黄毛のアン(1/3)

映画『ライアンの娘』はメロドラマにはなりえない。登場人物のいずれもが自分に忠実であるだけだ。それがドラマとなるのは、当時の歴史背景という不動の骨組みに支えられてのこと。だから、素朴なストーリーでありながら、重厚な印象を焼き付けられるのだろう。
時代はちょうど百年前の1916年。第一次大戦のさなかで、アイルランドの宗主国イギリスはドイツを相手に戦っている。すでにこの年、アイルランド義勇軍がドイツの支援のもと、独立に向けて蜂起し、英軍に鎮圧されて終わった。アイルランドの南、海辺の小さな村でも、反英闘争に参加する若者たちが、荒天のなか、ドイツから密輸した武器を陸揚げしようとしている。

映画についてはここまでにして、アイルランドがどれほどドイツとの結びつきを重視していたかを課題にしてみる。
敵の敵は味方、という公式をもってすると、アイルランドが、敵たるイギリスの敵、ドイツと結びつくのはわかりやすい。おまけに隣人として付き合う必要がなければ、相手の「あばた」が気に障ることはない。
加えて、アイルランド語(ゲール語)には気息音があり、ドイツ語のバッハやイッヒなどでわかるとおり、その音はきわだって聞こえる。しかもひんぱんに出てくるので耳障りといえなくもないが、アイルランド人がドイツ語に親しみを感じても不思議ではない。
そういうあれこれが重なって、アイルランド人はドイツ贔屓と思えふしがある。(これはドイツとドイツ人を知らない場合にかぎってのことだ。現実には、寝坊のアイルランド人と早起きのドイツ人がうまくやっていけるとは思えない)。

というところで、「黄毛のアン」のことを語るきっかけができた。

1973年、わたしはアイスランドでの学業を無事に終え(学位を取得して)、その夏いっぱいヨーロッパで過ごすことにしていた。まず最初はコペンハーゲン大学の外国人向けデンマーク語コース。クラスにはフランス人の翻訳家がいたりして、学ぶというより、各自の体験をデンマーク語を介して楽しむ活気ある場だった。それも最後の数日を残したまま、わたしはデンマークを離れねばならなかった。すでに申し込んであったハイデルベルク大学の夏期ドイツ語コースが始まるのだ。

ハイデルベルクには朝到着する列車でたどりつき、大学事務局へ行って、わたしはようやく自分に割り当てられた滞在先を教えられた。
それは二人の育ち盛りの子供のいるドイツ人の家で、妻は看護師、夫は医療検査技師として働いている。じきわかったことだが、一家は毎年夏、外国人女子学生を二人寄宿させ、その間、ヨーロッパの南をめざしてキャンピングカーを引いていって、そこに長逗留してバカンスを送るのだ。留守中の家をみてもらい、その間の家賃もいただくという、じつに合理的なやり方だ。その夏の彼らの行き先はサルデーニャだった。
翌日、もうひとりの寄宿人が到着した。アイルランドのゴールウェイ出身のアン・L。年齢はわたしと同じくらい、小柄なこともわたし並だったが、農家の生活で身についた落ち着きとたくましさとが感じられた。ゴールウェイ大学の夜間コースでドイツ語を学びはじめたところだという。

ホスト・ファミリーは数日かけて、家の内外のこと、町なかの店やそのほか知っておくべき場所のこと、さらには、訪れるべきビヤホールの名前をわたしたち二人に伝授してくれた。やり手で熱意にあふれる妻は、頭の上にいつでも気遣いの雲をむくむく湧かせているかのようで、ともかく何でも話してくれた。
「上の娘は利発だし、ここのアメリカン・スクールに行かせているのだけど、下の息子ったら、小学四年になるのにまだ子供っぽさが抜けてなくて、この秋、進路を決める大事な試験を受けなきゃいけないのに、これじゃ、職業コースに行かされてしまうんじゃないかと心配で」
毎夏、留守番をつとめる女子学生二人の国籍選びも、彼女の判断によっていた。
「今年は日本人とアイスランド人ってリクエストしておいたんだけど、アイスランド人の女子はいなかったので、学生課のほうで気をきかせて、アイスランドに留学してた日本人とアイルランド人を選んでくれたってわけ」

