2016年12月30日金曜日

書くこと、読むこと~作家という存在

ヘレ・ヘレの『犬に堕ちても』についてもう少し語ってみたい。

この小説のために自分でキャッチコピーを考案してみたことがある。
「デンマーク、デンマーク」だとか
「ミニマルなデンマーク、日々のおかしみ」など。
これじゃ読者として想定している女性たちに届きそうにない

幕開けは絶妙だ。
泣くのにちょうどいい場所を探している」
しかも、冬の荒れ模様の海辺。夕暮れが迫っている。どんなドラマが始まるかと期待させる。この書き出しが最高のキャッチコピーではないか。

バスを乗り継いで、この地に降り立った42歳の「わたし」は、親切な地元住民の家に置いてもらうことになる。知らない土地で出会った人たちは、「わたし」の事情を詮索することもなく受け入れてくれた。すぐ先に見える無人島で暮らしたい、という突拍子もない話にまで本気で乗ってくれる。
とはいっても、現実には、まわりの人たちのこまごました暮らしにつきあって、おしゃべり好きの老女の相手をし、犬の世話に出向き、といった用をこなすのに忙しく、自身の悩みや気まぐれはあとまわしになる。
そんな日々のちょっとした隙に「わたし」の過去がすっと入りこんで、素性がしだいに明かされていく。

じつは彼女は作家なのだが、長らく鬱状態にあって書けないでいる。
パートナーとの関係も、そのほかの人間関係も、自分でぶちこわしにしたせいで、社会的立場を失くしてしまった。--デンマーク語の言い方をもってすれば「犬に成り下がった」。そんな自分と向き合わざるをえないところまできている。
 それでも、ことさらに意味を問うまでもなく続いていくのが日常だ。犬に堕ちても、毎日何かしらあって、日常と茶飯は続くよ、どこまでも。そこはかとないおかしみさえ醸しだされる

主人公が作家として読者に向ける視線はなかなかに辛辣だ。
世の中には「読書会」というものがある。読者の側が張り切って自分の思うところを開陳するいい機会だ。
読書会を主宰する、まちがいなく真摯な読者である女性の場合、自分の感興に溺れて、作家のパロディを演じてしまう。
読書会のメンバーは、教養ありげに見えるから参加しているだけで、そういう人たちは有名人が大好きで、ゴシップに目がない。まっさきにオカルト話に飛びつく。
そういう現実に主人公はいちいち当惑する。

ヘレ・ヘレは説明的な叙述を排して、状況に語らせる。単純かつスリリングなストーリーを追い求める読者にとって、この小説はきっとわかりづらいだろう。
その妙味は語りにある。一人称の語りはデンマークの細部に満ちている。
過疎の集落にとどまっている人たちの暮らしぶりがこまごま語られ、緊張感に欠ける会話が繰り広げられる。
そういうゆるい環境にあれば、気持ちの「凝り」もほぐれるのだろう、語り手は置き去りにしてきた過去をひとつひとつ開いていく。

ヘレ・ヘレは紙芝居を見せるつもりはない。ストーリー丸わかりの通俗小説を提供しているわけではない。だが、少なくとも、言葉によって描かれることのない大きな物語はある。それは語り手本人にしてみれば悲劇というしかない。だが、それを悲劇めかして語るならば、自分でも「嘘ばっかり」と言うしかない代物になりはてるだろう。

ヘレ・ヘレは読者にサービスするつもりはない。「消費者にやさしい製品」とは真反対の「読者にやさしくない小説」。これを『犬に堕ちても』のキャッチコピーにしていいくらいだ。




2016年12月28日水曜日

待たれるゴドーはデンマークで

「書割かきわりのような」という形容がかならず思い浮かぶ。暮れ方、空に残る青みが、日の没した地平の朱とせめぎ合い、つかのま色彩のページェントが繰り広げられるとき。そこに金星が張りついていれば、わざとらしさの仕上げとして、これ以上望むものはないくらい。晴天の宵のちょっとした見ものだ。冬の東京では珍しくない。
書割の夕空がいわば「イデア」として、現実の夕空を先取りしてしまうとはおかしな話だ。自分ではわかっているが、それはまちがいなくサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の舞台背景からきている。この芝居をダブリンの〈アベイ・シアター〉で見たときの衝撃とともに、舞台上の書割の夕空が自分のうちに刻み込まれてしまったらしい。1976年のこと。

