2017年1月31日火曜日

学校教師という馬鹿者

穏やかならないタイトルだ。
舞路愚と称するわがブログであるからして、ここで何かを唱道しようなどというつもりはまったくない。

急ぎ出典を掲げておくと、先賢の知恵の集大成ともいうべき『千一夜物語』である。より詳しく言うならば、マルドリュス版の第576夜から第615夜にかけて語られる『ハサン・アリ・バスリの冒険』。そのなかで、学校教師が無能鈍重の馬鹿者だと言われているのだ。(佐藤正彰訳・ちくま文庫)

ただでさえ、入れ子の構造がストーリーをきらびやかに(あるいはややこしく)している大部作である。その一部分をつまみ食いするのは無粋であることは承知のうえで、とりあえず入り組んだ構造をはしょって、大筋を述べておくと--


昔、中央アジアのあるところに噺好きの王がいて、ありとあらゆる物語と冒険談を聞き尽くしてしまった。それでもまだ新しい噺を渇望してやまず、おかかえの噺家に、これ以上噺を聞かせられないなら死でもって報いてやると脅す。
噺家は王に1年の猶予を願い出、信頼する白人奴隷を5人、東はシナ、西はエジプトにいたるまで遣って、稀代の物語『ハサン・アリ・バスリの冒険』を捜させたところ、ついに奴隷のひとりが、その物語を知る長老シャイクーを尋ね当てることができた。
シャイクーは物語を伝授する前にこう前置きした。
「よろしい、この物語こそは、相手を選ばず語ってよいという物語ではなく、万人向きに出来ているものにあらずして、ただ選りぬきの人々にのみ向くものであるからして、...、次の五種類の人間に対しては、ただの一語も決して洩らさぬということを、わしに誓いなされ」。

この物語を他言してはならない5種類の人間とは、以下の者である。カッコ内はその理由。

1.無知蒙昧の徒(彼らの粗野な精神では、この物語のありがたみはわかるまい)
2.偽善の徒(彼らはこの物語を不快に感じるだろう)
3.学校教師ども(彼らは無能鈍重であるがゆえ、この物語を理解できないだろう)
4.馬鹿者ども(彼らは要するに学校教師と同じ)
5.不信の輩(彼らはこの物語から有益な教訓を取り出せないだろう)


で、この貴重な物語『ハサン・アル・バスリの冒険』はどれくらい珍しく、おもしろいのか?そんなことは問題ではない。肝心なのは、貴重な探求物に到達するところまで、探求を達成するところまで。それはドン・ファン、カザノヴァにおいても繰り返されてきたことだ。

それにしても、二度も引き合いに出されるとは、学校教師もずいぶんと見くびられたものだ。

これは何もアラビアン・ナイトの世界だけのことではない。知的に劣る者を相手に、自分のわずかな知識を伝授するのが仕事だと思っている学校教師は、じきにちっぽけな自分を露呈することになり、見くびられるのだろう。

2017年1月19日木曜日

ふたりのベンテ

初めて出会った人物が自分と同じ名前だったとしたら、人はどう反応するだろう?まずは縁を感じて親しみをおぼえるのか、それとも、別人格の自分を発見したかのように当惑をおぼえるのか。

またもや話題は、ヘレ・ヘレの『犬に堕ちても』にもどる。
この小説で主人公の「わたし」の名前は不明のままだ。みずから名乗ることもない。まるで自分の過去とともに、名前までも置き去りにしてきたみたいに。といって、ことさら隠そうとしているわけではない。名前もそこへやってきた事情も、べつだん問われることがなかっただけだ。
それにしても、名前がないと何かと不便だ。
知らない土地に降り立った「わたし」は、誘われるまま、地元のカップル、プッテとジョンの家に置いてもらう。翌朝、犬の世話をしに出かける二人に同行して、帰り道、同じ集落の老女エリュの家にいっしょに立ち寄る。そこでなぜかプッテが先手を打って、新入りの「わたし」を「ベンテ」という名前で紹介するのだ。まるでゲームで意想外の手に出たみたいで、ジョンも怪訝な顔をする。
ともかく、「わたし」は以後、「ベンテ」という仮の名前で呼ばれることになる。

小さな共同体のなかではあるが、新しい名前で認知してもらってリセットされた、というところだろう。それまで「わたし」は、作家として、ひとりの女として、自縄自縛におちいるなかで、書くことはおろか、動くのもままならなくなっていた。それが「ベンテ」としての役割を引き受けるうちに、体力のいる仕事まで何とかやってのけるようになる。
思いもよらないことに、このさびれた集落で、ベンテはなくてはならない存在となっていた。--もう引き上げ時だ。判断力を取り戻しつつあった「わたし」の念頭に、そこを去るという選択肢がちらつくようになった。

