2020年2月19日水曜日

イタリア・マフィアとアイスランドの家族サガ


マリオ・プーゾの原作を覆い隠してしまうほど話題を独り占めした、イタリア・マフィアの映画『ゴッドファーザー』。その続編とともに、今でも人々の記憶の中で更新を重ねている。
わたしはその映画を、公開された当初の1972年、アイスランドで観た。かの地ではたいへんな人気を呼んでいて、おそらく年齢制限に引っかからない国民全員が映画館に馳せ参じたのではないか。それだけ彼らの琴線にふれるものがあったのだ。

ニューヨークのイタリア系マフィアは派手やかな王国を作り上げる一方、その心的原理は冷徹そのもので、自分の一族への忠誠と、敵対する一族への復讐で成り立っている。まさに古代アイスランドの家族サガの世界そのものだ。

ところで、アイスランド人がそういった自分たちの祖先を題材にして映画を作ったとしたら?古い原作はずらりと並んでいる。


以前、それらしい舞台設定で演じられた「アイスランド時代劇」映画を観たことがある。いずれかの家族サガをもとに映画化したものだったはずだ。そのタイトルも内容も忘れてしまったが、英雄同士が海岸でなまくら刀を振り立てて闘うシーンなど、切れない台所包丁を連想させられ、身がすくむ思いをしたからこそ、こうしておぼえているくらいだ。

原作サガのリアリズムから抜け出せず、もとよりきらびやかな舞台背景などないなかでは、新たな構想にもとづかないかぎり、映画も紙芝居じみてくるのだろう。

その新たな構想が『隣の影』という映画で繰り広げられたので、わたしは飛び上がってしまったのだ。

2020年2月14日金曜日

枝葉のことではあるが



枝葉末節というわけではない。枝葉のことではあるが。
アイスランド映画『隣の影』の話題をもう少し続ける。

隣家の住人から枝払いするよう言われた木は、日差しをふんだんに受けていながら、葉はすっかり虫に食われている。あのとき枝を剪定しておれば、ここまでにはならなかったろうに。

枝払いを拒んだ側は、じわじわ心を蝕まれ、疑心暗鬼を芽生えさせていく。男声合唱の仲間と声を合わせている最中も、初老の夫は気もそぞろで、何か思いついたような表情を見せる。
虫食いの葉叢と、疑念が湧く表情のショットが、交互に重ねられる。こういうメタファーが映画の質を語るのだ。

大辞林によれば「蝕む・虫喰む」という言葉は
虫が食って物を損なう。
(虫が食うように)悪弊や病気が少しずつ体や心をおかす。
とある。

心を蝕まれた状態を、虫やネズミに食われてズタズタにされた姿にたとえるのは、いろんな言語であるようだ。あるいは、金属が錆にやられた状態になぞらえられることもある。だれしも納得がいく感覚だ。

前回、古代アイスランド・サガについて書いたが、そういう長編物のサガには、本筋ではない枝葉の話がまざっていることがある。これは短い伝承譚を集めて縒り合わせることから生じる。おもしろい話はなかなか捨てられないのだ。今日のように編集者がついていれば、ばっさり切り捨てられることになるのだが。

映画の中ではそういったサイドストーリーが、まるで昔の長編サガで残された枝葉の部分のように大事にされている。
観客は、初老の夫婦の次男のしょうもない行状を延々と見せられるのだ。
妻に家から締め出されて居場所を失くし、幼いひとり娘を保育園から連れ出したため犯罪者扱いされ、昔の女友達に助けを求めても説教されるだけ。結局、彼は両親の家にころがりこむことになる。

次男が自分の家族のもとでやらかした愚かな行為は、映画そのものの流れからすると、本筋からそれた余計な部分かもしれない。
だが、両親の家にたどり着いて、次男はようやく自分の居場所と役割を得る。夜のあいだに隣人が木を切り倒すかもしれないので、庭に張ったテントの中で見張るのである。
果たしてその夜、隣の夫がチェーンソーで問題の木を切り始める。テントの中で眠りこけていた次男は、倒れてきた幹に直撃されて死ぬ。

この映画の本来の流れ--木に端を発する隣人同士の争い--で重要な役割を果たすため、次男の存在は大きく描かれる必要があった。たとえ、本人の姿がどんなにけち臭く見えようと。

2020年2月4日火曜日

映画『隣の影』--21世紀のアイスランドサガ!?