『ゴドーを待ちながら』という劇には、劇的(ドラマチック)といえるものがいっさいない。登場人物や台詞、道具立ても、限りなく切り詰められ、何かの原型になるまで削ぎ落とされている。道端の一本の木の前に風来坊の男が二人、ゴドーを待ちながら、所在なさげにすわりこんでいる。退屈まぎれにたわいない言葉をかわすばかり。
出来事といえば、奴隷とその主人が闖入して雑音を入れたり、幕間の区切りをつけるように使いの少年が現われて、「ミスタ・ゴドーは今は来られないが、そのうち来る」というメッセージを告げる。ただそれだけ。何事も起こらない。待っている男たちもゴドーがだれか知らない。

何かの原型として考えると、そこから始まるものがありそうだ。だれにでもありそう。どこにでもありそう。



このブログの初回の記事にもどっていく。そこでわたしは作品を翻訳する過程で、意外な事実を発見したり、奇想にいざなわれたりする、と表明している。これは自分としてはちょっとした目くらましのつもりだった。インタビュアーの凡庸な質問に対して、期待される答えを裏切ってみせるため。
だが、実際のところ、翻訳中の〈思いつきメモ〉は、断片のままたまっている。その一部は「訳者あとがき」に生かしてきた。だが、大半は「箪笥のこやし」として、さいわいかさばるものではないので、パソコンのしかるべき場所に寝かせてある。

そう、わたしはデンマーク小説『犬に堕ちても』を訳す過程で思いついたことを開陳するつもりで、ここまで延々と書いてきたのだ。手持ちの「奇想」のひとつをここで明かすと、作者ヘレ・ヘレはベケットの『ゴドーを待ちながら』の影響のもとでこの小説を創りあげた、というものだ。(ヘレ・ヘレ氏とはメールでやりとりしてきたが、わたしはまっとうな翻訳者の態度を保つことにつとめ、自分の奇想を話題にしたりはしません)。

『ゴドーを待ちながら』の原題は En attendant Godot / Waiting for Godot 。最初フランス語で書いたあと、ベケットはその英語バージョンを完成させた。 
フランス語なればこそ Godot は「ゴドー」と読まれ、当然、英語版でも「ゴドー」という読み方は引き継がれている。作品自体、有名になって、「ゴドーとは何者か」ということが論じられるなかで、Godot のなかに God を見いだしたり、綴りを逆にした to dog のなかに「犬」を見いだしてみたりと、評論家に議論の種を提供してきた。

ところで、デンマーク語からすると Godot はどう感じられるのか?
Godot を逆さに綴った to dog 。デンマーク語で to(ト)は数字の2。英語の助詞 to(トゥ)は、デンマーク語では同じニュアンスの助詞 til (ティ)が対応する。英語とデンマーク語の両方をこきまぜ、たゆたわせていくうちに、to dog が「to hunde 2匹の犬」になったり、「til hunde 犬のほうへ」になったりしながら、 gå i hundene にたどりつく。「犬に成り下がる」、つまり「零落する」という意味で普通に使われる言い回しだ。これが小説の題名として Ned til hundene (Down to the Dogs) に落ち着いたものと推測される。

「泣くのにちょうどいい場所を探している。そんな場所はなかなか見つかるものではない。何時間もバスを乗り継いで、こうして海辺でぐらつくベンチにすわることになった」。
そうやって主人公の「わたし」は登場する。冬のデンマーク、荒れ模様の夕方、うらぶれた風景のなかに降り立って、ひとりじっと待っている光景は、まるで『ゴドー』の冒頭場面のパロディだ。が、それから先となると、何も起こらない『ゴドー』とは対照的に、この小説は日常の出来事で埋めつくされている。主人公の「わたし」だって、ありていに言えば、抱えている重荷に負け、「人生詰んでしまった」という思いから家出してきた事情が少しずつ明らかにされていく。
だが、自分ではあずかり知らないことだったが、降り立った土地で「わたし」は待たれていたのだ。友達として、話し相手として、伴侶として。はからずも2頭の猟犬の世話係まで引き受けさせられる。