そんなときのことだった。仮名のベンテが、その名の由来するところのベンテ本人に出くわすのは。自分を失っていたところに、別の自分を見いだしたというべきか。
それは思いもよらない人物像だった。本物のベンテはプッテの友達で、離れた町の落ち目のスーパーでレジ係をしている。

ふたりのベンテはどこまでも対照的である。同じ名前で呼ばれているものの、似たところは何ひとつなさそうだ。
仮名のベンテ(「わたし」)は込み入った心の持ち主で、何にしても陰影を見る。本物のベンテは単純で通俗的。何にしても平板な絵にして見る。
それぞれをSofisticated Bente(Sベンテ)Vulgar Bente(Vベンテ)として対比させるなら

Sベンテ- Vベンテ
42 20
体型を保っている 超肥満体
語れないまま語っていく ためらいなく物語ることができる
何ひとつ断定できない 何でもやすやすと断定できる

というふうに、ふたりのベンテはまるきり互いの反転画だ。
Sベンテからすると、自分の戯画をVベンテに見たというところだろう。だが、本物であるVベンテはうらやましいくらい屈託のない心の持ち主だ。Vベンテを通せば、咀嚼、消化吸収のプロセスなしに、見聞きしたものがそれらしい絵に仕上がって出てくる。自分でいろんなストーリーを盛ることになろうと、それらしいストーリーができてくれればいい。ストーリーがつながらなければ、場面転換でしのぐまでだ。

そうやってVベンテは滔々と語るのだった。Sベンテが今いる共同体の人間模様を、ひと目でわかる図柄にして。それはまちがいなく悲惨なファミリー・ストーリー、別名ゴシップというものだった。

2017年1月11日水曜日

腐ったバナナ(前回の「マイケル・ブース」に追記)


本ブログの話題を、ヘレ・ヘレの小説『犬に堕ちても』から、マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』に横すべりさせておきながら、デンマークの「腐ったバナナ」のことを言い忘れていた。ブース氏も自著のなかで取りあげている。
den rådne banan
この図で見るように、デンマークの西端から南端にかけて、三日月形になぞった周縁部は「腐ったバナナ」と呼ばれる。国の繁栄から取り残され、ただ朽ちていくように見える地域。

『犬に堕ちても』の舞台はまさにそういう場所だ。〈訳者あとがき〉に書いたくだりを引用しておくと--

 デンマークは小国ながら農業大国の座はゆるぎないまま、近年はバイオテクノロジー、情報通信、エネルギーの分野で進展著しい。北ドイツから伸びるユラン半島のほかは多数の島という地理的不利も、二十世紀末、二つの大きな海峡の架橋で解消し、今では主要都市を経由してスウェーデンまで陸路で結ばれて、新たな経済圏が生まれつつある。また、充実した社会福祉で知られ、日本では世界一幸福な国という修辞をつけて語られたりする。
 一方、首都コペンハーゲンから半島部の第二の都市オーフスにかけての中央部に人口が集中し、繁栄を見せてはいても、そこからはずれた地域は日陰の役割を引き受けざるをえない。そういう周縁部分を半円のバナナ形に見立てて、「腐ったバナナ」と呼ぶこともある。産業が衰退し、職もなく、若い人が都市部へ出てしまった一帯では、共同体を維持できない「限界集落」が打ち捨てられた光景をさらしている。

 この小説が現在のデンマークを舞台にしながら、幸せな国のイメージを拒んでいるのは、「もうひとつのデンマーク」が背景にあるからだ。そういう現実のことなら、作者ヘレ・ヘレは生まれ育った土地でいやというほど知っている。

--引用終わり。

この小説で作者は、幸福の国デンマークの日のあたらない部分を描き出そうとしているのでは断じてない。でも、リアルな描写は、そこがかなり見捨てられた土地であることを教えてくれる。
唯一の公共交通のバスは1日1本だけ。水道、電気、電話といったライフラインはそろっている。だが、街道沿いの家々は、半農半漁の暮らしのおもかげを残しながら、無住の姿をさらしている。

主人公の「わたし」は、地元の若いカップルの家に置いてもらって、何かと不便な生活を、ひとつひとつ味わうように体験する。
たとえば薪ストーブ。ブリケットという、木材チップを圧縮加工した薪を使う。デンマークで普及しつつある「地域暖房」の恩恵にあずかれない土地で、冬の暖房が電気式だと高くつく。嵐のため停電することもあるので、薪ストーブが正解だ。
停電の夜はろうそくをともし、即興の影絵芝居を演じ、薪ストーブの上で「りんご焼き」をこしらえる。(これは、粉を溶いて〈たこ焼き器〉で焼いたまんまるのホットケーキと思えばいい。作り方の動画)。近所の独り暮らしの老女から、電気ストーブが切れて凍えていると連絡があると、カップルは老女を自宅に連れてくる。