のちにある友人にこの話をしたら、
「そりゃ幸運だった。アイスランド人に留守番をさせたら、どんなことになるか知らないんだな、その人たち。ドイツじゅうのアイスランド人を呼び寄せて、夜な夜な宴会オージーをやらかしてたよ」

さて、愛すべきアンのことだ。ブロンドになりそこねた芥子色といったらいいのか、黄色系の明るい色の髪は短めで、地味にかわいい印象を与える女の子だった。彼女がドイツのサマーコースにやってきたのは、婚活の領域を広げるためであることはじきに知れた。それだって、話のはしばしから察せられる程度のほほえましいものだった。
ホスト・ファミリーの妻が、「彼女、ずっと田舎暮らしで、人ずれしてなくていい娘なんだけど、ちょっと心配なのよ」と評したのは、わたしには余計な心配のように思えたが、これまで数多くの若い外国娘と接してきて、なかには羽目をはずして困った事態におちいるのもいたのだ。


それから一家はキャンピングカーとともに出発した。帰宅は、サマーコースが終わる数日前になるとのことだった。
留守宅を自由に使える女子たちからすると、「ヒャッホー!!」という気分だった。

それでなくてもハイデルベルクは人気の観光地だ。町なかは、観光客に加えて、町の大学、語学学校の夏季講習で滞在する外国人学生であふれていた。若い外国人だらけの場所は、征服感にも似た高揚した空気を漂わせていた。そもそもわたしはなぜドイツ語学習のためにハイデルベルクを選んだのか、今ではさっぱり思い出せない。
当然のようにわたしは初級クラスの授業を受けたのだが、アイスランド語とデンマーク語を身につけたあと、ドイツ語は自然に体に流れ込んだ。動詞の不規則変化は自分ですでに知っているとしか思えなかった。

そういうわけで、授業に出たあとは、何のわずらいもなく、町のあちこちを訪ねて回った。エクスカーションも用意されていた。アンといっしょに行くことが多かった。夜、町のビヤホールに出かけることで、いつもアンとわたしの意見は一致した。
(次回に続く)

2016年6月27日月曜日

映画『ライアンの娘』

前々回(1971年の北アイルランド)から続く。

いくらなんでも出来すぎだった、あの場面は。映画の撮影現場だと言われれば納得してしまいそうだった。英国軍が駐留する町デリーの、見るからに貧しいカトリック系住民地区に、これみよがしに監視ポストが設置され、英国兵の歩哨が立っている。そこへ地元の若い女が駆け寄ってきて、ふたりはひしと抱き合う。その姿を、住民は険しい表情で見ている。
ずっとあとになって思い起こしたとき、そこには単なる宗教の対立にとどまらない愛憎のこじれようが見てとれた。アイルランド問題が解決にいたらないのは、カトリック、プロテスタントのそれぞれが、宗教的信条で外部に対する守りを固めておきながら、その内部では愛憎感情を無防備なまでにはぐくんでやまないからではなかろうか。

この時のことを鮮明な図柄としてありありと思い出し、それが記憶にしっかり焼きついて離れなくなったのは、のちに観た映画のおかげもある。

東京に住み始めてわたしは映画フリークとなった。いわゆる名画座が全盛の時代で、2本立て、3本立てで近作、旧作がみられる。しかも低料金だった。だから、予備知識もないまま、目の前の映画の流れにともかく身をゆだねることもよくあった。すると、それが思いがけない佳作だったり、そうでなくても何らかの「発見」があったりして、知的快感を呼び起こした。車窓の外の景色を飽かず眺めて楽しんでいられるのと同じだ(少なくともわたしに関しては)。

ともかく、向こうからやってきたというしかない。そんな遭遇のしかたであの映画に出くわしたのだ。
とある名画座に行ったのは、観たい作品があってのことだった。館内の暗がりに足を踏み入れたとき、併映作品がまだ終わってなくて、最終シーンを映し出していた。今よりかなり古い時代、数人の男女が荷物を抱えて街道を歩いていく。その一行を、道沿いの家々の住人が外に立って、あるいは戸口や窓から顔をのぞかせて、憎悪もあらわに見送っている。
「ああっ、アイルランドだ!
わたしは声にならない声を上げた。デリーで目撃することになったあの場面が、そのシーンとかっちり合わさった。