住民が出ていった寂しい集落に踏みとどまる人たちは、それぞれの心が思い描く「ゴドー」を待っていた。

2016年11月29日火曜日

トゥバの楽人、その他のコンサート

コンサートの話題を出したからには、少し前に聴いたレクチャー・コンサートのことも書いておかねば。

ひとつは、ロシア連邦内の共和国、トゥバの音楽を追い求める日本人、寺田亮平氏の喉歌と楽器演奏。この方も伝道師といっていい。すっかり現地の楽人になってしまっている。そこに音楽への気魄という凄味が加わって、身も心もトゥバの地に捧げる求道者のようなたたずまいが感じられる。
場所は明治大学のオープン講座。モンゴル出身の相撲取りの土俵入りを思わせる重厚な足運びで壇上に現われた寺田氏は、顔だちもモンゴル系で通用しそうだ。

ロシア連邦の南端にあってモンゴルに隣接するトゥバは、遊牧という生活様式もあって、文化的にモンゴルと共通する部分が多いようだ。ただし、トゥバ語はテュルク系の言語。また、国自体、大山脈にはさまれた盆地にあり、山の起伏や川の流れがしっとりと緑をはぐくんでいて、平原の続くモンゴルの風景とまったくちがう。

これまでわたしはモンゴルの喉歌(ホーミー、ホーメイ)を聴く機会を得てきた。そういう場を何度も体験するうちに、歌い手はじつはアクロバットを演じてみせているのではないかと思うようになった。
うなり声で歌いながら倍音を響かせ、同時に二色の声を出すといった離れ技は、なるほど曲芸ではある。
ところが寺田氏が喉を絞って歌う声には不思議と初々しさが感じられる。その理由は氏の説明で腑に落ちた。モンゴルの喉歌が楽器の役割をしているのに対して、トゥバでは歌詞を歌うのだという。


レクチャーの場で歌った伝承歌の内容を寺田氏は意訳してくれている。歌われているのは、山や川や沼の風景、そこにやってくる野鳥、生活の糧である馬や羊。いとしい恋人、大切な友人。家族の絆。歌詞の情景だけ取り出すと、まるで『万葉集』だ。
ふだん忘れてしまっているが、ほんらい日本の和歌はゆるやかに吟詠するものだ。年の始め、宮中の歌会始で吟詠されるのを聞くと、和歌が歌だということをあらためて思い出させてくれる。
もしかしたら万葉時代の日本をトゥバという国で感じることができるかもしれない。行ってみたくなった。たいへん行き難いところだそうだが。


           *   *   *   *   *   *   *

もうひとつのレクチャー・コンサートは成城大学でおこなわれた〈歴史に現代の響きを聴く〉。
オーボエ奏者、三宮正満氏の主宰する〈アンサンブル・ヴィンサント〉による極上の演奏で、バッハ、モーツァルトの音楽が当時の楽器で再現され、贅沢な空間にひたることができた。

オーボエについては、現在の形になるまでの姿を古楽器、民族楽器でたどることができる。三宮氏がチャルメラで「夜鳴きそば」のメロディをひと吹きし、トルコの民族楽器ズルナで勇壮な軍隊行進曲を吹き鳴らすと、ホールの気分は一挙に盛り上がった。
そのあと、チェンバロと、現代ピアノができる以前に使われていた〈フォルテピアノ〉の解説、演奏と続いていく。

チェンバロはなるほど演奏の表情をつけるには難があるものの、弦をはじく音には鮮烈な彩りが感じられ、空間をきらめきで満たしてくれる。
そこのところで〈フォルテピアノ〉はかなり地味である。ハンマーで弦を叩く音は、広いホールではくぐもって聞こえるが、当時としては画期的な、強弱と表情をつける工夫がこらされている。
バッハやモーツァルトの時代、サロンで演奏者たちを囲んで聴くにはちょうどいい音量だったろう。
いや、今の時代でも、そういうやわらかな音のピアノがふつうにあってほしい。密集して暮らすなか、現代のピアノはやかましいと感じることがあるのだから。



このコンサートに招いてくださった成城大学のT先生、本当にありがとう。

2016年11月28日月曜日

クレズマー音楽、於シアターカイ(両国)