というふうに、あれこれ心なごむものがそろうと、そこはいつのまにか、デンマーク的感性が好ましいとする hyggelig な空間になっている。

大半の住民が出ていったその集落で、主人公のまわりの人たちはどうやって生計を立てているのか?
わざわざ書かれてはいないが、若い人たちは自動車事故の後遺症をかかえ、公的援助を受けていると察せられる。そのほか、個人的に斡旋してもらう半端な仕事もある。老女は当然、年金暮らしだろう。
登場人物の何人かは、国や自治体の教育支援制度を利用したことがある。
主人公の「わたし」にしても、首尾よく書きあげられたら、国の出版助成金を申請するのかもしれない。

前回書いたブース氏の言葉をもう一度引くと
「専門家によれば、幸福の鍵の一つは、人生を主体的に生きられるかどうかにあるそうだ。自分の運命を自分で決められる贅沢、自己実現を達成するという贅沢が、できるかどうかだ」。
なるほど。
平等に教育が受けられ、困難にさいしてはいろんな支援制度を利用できるこの国では、「腐ったバナナ」と呼ばれる地でも幸福の鍵を見いだすことができるのだ。断言するつもりはないが。


それはそうと、この小説はデンマークの社会問題を扱った作品ではありませんので。くれぐれもお間違えなく。

2017年1月4日水曜日

マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』

デンマークの話題を出すからには、例の本のことを語らずばなるまい。
マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』(黒田眞知訳・角川書店・2016

猛烈におもしろい本だ。北欧と北欧人について少しでも体験があるならば。
著者は言わずとしれた食のジャーナリスト。家族をつれて日本で食の旅をするノンフィクションで知られることになった。
イギリス人ではあるが、妻の母国デンマークで暮らすうちに、疑問にとらえられる。統計によると、幸福度においてデンマークが世界一だという。自分が日々体験しているこの×××なデンマークが?
そこで彼はあらためて北欧なるものを探る取材をしていく。
北欧の食は褒められたものではなく、語るに足るほどのものではない。そこで、デンマークを始めとする5か国の、それぞれの国民性の味のほどを比較考量する探求に乗り出すことになった。
ときにはマイケル・ムーアばりの体当たり取材を試みて、読者にサービスすることもあるが、根幹は饒舌につぐ饒舌。それぞれの国のことを深く語れる粒ぞろいのインフォーマントをそろえ、読者は少しだけ奥座敷に通されたような気分を味わえる。繰り出される軽妙な語りも、確かなデータと知性に裏付けされている。
この本はいわば〈アナトミー・オブ・北欧5カ国〉。そういう気取ったことをやりたがるのがイギリス人だ。

本書の紹介文としては、訳書が出るずっと以前、南ア在住のアーティスト、長田雅子氏が自身のブログで書いている記事にまさるものはない。全5回
これほど世界情勢への影響が希薄なエリアの本の邦訳が出ることになったのも、著者の知名度の高さもさることながら、長田氏の紹介文があまりにおもしろく、秀逸だったからにちがいない。訳書のタイトルも氏の紹介しているまま。

ということで、わたしのほうでは、この本に触発されたおしゃべりをほんの少し。

北欧に共通するのが、高い税金に支えられた社会基盤だが、著者がよく知るデンマークでは、皆、高い税金に大いに賛成しているという。そこには特有のからくりがあって、成人人口の過半数が公共セクターで働いていたり、公的な経済援助を受けているので、その財源が減っては困るからだ。
ところが、というか、だから、出費するさいはできるだけ税金の介在しない「闇」を利用する。「状況に応じた倫理観」とやらにしたがって、個人同士で取り引きする。だって、自分はちゃんと所得税を納めているのだから、という立派な言い訳も用意している。
それどころか、ずっと働くことなく社会保障制度を名人芸のレベルで使いこなしている人たちもいるという。

デンマークらしさを表すとされる「ヒュゲ」。(わたしとしては、「なごみ」がその意に近いと思っている)。ともかく内向きに心地良いものとされている。国旗もその仲間で、「すてき」をアピールするためにやたらに使われるのが、著者の気に障る。
(日本にあてはめるなら「和の精神」かもしれない。ほら、「和」の小物を添えてやると、「すてき」って言われるじゃない)。
ことを荒立てないよう、その場の空気をなごやかにたもつよう強要しているとしか思えないヒュゲを、著者はついには憎むようになる。

アイスランド人は金融バブルで、略奪者(バイキング)という自己イメージに沿って、海外資産を買いあさった、とある。(納得)。

ノルウェー人は豊富な油田から得られる富を、もともとそこにあるからこそ守るべきものと理解し、堅実な運用に終始してきた、とある。(ノーベル平和賞受賞者の選定でよくこけるのは、堅実な運用を心がけたのに、現実のほうがこけてしまって...ということだろうか)。