気になっていた映画が早くもレンタル店に降りてきたので、DVDを借りて見ることになった。アイスランド映画『隣の影』。
原題は『木の下で』Undir trénu(製作年2017)。製作国 がアイスランド / デンマーク / ポーランド / ドイツとなっているところに何か事情がありそう。


驚いた。うーんと唸った。こんな風に翻案できるのか、古いアイスランド・サガを。
これほど国籍を感じさせず、すんなり今風に仕上げられたサガ作品を見られるとは。長生きはするものだ。

これには少し説明が必要だろう。
13世紀頃、アイスランドでは数多くのサガ作品が書かれたが、それらサガ群でも代表的ジャンルに分類される〈家族のサガ〉は、家族間の争い(family feud)、復讐の連鎖によって展開される。
ほんのささいな諍いがもとになって、相手方の家族(一族)に仕返しをし、されていくうちに(ことに女たちが自分方の男たちを煽るのだ)、報復はとどまるところを知らない。
小さな雪玉をころがしていくにつれ、それが大玉になって、最後は人を押しつぶしてしまうほどの破壊力を持つにいたるといったところか。

さらに付け加えておくと、それらの物語は、無名のサガ作者たちから数世代さかのぼった父祖たちの身に起きた出来事なのだ。叙述の形態からすれば、歴史・年代記のジャンルに入れてもおかしくない。だが、おもだった登場人物たちはその言動で描写されるのが通例で、そこのところではフィクションに分類すべき)


というところで、ようやく映画『隣の影』について。

ここでは家族間の報復が、しゃれたテラスハウスの隣同士である2組の夫婦の間で起きる。
きっかけは、初老の夫婦の敷地に生えている木が隣の庭に影を落とすことだった。妻が日光浴をする邪魔になるので、ちょっと枝払いをしてもらえまいか、と中年夫婦の側が頼んでくる。

たったこれだけのことがきっかけとなって、以後、これまでの不満が堰を切ったように吹き出し、互いに対する意趣返しが始まる。
最初は「大人の対応」をする余地もあったが、しだいに仕返しの手口が嵩じ、家族のメンバーや飼い犬まで巻き込んでいき、ついには双方の夫同士の死闘にまでいたる。
その闘いのサマにならないことといったら。手近な武器をとっかえひきかえして傷つけ合うばかり。一方が他方を倒して落とし前をつけるどころか、結局、共倒れに終わる(これがリアリズムってもの)。
最後の殺し合いのシーンは陰惨に見えるが(いや、陰惨のきわみだが)、現実の殺人というものは、このように実にぶざまなのだ。

アイスランド古代文学の定石を使って、こんな意表をつくおもしろい(?)映画を作り上げた監督たちに脱帽。

映画自体、舞台劇を思わせる簡素な作りである。極力アイスランド的な要素を排したロケーションが選ばれている。国外にロケ地を借りたのだろうか。
そもそも町なかにあんな高い木が生えているわけがない。アイスランドの大半の土地にも。
しかしながら、レイキャヴィクの町の実写はところどころ出てきてそれとわかる。

撮影は、国外に出向かずとも、念入りなロケーション選びですませたということにしておこう。
IKEA
の店舗前の広い野原と、そのすぐそばを走るレイキャネス高速道路 Reykjanesbraut の実写が、かえってアイスランド離れして見える。

『隣の影』という日本語タイトルは、仕返しの応酬の発端でもあり、大いに納得できる。
隣家に影を落とすという苦情のもとになった木は本物ではなさそうだ。舞台の大道具といったところ。
陽光を浴びた枝葉のアップ映像がさしはさまれるが、このシーンは別撮りだろう。葉の形からするとカエデのたぐいか。

登場人物たちが暮らす家は、どれも過剰なほどモダンな住環境といっていい。ローカルなもののかけらも見当たらない。全体的に舞台劇っぽく見えてしまうのはそのためだ。
人物たちの造形は都会風に洗練された風で、男たちはマッチョからほど遠い、ものわかり良さそうな面々だ。