クラリネットが軽快な音を揺らしながら、空間いっぱいに自在に線を描いていく。ヴァイオリンがそこに寄り添いつつ空間を支配し、自分の音色をきらめく光や霧雨に変えて降らせていく。アコーディオンはあくまでどっしり構え、和音とメロディで重厚な色や形を加えていく。舞い踊る楽器たちがてんでに駆けださないよう、ドラムスが手綱を引いて句読点をつける。
そうやってクレズマー音楽を、楽団を目の前にしてじっくり聴くのは初めての体験だった。

11月17日、東欧ユダヤの伝承音楽の演奏グループ〈オルケステル・ドレイデル〉のレクチャー・コンサートが両国のシアターX(カイ)で開催された。グループを主催する樋上千寿(ひのうえちとし)氏は、自身、クラリネット奏者であり、関西を拠点にクレズマー音楽の伝道師として活動を続けている。

哀調をおびた東欧ユダヤのメロディは、日本でもずいぶん昔から親しまれてきたように思う。イスラエル民謡の『マイムマイム』、アメリカのフォーク歌手ジョーン・バエズの歌う『ドナドナ』、あるいはミュージカル/映画の『屋根の上のバイオリン弾き』のサウンドトラックなど、くりかえし流れてくるメロディによってイメージが作られた。でも、それらはクレズマー音楽のほんの一部が商品化されて流通したものにすぎない。


樋上氏は幼少の頃からいろんな楽器を弾きこなしてきたらしいが、じつは専門は美術史で、京都造形芸術大学で教えている。
そもそもクレズマー音楽の世界に入り込むことになったのも、「シャガールの絵に描かれている楽師はどんな音楽を演奏しているのだろう?」と疑問に思ったことがきっかけだったという。

それにしても、みずから演奏し、毎年ドイツのワイマールで開催されるクレズマー音楽のセミナーに参加し、楽団を結成し、レクチャー・コンサートなどの活動を続けているのは、よほど突き動かされるものがあってのことだろう。

今回のテーマは、シャガールも生まれ育った、今や消滅してしまった東欧ユダヤ人コミュニティに由来する音楽。
樋上氏がワイマールで教わっている先生たち--ピアノ、アコーディオン奏者のアメリカ人Alan Bern氏、ロシア人ヴァイオリニストのMark Kovnatskiy氏を招いてのコンサートだった。
どれをとっても不思議になつかしい。ユダヤ系でなくとも郷愁をそそられる。

「クレズマー音楽には3つの欠かせない要素がある。それは歌うこと、踊ること、物語ること」だという。
メロディで歌い、リズムで踊るのはわかる。でも、どうやって音楽が物語るのだろう?
音楽には統合する力がある、ということなら、わたしも体験から納得できる。一瞬にして、ひとつの図柄にして見せてくれるのだ。それが「物語ること」なのだろうか?

コンサートの半ばでコヴナツキー氏が、「今朝、私の恩師の訃報を知らされたところです。いろんな思いが胸中をめぐるなか、これから弾く曲を師に捧げたいと思います」と前置いて、アラン・バーン氏の作った曲を演奏した。(今なお刻々作られるからこそ、伝統が生きているといえる)。
それは慟哭であり、自身の記憶であり、それ以前の恩師の人生の記憶でもあった。図柄にはできない。音楽によってのみ物語ることのできる何かだった。


今回のコンサートが開催されたシアターΧ(カイ)は、何とも独特の雰囲気を漂わせる演劇ホールだ。タイムスリップして日本の演劇史のなかに入り込んだような古めかしい別世界が、わが家から自転車で行けるところにあったとは驚きだ。
有名な回向院えこういんの境内、寺院に隣接して立てられた商業ビルの1階にある。
宗派を問わず、人間のみならず、あらゆる生き物、無縁仏を供養するという無縁寺回向院。その隣で、消滅の悲哀をたたえたクレズマー音楽のコンサートがおこなわれるのも何かの奇縁だろう。

中央が樋上千寿氏、その左にアラン・バーン氏とマーク・コヴナツキー氏が

2016年11月22日火曜日

於尊先生

中学時代の思い出をもうひとつ。

その実験校の中学では、〈プログラム学習〉という教え方が試された。わたし自身、ゲームに熱中するほうだったので、楽しくこなしたはずだ。

その学校で何よりも特別だったのは、地元大学で招聘したアメリカ人英語教師が、大学だけでなく、付属中学でも教えたことだ。わたしが中学2年のとき、その学年のみ。当時としては別格の扱いだったにちがいない。その年度に限って実施された。それ以前も以後も、ネイティヴ教師による英語授業などという「無駄」な試みはなされることはなかった。いかにせん、モチベーションが不足していたし、受験勉強の足しにならなかった。