まさしくそれはデヴィッド・リーン監督の『ライアンの娘』、独立前のアイルランドを舞台とする映画だった。
アイルランド南部の寒村を舞台に、自分の境遇を物足りなく思っている人妻ロージーは、赴任してきた英国軍将校と恋に落ちる。その頃のアイルランドは、イギリスから独立する企てが鎮圧されて終わり、まもなくアイルランド独立戦争が起きようとしている緊迫した時期である。ロージーはアイルランドに対する裏切り者とみなされ、村人たちから制裁を加えられ、最後に、妻を気づかう夫とともに村から出て行く。あの憎悪にみちた視線に見送られながら。


この監督による『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』といった作品は、見逃すわけにいかない歴史的大作だった。だのに、1970年に公開された『ライアンの娘』がわたしの関心を引かなかったのは、あるいはメロドラマ臭ふんぷんの宣伝イメージに拒否反応が働いたせいだったか。

2016年6月26日日曜日

ソ連崩壊の頃を思い出す

国民投票ではイギリスのEU離脱が勝ちを決めた。やっぱり投票日を夏至の時期にしたのがいけなかったのかしら。一夜明け、真夏の夜のおかしな夢からさめてみると、とりかえしのつかない現実を前にして、おおぜいが二日酔いの頭を抱えこむことになった。
それ自体は手続き上の案件として、進めてゆけるだろう。ところが、今さらながら、世界中があわてふためいている。
イギリスのEU離脱の心理的影響たるや、満ち潮のようにふくらんで、しかもそれが引いていく気配がない。何よりも、ほかの国の離脱をうながし、EU参加国内の民族独立までうながして、それが今後、どれほど大きな問題となることか。

とっさにソ連崩壊の時のことが思い浮かんだ。不本意に国家に組み込まれていた民族集団が、1991年のソ連崩壊を機に、つぎつぎと自己表明を始め、それがその後長く続く紛争へと発展していった。
この崩壊はもちろん国民投票のように一夜にしてなったものではない。当時の共産党書記長ゴルバチョフの進めてきた改革路線によって、それまでの軛くびきが解かれていくなかで起きたのだ。ソ連が東欧の国々に対する支配的立場を降りてまもない1989年、ハンガリーがオーストリアとの国境を開いた。そのすぐあとポーランドが選挙を実施して「共和国」になった。
ちょうどその時期、わたしは夫といっしょにハンガリーをめぐっていたこともあって、当時の歴史的変動を垣間見るという体験をした。

以前このブログで書いたように19896月、わたしはコペンハーゲンから列車でブダペストへ向かっていた。ハンブルクで乗り換えたウィーン行き寝台車では、コンパートメントの相客は女性二人だけ。窓際にすわるひとりは、卓の上に書類の束を置いて、いかにも仕事中というふうに、印刷文字の埋まった紙面にペンでチェックを入れていた。これから本になる原稿のゲラを点検しているように見受けられた。いつのまにかこの人とのあいだで会話が始まった。わたしがこれから行くハンガリーのことを話しているうちに、当然、トランシルバニア問題の話題になった。そこで紛争が起きていることは、わたしも承知していた。

「このトランシルバニアについて、日本の報道ではどうもよく理解できないでいるのですが」
わたしの手の内がゼロに近いと見たのか、彼女は諄々と説いてくれた。ルーマニアの西のトランシルバニア、ハンガリー語でエルデーイですね、ドイツ語ではジーベンビュルゲンと呼ばれ--これは「7人の町民」という意味の奇妙な地名なのですが(ここのところは彼女の説明そのまま)--過去にドイツ人が植民に入ったこともある土地です。近年までハンガリー領だったこともあって、ハンガリー人が多く住んでいます。そこへルーマニアのあの独裁政権が、自国の経済破綻をとりつくろうため、トランシルバニアで農業再編をするとかいって、村々の農民を強制的に立ち退かせているのです。ハンガリー系が多数いることから、国際問題になっています。

ブダペストで夫と合流し、レンタカーで国内を移動して回った。そういうなか、民俗音楽祭があるとの情報を頼りに訪れたのが、ルーマニア国境に近い町セゲド(Szeged)だ。音楽祭は学校の施設を借りて、地元民が練習してきた合唱や踊りを披露するという、ローカルでなごやかなものだった。催し事のにぎやかしには欠かせないジプシー・バンドも、金管楽器の派手な音を響かせていた。