最初のほうで明かされるが、初老の夫婦の側には、家族の宿痾のような悲劇的事実がのしかかっている。だいぶ前、一家の長男が失踪してしまったのだ。あの国でよくあるように、入水したのはまちがいない。が、母親としてはそれを認めたくない。それを否定し続けることでしか生きられなくなっている。だからすべてを否定的にとり、疑心暗鬼に駆られるのだ。
初老の夫の息抜きは、男声合唱の集まりに出て歌うこと。


疑心暗鬼の芽生えはいたるところにある。枝払いされないまま、木は陽光を浴びて立っている。近づいてみると、葉がすっかり虫食い状態である。
そのショットと入れ代わるように、男声合唱のハミングの場面に移る。虫食いの葉は、蝕まれた心と重なり、合唱の声と合わさって、疑心暗鬼をもたげさせる。

最終シーン。修羅場が終わり、テラスハウスは静まり返っている。
樹を伐り倒された家では、ひとり残された妻が2階の窓辺に立って外を眺めている。疑心暗鬼とそそのかしによって次男と夫まで失ってしまった。初老の女の険しい表情は、まだ復讐に向かう先を探しているかに見える。
その眼下の庭先に動くものがある。飼い猫が帰宅したのだ。女が陰湿な復讐に出るもととなった奴だ。姿が見えなくなり、てっきり隣人に殺されたものと思い込んでいたのに。それがまるまる太った姿で悠然と歩いてもどってくる。

ここにいたって、女は特上の復讐に見舞われるのである。

アイスランド流ブラックユーモアが遺憾なく発揮されている。こんなふうに恐怖と滑稽を背中合わせにしてみせられるのは高等芸だろう。

映画の分類としてはサスペンス・コメディ。

2020年2月2日日曜日

ひょっこり、なぜだか、ひょうたん島

かなり無理があるのは承知で、しばらくグレタ現象と宇宙叙事詩『アニアーラ』を交互に並べて考えていた。どう見ても、その二者は同じ源泉から湧き出ているように思えるのだ。

そんななか、「さまよえる宇宙船〈アニアーラ〉はどこへ行く?」というフレーズが思い浮かんだ。するとつぎの瞬間、軽快なメロディに乗った歌が聞こえてきた。昔NHKテレビでやっていた子供向け番組のテーマ音楽だ。それがわたしの頭の中をエンドレスで流れた。

~ひょうたん島はどこへ行く、僕らを乗せてどこへ行く
 丸い地球の水平線を、何かがきっと待っている~


『ひょっこりひょうたん島』という人形劇は、日本でオリンピックが開かれようとしていた年に始まり、5年間続いた。(放送期間 196446-196944日 放送時間 平日17:45-18:00

わたしがその番組を欠かさず見るようになったのは高校に入ってからだ。
井上ひさしと山元護久という原作者がいることなど気にも留めず、物語の奇抜な展開と、はじけ飛ぶせりふや歌のナンセンスぶりに大笑いするだけだった。
そこには独特の味覚が感じられた。なぜか知らねどやみつきになる。声優たちもそろっていた。

 ~ゥリカ、ゥリカ、魔女リカ、魔女のなかの魔女・・・
と唄う黒柳徹子の声は、Rの音をどう発音するかという手本となって、今もわたしの耳に残っている。

当時はビートルズの全盛期でもあった。1966年にはこのスーパースターたちが東京の武道館で公演した。
そのニュースはわたしには無縁の世界の出来事だった。当時彼らの音楽に耳を傾けた記憶もない。
わたしは自室にこもると、手持ちのレコードとFM放送でクラシック音楽を聴いた。そこに限りなく沈潜した。そうやって学校生活で存在を失った自分を生き返らせた。

『ひょうたん島』が見せてくれる笑いは、破壊的なエネルギーを秘めていた。現実世界を木っ端みじんにして、胸がすく思いにさせてくれた。

こうしてひょっこり、昔の人形劇のことを思い出したついでに、わたしは『ひょうたん島』について検索してみた。すると思いがけない裏話に出くわしたのだ。

主要人物たち--ひょうたん島に遠足で来ていた5人の子供たちと女の先生は、ちょうど起きた火山の噴火で全員死んだことにしてあったというのである。
世界中の海をめぐる島の上で活劇を繰り広げていたのはじつは死者たちだった。