わたしがその付属中学校に入学して最初の担任となったのは、2年間のアメリカ留学から帰ったばかりの若い英語教師だった。アメリカ生活のうきうきした気分をまだ残していて、それが熱意のみなもとにもなっていた。
初めて英語に接する生徒たちを前にして、何よりもまず音声を重視し、初歩の段階だからこそ、音そのものを口移しに学ばせようとした。Yes, it is. たったそれだけを「イエス・イリエース」に聞こえる音にして反復させ、聞こえるままを口にすると、「そう、それでいい」と励ましの言葉をかけてくれた。
だが、同級生のなかには、教科としての英語をすでに習得してきた者もおり、それぞれの出身小学校で優等生だったにちがいない彼らは、「イエス・イリエース」などという屈辱的な音を発することができなくて、カタカナそのもので「イエス・イット・イズ」と返した。教師の当惑した顔を今でもおぼえている。素直に音を聞きとってもらいたいのに、「そんなことをしてないで、早く勉強させてくれ」という秀才児たちの決意は固く、S先生は返すすべがなかったのだろう。

そう、その中学校2年目の1年間、わたしたちはミスター・オルソンに教わることになった。若いS先生ではなく、もうひとりのベテラン英語教師が新任のアメリカ人教師の授業に同席した。〈ネイティヴ教師プロジェクト〉は、おそらくこの専任教師の授業実験だったと想像する。1964年の東京オリンピックへの期待感も高まっていた頃だ。
ミスター・オルソンはアメリカ合衆国オハイオ州の出身。自分の苗字を漢字で表記してもらいたいという要望にこたえて、少々無理やりではあるが、「於けることが尊い」として「於尊」という漢字を当ててみた。1回目の授業のとき、そういった説明があった。

於尊先生のファースト・ネームは記憶にない。教えられなかったはずはないから、わたしの頭にすんなり入ってくれる名前ではなかったのだろう。
見た目は、アメリカ標準からすると華奢なほうだったと思う。ほかの先生たちより目立って背が高いとか、肉付きがいいという感じは全然なく、頭頂が薄くなりかけていることで、若くはないというという印象はあった。
授業が毎週あったのか、それとも月に1、2回程度のことだったのか。授業の中身のことをいうなら、「英会話」などという遊びではなかった。

あの時代、ミスター・オルソンには、赴任先としてほかにいろんな候補があったろうに、何らかの思いがあって、日本の地方都市の大学を選んだのだ。ひょっとしたらラフカディオ・ハーンを読んでのことだったのかもしれない。ハーンの教授法をすでに知っていて、それを踏襲していたのではなかろうか、と思えるふしがある。たいがい独自にテキストを用意して授業に臨んでいたと思う。前もって配布したテキストを、ゆっくり読み上げ、生徒に読ませ、かみくだくように解説し、簡単な設問を出して生徒に答えさせた。

わたしがよく憶えているのは『スリーピー・ホロウの伝説』だ。ハロウィーンの季節に合わせて選ばれたテキストだったろう。物語にはハロウィーンの民間伝承がからんでいる。
今とちがって、当時も、その後もずっと、ハロウィーンの行事など、「何のこっちゃ」の世界だったのだが。
ともかく、その伝説はワシントン・アーヴィングが再話したものだった。今、原文自体を見ると、とても中2の読解力では太刀打ちできそうにない。きっとミスター・オルソンは原作を思い切り噛み砕いて、中2が読んでわかるテキストを用意してくれたのだろう。
主人公は学校教師イカボッド・クレーン。赴任先のスリーピー・ホロウの地であれこれ体験していくなかには、恋のさやあてなどもあって、あまり子供向けの話とはいえない。だが、ぞくっとする雰囲気には引きつけられた。最後に主人公は、その地につたわる伝説の首なし騎士に追われるのだ。


それから何十年ものち、ラフカディオ・ハーンをめぐる逸話を読んだとき、『スリーピー・ホロウの伝説』の授業がわたしの記憶によみがえってきた。ハーンは『怪談』を書くにあたって、民間の怪異伝承を妻のセツの言葉で再話させたという。しかも部屋を暗くして、なるたけ恐ろしげな調子で語らせたのだ。

「イカボッドはそれからどうなったと思いますか?」ミスター・オルソンは生徒たちに質問した。

ミスター・オルソンはあれからどうなったのだろう?その前にどんな道をたどってきたのだろう?彼の祖先は?