「人を羨む、堅苦しい、勤勉、自然を愛する、静か、正直、正直でない、外国人恐怖症」と自己認識するスウェーデン人。エレベーターで知らない人と乗り合わせるくらいなら、最上階まで階段を昇るほうを選ぶとか。そんなスウェーデン人に対して、著者はじっさいにエレベーターに乗りこむ実験で確かめる。どうやら噂のとおり。

デンマークとアイスランドの関係については思い出すこと多々。
わたしの記憶では、アイスランド人はデンマーク人をとことん嫌っていた。MB氏によると、それはどうやら、歴史を部分的に誇張・捏造した教育を受けたアイスランド人の意見だったらしい。今の韓国人の日本観がそうであるように。新しい歴史認識では、スウェーデンが言語と文化をフィンランドに強要したようなひどいことはなかったという。
でもまあ、1970年代当時は、アイスランドでは小学4年からデンマーク語を学ばされていた(さもないと広い分野の教材に接することができない)のだが、アイスランド語からすればデンマーク語は、古ノルド語である由緒正しいアイスランド語が劣化した言語でしかない。それよりも何よりも、あの奇妙奇天烈なデンマーク語音声は口にするのもはばかられる。だから、アイスランド人は絶対にデンマーク語の音声を真似ようとせず、綴り字そのままに発音していた。

余談を続けると、アイスランド大学文学部のデンマーク語コースは不人気だった。だが、それなりに、観光ガイドとしてのスキルを上げたいとか、アイスランドでデンマーク語教師になりたいという、明確な目的を持った、ちょっと年かさの女性たちが受講していた。デンマーク語コースの教員たちは、アイスランド人が身につけてしまった恐るべきデンマーク語発音(いうなれば日本人のカタカナ英語)を矯正することを最優先の課題にしていた。

MB氏曰く、「デンマーク語のアクセントで話せば何語でもおかしく聞こえる。デンマーク語でさえ」

ナチス政権下で北欧の国々はそれぞれにドイツと関係を持つことになった。
デンマークはドイツに占領され、スウェーデンは中立を標榜しながらドイツに協力し、ノルウェーはナチス傀儡政府を立てた。フィンランドとアイスランドはそれぞれスウェーデン、デンマークの領土だった。
この立ち位置がその後の各国民同士の感情にニュアンスを投げかけている。こういう部分も著者の饒舌のおかげで苦味がやわらいで、とりあえずは冗談として受け流せる。

MB氏の本から離れて、アイスランドがらみのエピソードをひとつ披露しておく。
第二次大戦中、ヒトラーが演説していて、アイスランドについてこう絶叫した。
「純粋なアーリア人の住むあの孤島を、絶対にわれわれの手で守らねばならぬ!
これは現地でさんざん笑い物にされて、戦後もずっと言い伝えられることになった。
「純粋なアーリア人だって?なーに言ってるんだか。俺ら、ノルウェーとアイルランドの混血だけんね」
ナチスのデンマーク占領を奇貨として、アイスランドは独立を果たした。

そのほか、著者が言及していない重要事項は、デンマーク語の数字の読み方だ。フランス語のように20進法を使い、ドイツ語のように1の位を先に言う。あまりの理不尽さに、これで本当に数学の勉強ができるのかと思ってしまうくらいだ。

この図は、日独仏も含めた5つの国で97をどう言い表すか、顔の指標とともに示してある。
最上段のスウェーデン式はストレスなしの涼しい顔。最下段の狂乱状態の顔がデンマーク式だ。
デンマーク語で97をどう言うか、数式にしてもらっても、ますますわからなくなりそうだ。言葉として言えば、「七と、半足らずの五掛ける二十」が九十七のことなのだ。地団駄踏みそうになる。

デンマーク語の記数法は頭では理解しているつもりだが、わたしの脳はどんな神経をもってしても、理不尽な数に直面すると、口の筋肉を動かしてくれないのだ。

デンマーク人も自分たちの記数法がややこしいことを知っているので、相手が外国人だとわかると、わかりやすい方式(この図の日本式)で言ってくれるようになり、MB氏は不便を感じないでいるものだから、記数法の説明をしないほうを選んだのだろう。

そのほか北欧五カ国で、「何時半」という言い方の癖はみごとに一致団結している。「1時半」というときは「半分2時」というように。これなら運動神経を働かせば使いこなせる。


本書の最後のほうで著者は結論らしきものにいたる。
「専門家によれば、幸福の鍵の一つは、人生を主体的に生きられるかどうかにあるそうだ。自分の運命を自分で決められる贅沢、自己実現を達成するという贅沢が、できるかどうかだ」。

素面になってみれば、まさにその通りだ。この一言の上に、あらゆるものをてんこ盛りした分厚い本を書くことになったのも、著者の疲れを知らない躁の気質のなせる業だろう。