そこでわたしたちの回りに人々が集まってきた。すぐそこのエルデーイでわれわれの同胞たちがどんなひどい目にあっているか、と口々に訴え、日本に帰ったらぜひつたえてほしい、と言った。

ハンガリーでは巨大なキャンプ施設に泊まったこともある。
その年日本で、刻々と展開していく東欧の政治状況を追いながら、自分たちもあの場に居合わせたのだと、あらためて思いをいたすことがあった。
あの夏、ハンガリーに東ドイツから人々が静かに流入していた。かたくなに国を閉ざしていた東ドイツも、同じ東欧圏内なら移動ができたので、嗅覚のはたらく東ドイツ人がまっさきにハンガリーに入って、キャンプ生活をしながら、オーストリアとの国境のようすをうかがっていたのだ。
八月、事のなりゆきは、痛快な大脱走劇といっていいあざやかな展開を見せた。それは一見のんびりしたピクニック気分以上のものではなかった。ところが、オペラの大団円のように、クライマックスに至って当事者たちの役柄が一挙にフィナーレになだれこんだ。オーストリア側に設けられた鉄条網は勝手に壊れる、国境のゲートは勝手に開く、バスが運んでくる東ドイツ人たちがスキップしながら国境を越え、オーストリアに入っていくと、そこには西ドイツへ向かうバスが待機している、といったぐあい。「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれる政治ドラマである。

その年の終わり、ルーマニアの独裁者が妻とともに人民裁判にかけられ、その場で処刑されるという陰惨な出来事もあったが、東欧諸国の民主化は予定されていたように進行し、巨体ソビエト連邦の崩壊へとなだれを打って進んだ。


あの時代のヨーロッパはどれほどわかりやすかったことか。
今のハンガリーは南のセルビアとの国境に長々とフェンスを作って、押し寄せてくる難民を阻止しようとしている。

2016年6月21日火曜日

1971年の北アイルランド

雨雲が空中で雲散霧消してしまうのか、東京では、予報に反して降らない日が続いている。梅雨のさなかの夏至の宵、満月が昇ってくるのが見える。気象の変動の範囲内ではあるのだろうが、えがたい僥倖。一年でいちばん長い日の日没と月の出を拝めた。

イギリスのEU国民投票の日が夏至の時期に設定されたことについては、何らかの深慮があるのだろうか。少なくとも冬季よりは人々の気分は明るく、肯定的な判断を下しやすいはずだ。

少し前、イギリスの元首相、メージャーとブレアの二人が手に手をとって、EU残留を訴えるため北アイルランドを訪れた。
そんなことをしなくても、北アイルランドがEU残留を選ぶのは確実だ。でも、仮にイギリス全体で離脱ということに決まったら、地続きのアイルランド共和国との和平合意が危うくなる、と広く訴えている姿勢はわかる。共和国への帰属を求める北のカトリック系住民と、ブリテンにとどまりたいプロテスタント系住民との軋轢が長く続いたあと、ようやく念願の和平にこぎつけたのだから。

1971年夏、北のテロが激しさを増す直前、わたしはアイルランドに足を踏み入れることになった。紛争の起きている地域を旅するだなんて、今思えば、無知が無謀を呼び寄せたと言うしかない。

アイスランド大学での初年度が終わって、長い夏休みに入ると、わたしはすぐに始められる仕事についた。魚を輸出用に加工、冷凍する現場、早い話が魚工場だ。扱うのはタラやオヒョウといった大型魚が大半で、専用の機械の内部で頭と内蔵と骨を取られて出てくる半身を、計量しながら箱に詰める作業がひたすら続く。これはヨーロッパ向けだ。頭を取らずに丸ごと箱詰めするものはソ連向けだと聞かされた。
何の技量もいらない単純作業が進行しているなかに、特別な区画が設けられていた。アメリカ合衆国向けにヒラメの薄切りを仕上げる作業場だ。フィレから小骨と寄生虫をピンセットでとりのぞき、ラップでくるんで小箱にこぎれいに詰めるのは、熟練を要する仕事だった。