そういえば、あの於尊先生は名前からするとスウェーデン系だったのだな、と思い返したのはずいぶんあとになってのことだ。

2016年11月10日木曜日

トラショック

六月の国民投票で心ならずもEU離脱を決めてしまったイギリスの狼狽ぶりは、今となってみれば、ほほえましい出来事だった。晴れの場でつまずいて、ぶざまなころび方をしてしまったが、だいじょうぶ、何でもない顔をして、威厳たっぷりに取り繕えばいい。
それとは比べ物にならない衝撃が昨日、世界中を駆けめぐった。アメリカ合衆国でまさかのトランプ大統領誕生。
その可能性がしだいに色濃くなっていくあいだ、アメリカと関わりのないわたしにまで重苦しい空気がひた寄せてきた。
まさか、まさか、最近、5回連続物として載せたブログのタイトルに「トラ」の文字が入っていたせいではなかろうな。
2001911日の衝撃以来のことと言っては、比較する対象が違いすぎるが、あのときはあふれる報道を追う一方で、「そうか、これが21世紀というものか」と、妙に落ち着いた心もちで受け止めたのを思い出す。
それからちょうど15年。21世紀の年月が醸成した成果はこれだったのか。「これ」が何を意味するのか、自分でもわからないまま思う。


絵画のイメージがふっとあらわれた。ダリの絵だ。あれはたしか『内乱の予感』という題ではなかったか。
調べてみると、描かれた当時は『茹でた隠元豆のある柔らかい構造』という題名だったのを、迫りくるスペイン内戦への不安がまさしく的中したので、ダリ本人が『内乱の予感』に改めたという。

そのほか、ブリューゲルの有名な絵画『イカロスの墜落のある風景』が思い浮かんだ。
ギリシャ神話に登場する若者イカロスは、翼をつけてもらって飛翔するうちに、不注意から海に墜落してしまう。その絵の片隅に、海面から突き出した足が小さく描かれ、イカロスが墜落したことがかろうじてわかるようになっている。それ以外は、陸地で人々が日々暮らす情景が描かれている。農夫は畑を耕し、羊飼いは羊の群れを見張り、海辺では釣り人が糸を垂れている。だれひとりとしてイカロスの墜落を見てやしない。イカロスが死のうがどうしようが、世界に何の変わりはない。


今回のトランプ事象が、この絵を反転させたイメージとして思い浮かんだのだ。
陸地は群衆で埋まり、てんでに新しい王を讃えて声を張り上げている。そのエネルギーが海中から怪物を引っ張りあげて、天空の座にすえる。それが何物かはわからない。


昨日の重苦しい気分はそんな幻想を誘った。

2016年11月7日月曜日

エネルギー保存の法則

今やもう遠い昔、中学二年のとき、理科の教師が話してくれたことが心にしみついて、いまだに何かのおりにひょっこり思い浮かぶ。
それは授業でとりあげている内容とは関係がなかった。そのことだけをわざわざ生徒たちにつたえるつもりでいるように思われた。教師は何か特別な教えでも開示するように、〈エネルギー不変の法則*〉について説明したのだ。(*今では「エネルギー保存の法則」と言うようだ)。
容器の水を沸かす。燃料が燃えて失われたエネルギーは、沸いた湯の熱量に変わることで、そこに介在するエネルギーの総量は変わることなく、一定のままであるのが定理だ。
ひととおり説明したあと、教師はひとつの問いを投げかけた。
「では、こんな事例はどのように考えたらいいのか。恨むという行為だ。人がだれかを恨むとき、たいへんなエネルギーを使う。恨むことで使ったエネルギーは、〈エネルギー不変の法則〉をもってすると、何かに変わっているはずだ。それはいったいどんな形をとるのだろう?」。
生徒から答えを引き出そうとしているのではなかった。自分に向かって問うていた。13、4の中学生にそのように語りかけるとは、この教師は過去にどんな恨みを体験したのか。
その語り口は、決して「人を呪わば穴二つ」のような教訓に導こうとしているのではないことは、ともかくわかった。根源を問う姿勢が感じられた。だからこそ、13歳のわたしは深い印象を受けたのだ。

地方都市の固陋と諦念とが不動の空気のように覆っている土地ではあったが、地元大学の実験校だったあの中学校は特別な場所だった。制服はない、支配・服従の掟などないに等しい。変わり種といっていいおもしろい教師が何人もいた。
この理科教師もまた変わり種だった。長年、地元の科学博物館に勤務していたところを見いだされて、初めて学校で教え始めたばかりで、背広にまだ博物館の黴と埃をうっすら付けているみたいなところがあった。

あの話はともかく自分の世界観に取り入れられ、自分の内部にしっかり定着した。
物事を考え、判断するさい、〈エネルギー不変の法則〉が無意識下で働いてきた――と自分では思っていが、それもじつのところは、自己流に単純化して、世界は「プラスマイナスゼロ」となるような力が働いているはずだ、というくらいの願望だろう。
それでも、自分の秤や物差しを持っていると、少なくとも周囲に流されないですむ。

月を見れば、どの相であっても、そこには光を受けず見えない部分がまちがいなくある。光を受けて輝くプラスの部分と、暗いままのマイナス部分とが合わさったのが月というものだ。


だれかを、何かを糾弾するため、寄り集まって、声高らかにスローガンを唱和し、同一のプラカードを掲げて盛り上がっている人たちを見かけることがある。そんなとき、つい考えてしまう。この人たちひとりひとりはどんな闇を、あるいは空虚を抱えているのだろう?


2016年10月30日日曜日

虎の魂(5/5)

虎をめぐる何か。これが未解決の課題となってわだかまっていた。

タイでの出来事からずっとのち、またもこの件に立ち返ることとなった。あの異常な震えをさらに体験したのだ。今度は日本で。
だが、このたびは、そこに自分なりの説明をつけて自分を納得させ、胸のうちにしまいこんで終わりにした。

これは現実の知人をめぐっての出来事であり、具体的状況を語るわけにはいかない。
つづめて言えばこういうことだ。知人のことを、わたしは批判する理由があって、できれば敬して遠ざけるようにしていた。とはいっても、どうしても会わざるをえない機会がたまに訪れる。

久しぶりに会って話をする前、わたしは知人に自分の立場を説明する内容のメールを送っておいた。だが、それは結果的に相手の立場を批判することになった。
ともかくも、表面上はなごやかな時間を過ごし、事なきをえた。だが、別れぎわ、知人はにこやかな態度をかなぐり捨て、ためこんでいた怒りを短い言葉にして一気に吐き出した。それが別れの挨拶となった。

そのあと、わたしは疲労を重荷のように抱えて電車を乗り継ぎ、自宅に戻り着くと、ベッドに倒れこんだ。しばらくして、あの異常な震えが背中を走ったのだ。
そのとき二つの言葉が重なり合うように思い浮かんだ。
「哮たけり立つ / tigerish
そうか、虎のごとき獰猛な怒りというものがあるのだ。

ただでさえ虎は生息数が減って、人里に姿を現わすことなどなくなっているのに、ラフ族の村には、昔虎が発した怒りがいまだに残照のように漂っているのだろう。わたしはそれと鉢合わせしてしまったのだ。

過剰なエネルギーを抱えた知人は、その怒りもまた虎のごとき猛烈なものだったろう。わたしはそれを背負ってしまったのだ。

『本草綱目』という明の時代の博物誌には、「琥珀」についての記述もあり、そこには、虎の魂が成ったものだとまことしやかに書かれている。
虎死則精魄入地化為石。此物状似之、故謂之虎魄。
虎が死ぬと精魄(たましい)が地に入って石となる。この物のありさまが似ているがゆえに、これを虎魄(琥珀)という。


というところで、ようやく迷路の終着点に達したようだ。

2016年10月26日水曜日

虎の魂(4/5)