わたしはそうやって夏を過ごす資金を稼いだ。その夏、ヨーロッパを旅して回るつもりでいた。(あの当時、日本は個人の外貨持ち出し制限をしていて、上限が1000ドルに引き上げられたのが前の年のことだった)。
アイスランドから空路でいちばん近い「ヨーロッパ」の都市はグラスゴー。大まかな移動計画はできていた。スコットランドから北アイルランドに渡り、ダブリンを経由して、イギリスに入り、ふたたび海路で大陸に到達したら、ユーレイルパスを利用して移動して回るのだ。


灰色じみたグラスゴーの町を早々に退散し、ベルファスト行きの船に乗った。そこで北アイルランド案内の冊子を手に入れて、ようやくわたしはめざすべき場所を見つけた。ラウンドタワーだ。アイルランドでバイキングの襲撃と略奪が繰り返されていた10世紀前後、財宝があるとして狙われた僧院では、襲われたら逃げ込めるよう、円柱型の石造りの塔を建てた。それらが湖の中の島にまだ残っているのだ。わたしの「島好み」感覚が大いに刺激された。

ベルファストに着くなり、酔っぱらいに遭遇し、早くそこを退散せねばと、その日はロンドンデリーに向かうことにした。無知な旅行者は知らなかったが、このデリーこそ、激しい紛争地のひとつだった。
その日の宿を決めたあと、ただ歩いて回る能天気な旅行者は若いアジア系の女で、朱色のレインコートを着ている。これが当地でどんなに雑音となったか、あとになって思いめぐらすことになった。すれちがった若いイギリス兵がトランシーバーに向かって 'A young lady warns us' と言うのが聞こえた。当今なら自爆テロ予備軍と疑われたろう。無知な者にはそれが高揚感をもたらした。

町を分けている川の端へ降りていくと、並木の植わった川べりに監視ポストが設けられ、歩哨が立っているのが見えた。
夕方のその情景は、映画のような構図を作り出していた。並木のあいだの監視ポストにさしかかったとき、そこへひとりの若い女が駆け寄った。と思うまもなく、歩哨の男とひしと抱き合った。上と下の二人は70センチくらいの段差があったろうか。女がせいいっぱい伸び上がったところを、男が思いきり身をかがめて抱きすくめた。決定的かつ劇的な抱擁。
つぎの瞬間、川べりの道路ぎわに並ぶ家々にわたしの注意が向いた。長屋のように隙間なく並ぶカトリック地区の家々が、文字どおり目玉と化していた。窓辺のカーテンの隙間から、半開きにした戸口のあいだから険悪な視線を送り、あるいは腕組みして歩道に立って、地区の女たちが、目の前の光景を憎々しげに眺めているのだ。英国兵と通じるなどという許しがたいまねをする娘に対して、最大級の侮蔑を送っていた。絞り出される愛憎の炸裂。
そこが異邦人のいるべき場所でないことは即座に理解できた。

(この項、次々回(映画『ライアンの娘』)に続く)

英-EU離脱か残留か

気になってしかたなかった、この問題。イギリスがEUを離脱するか残留するかを決める国民投票が間近に迫った。
ここで政治問題に立ち入るつもりはない。個々の立場のイギリス人が、それぞれもっともな理由で残留・離脱を表明しているのを涼しく見聞きしているまでである。
だが、そういう情報とともに、あの国のこととなると、いろんな時、さまざまな場所での記憶がよみがえってきて、心おだやかでいられなくなる。

イギリス在住のフォーク歌手、ペギー・シーガーは定期的にメール通信で発言し続けているが、さすがに今日は自分の立ち位置を表明することになった。

Hello all - I’ve received a lot of concerned emails from varied sources and most of them wanting to know my take on the referendum.
I am voting REMAIN. There was never any question in my mind of leaving the European Union. As the last few weeks have moved toward the outrageous murder of Jo Cox, it has become even more obvious that the Brexit campaign is not only creating fears then playing upon them but it is attracting more and more of the kind of organisation and the kind of thinking that has no place in our 2016 UK.
So - I’m IN.  