このところのテーマのもとではこまごま語っている余裕はないが、タイ北部の少数民族を訪ね歩く山岳トレッキングはたいへんおもしろい体験となった。そこで、つぎは旧正月の時期を選んで出かけることにした。初めてのトレッキングから1年余り後のこと。前回意気投合したガイドのシーモン君と手紙をやりとりして、こちらの希望をつたえ、旅程をまかせて案内してもらうことになった。

仏教国タイでは、旧正月は国全体の祝祭日であっても、少数民族の多くには縁がない。中国文化圏のヤオ(瑶)族のほか、旧正月の行事をおこなうのはラフ族とのことだった。

地元のトレッキングとなると、コースや宿泊先についてあまり選択肢がないのだろう。今回のシーモン君は、ルートを巡って山あいを歩くことはせず、旅行ガイドの役に徹して、われわれ二人をあちこちの訪問先に案内してくれた。
宿泊場所も、奥さんと二人の小さな子供のいる自分の家を提供した。カレン族が住むその小さな村には、シーモン君の両親も隣接する家で暮らし、在来種の小型の黒豚をたくさん飼っていた。
シーモン君と102歳の祖父

普通の観光客なら喜ぶ〈象乗りツアー〉をわたしたちが拒むので、間が持たないと思ったのか、シーモン君は別のカレン族の村に住む祖父の家に案内してくれた。おじいさんはもう102歳になるという。シーモン君が30そこそこなので、祖父にしてはちょっと年をとりすぎてやしないか。
「それ、確かな年齢なの?」
「うん、確かだ。おやじは結婚したのが遅くて、45のとき僕が生まれた。だから、そういうことになる」
おじいさんは年齢からすると驚くほど体がしゃんとして、話す言葉に気力が感じられる。
〈十八番おはこ〉のひとつの昔話だろう、古老は若いとき村が虎に襲われたときの話をしてくれた。家の中に入り込んだ虎を必死で戸口の外に追いやって、戻ってこようとするのを、内側から戸を押さえて何とか防いだという。恐ろしかったの何のって。脇腹に爪をたてられたのが、ほら、このとおり、傷跡になっている。

翌日、乗合のトラック・バスに乗って、旧正月の行事をやっているラフ族の村を訪れた。
最初のトレッキングで泊まったラフ村とちがい、住民の数も多いようだ。
中央の広場には竹を地中に刺して作った簡単なやぐらが立っていて、その上部に設けた座にお供え物の豚の頭が置かれ、笹の葉の束で囲ってある。
今夜はこのやぐらを取り巻いて、村人が踊ることになっている。まさに日本の盆踊りそのものだ。もちろんやぐらの上はまるきりちがうが。

お昼時、村の集会所ではすでに宴会が始まっていた。わたしたち二人のよそ者もそこに招き入れられ、お相伴にあずかった。そのとき食べたもののうち、生の牛肉の唐辛子味噌あえは忘れようにも忘れられない。絶品だったこと、そして、あとでひどい目にあったことで。

夜にならないとお祭りは始まらないので、ラフの村では長居しなかった。
日が落ちて、再び村へ向かう車に揺られているうちに、わたしはだんだん気分が悪くなっていった。村に着いて、お祭りの広場に達したとき、もうこれ以上がまんできず、草むらに嘔吐してしまった。その直後のことだ。全身に震えが走った。前年、別のラフ族の村で体験したときと同じく、背骨がガクガク揺さぶられた。そのときは気分のひどさのほうが切実で、震えのことなどかまっていられなかった。祭りを見物するどころではなかった。

これは旅日記ではないので、事の顛末は略すが、結果的に、旅はそこで中止するしかなく、シーモン君にチェンライの町に連れていってもらった。漢方薬局で選んだ薬が効いたらしく、さいわいそれ以上悪い事態にはならないですんだ。夫もやはり食あたりを起こしたが、わたしよりずっと軽症だった。
あとでシーモン君がチェンライの宿を訪ねてきて、わたしたちに報告してくれるには、あの日、ラフの村では住民の多くが食中毒を起こして、症状の重い何人かが町の病院にかつぎこまれたという。


そうやってチェンライの宿で半病人の身を横たえていたときだった、あの震えの記憶がよみがえってきたのは。--2度体験した異常な震え。どちらもラフの村での出来事。ラフとは虎の意味。古老の語ってくれた虎の話。
分散していたものがひとつに集束していった。それは虎だった。虎をめぐる何かだった。