ジョー・コックス議員殺害の件に触れながら、はっきりと「残留」を表明しているのだ。



ペギー・シーガー自身、生粋のイギリス人ではない。もともとアメリカで生まれ育った。シーガー一族といえば、アメリカの民俗音楽を再生させ、北米のフォーク音楽全盛のうねりを作ったことでよく知られている。
ペギーの両親は音楽家であり、アメリカの民衆音楽を掘り起こす仕事では先駆的役割を果たしたという。
この一族で圧倒的に名前が知られているのは、ペギーの異母兄にあたる歌手のピート・シーガーだ。1960年代のフォーク・リバイバルを牽引し、社会を動かすほどの影響力を発揮した。『We Shall Overcome』が世界で歌われていた時代は、今では信じられないくらい世の中に信頼感があふれていた--そう痛感せずにはいられない。

ペギーはと言うと、スコットランド人のフォークシンガー、ユーアン(イワン)・マッコールと結婚し、ずっとイギリスのフォークミュージック界で活動してきた。彼女がイギリス国籍を得ていることなど、こんな機会でなければ、話題にもならないだろう。

それはそうと、「生粋のイギリス人」などというものは、その神話を信じる人の頭の中にしかない。

わたしは1980年代、いろんな音楽をつまみ食いするうちに、ヨーロッパのフォーク音楽世界に迷い込むことになった。
こまかいことはさておき、ロンドンでは「フォーク・クラブ」でおこなわれるライブをはしごした。そういうなかで、ユーアン・マッコールとペギー・シーガーのライブに遭遇した。
「フォーク・クラブ」というのは、民衆音楽に賛同するパブが自分の店で催すライブの場、と説明しても、どうもわかりにくい。日本のひと昔前の「歌声喫茶」と、「民謡酒場」と「カルチャー・センター」をいっしょにしたもの、といえば何とかイメージがつかめるのではないか。

そのパブはたしかEmpress of Russia という名前だった。店の2階で催される音楽のつどいには、けっこうインテリが集まっていたように思う。
ともかく、そこで重鎮格のユーアン・マッコールが民衆歌を披露した。妻ペギー・シーガーの弾くバンジョーやギターがその歌を相手にたわむれる。マッコールはいつもながら、片手を耳にあて、目をつぶって歌に没入している。そこには楽器の伴奏など不要だ。ことにあの大味な音色のバンジョーは。だが、ペギーはバンジョーの単純・単調な分散和音で介入してくる。彼女の歌う声は、ピンピンに張ったスチール弦のようにきつく、叱りつけているみたいだった。かわいそうなマッコール。
彼が亡くなったのは、その後まもなくのことだった。



2016年6月2日木曜日

バロック音楽とアイリッシュ

音楽に恵まれた5月の最終日、イタリア文化会館でのバロック・アンサンブルが、わたしにとって締めのコンサートとなった。〈アカデミア・ヘルマンス〉という、ウンブリアで活動しているグループから、バロックチェロ、木管フルート、チェンバロのトリオが参加。ヴェネツィア学派のヴィヴァルディ、アルビノーニ、マルチェッロ兄弟といった代表的作曲家の作品を、緊密な演奏の掛け合いで展開してくれた。

バロック音楽など、ずいぶん昔に食傷し、わざわざ聴くこともないと思っていた。ところが、蝶の群れがひらひら飛び交うような音空間のなかにいるだけで、ひたすら心地よさにひたることになった。
BGMとしてむやみに流されるせいで、バロック音楽全体に、なめらかでつるつるした新建材のようなイメージができてしまったが、ほんらいは演奏ひとつで風合いが変わるものだ。

アンコールで3人はちょっとした遊びを披露してくれた。さきほど弾いた楽章を、ビートの効いた演奏に変え、チェンバロの底を太鼓がわりに打ち鳴らして、ダンス曲に仕立てたのだ。ずっとこの調子で演奏してくれてもよかったのに。とはいえ、これが定番になったら、また飽きられるだろう。


アイルランドの伝統音楽の数あるバンドのひとつ、デ・ダナン(De Dannan)は、ダンス曲をバロック風にアレンジして圧倒的な人気をえた。当時としては斬新そのもので、アイリッシュ音楽流行りの波の先端に乗っていた。そのバロック風アイリッシュも、今となっては一過性の技法にすぎなかったのかもしれない。

DeDannan - Arrival of the Queen of Sheba