作者の井上ひさしが読売新聞の記事でそういった舞台裏を明かしている。
記事の抜粋はつぎのよう--
井上、共作者で78年になくなった山元護久、竹井ディレクターの3人とも、家庭の事情で親に頼れない少年時代を過ごした。
「大人たちに徹底的に絶望した」少年たちが、ユートピアとして考えた「ひょうたん島」は、「親も大人も存在しない、我々が新しい生き方を作って行かなくてはならない場所」になっていったという。
そして、そんな「どこでもない場所」の物語にリアリティーを持たせ、作者の二人が自身を納得させるために出した結論が、死者の物語という設定だった。
劇中に「御詠歌」や「四国霊場物語」を出したのもそのためだが、それは二人だけの秘密だった。


「御詠歌」が歌われる部分はYouTubeで見られる。
あの子供向け番組の晴れやかさは、こんなところに秘密があったのか。

2020年1月28日火曜日

希望を見せてあげるわけにいかない


舞台を職業にしていれば、プロモーションはふだんの業務である。そのことをよく知っている両親は、グレタを精神的に支えるだけでなく、メディアに売り込むことにも尽力した。

母マレーナ・エルンマンは〈グレタ本〉を書いて、出版するにいたった。父スヴァンテ・トゥーンベリのほうも、実現はしなかったものの、グレタの企画番組をテレビ局に売りこむ画策をした。

こんな話もある。グレタの活動が知られるようになって、ある出版社からスヴァンテに、グレタと気候変動の本を出したいという話があった。だが、そこには条件がつけられていた。気候変動についてはまだ希望があるということも入れてほしいという。
しかしスヴァンテは、問題の深刻さを訴えるためには手加減しない、希望についてふれるつもりはないと答えて、その話は立ち消えになった。

ここで話はまるきり別の分野に飛ぶが、日本の林業についてさまざまな切り口で発信している田中淳夫という〈森林ジャーナリスト〉のエピソードが思い出される。
彼のもとには、ネットも含めた各種メディアが意見を求めてくる。しかも例外なく、日本の林業には未来がある、希望があるという話がほしいという。それを拒否すると、相手はたちまち引いてしまい、彼の意見はボツになるのだそうだ。

その分野を知り尽くしているだけに(彼はもともと大学で林学を学んだ専門家で、海外も含めたフィールド体験も豊富だ)、自分の知見に希望的観測を織り交ぜるつもりはない。

とはいえ、日本の林業の惨状を報じるばかりでもなかろう、というわけで、最近出した本では、意識して未来への道筋について語るようにしている。本のタイトルは『絶望の林業』(新泉社2019)。


話をグレタ・トゥーンベリのことに戻す。

グレタは父親に言う--
 みんな希望にとりつかれちゃったみたい。甘やかされた子どもみたいに。だけど、その希望がなくなったらどうするの?嘘をつくの?行動のない希望は、遅かれ早かれ消えてしまうのに・・・

公的な場でのスピーチは--
 もちろん私たちには希望が必要です。でも、希望より必要なものは行動です。行動をはじめれば、希望が広がります。ですから希望を探す代わりに、やることを探しましょう。・・・

(『グレタ たったひとりのストライキ』羽根由訳より)


2020年1月12日日曜日

グレタの不安と絶望



それにしても、なぜこれほどまでに気候変動に脅威を感じているのか、グレタ・トゥーンベリという人は?そこにわたしの関心が向かう。

公的な場で訴える姿が報道されるにつれて、彼女は毀誉褒貶にさらされるようになった。若い人々のあいだで共感が広がる一方で、〈あの子供〉は大人に言われるとおりに発言しているだけだ、どうせあれこれの活動団体の操り人形だろう、とか、早く学校に戻れ、大学に進んで科学や経済学を勉強するのがいい、といった言葉を投げつけられてきた。

ネットの時代、そういった周辺的記事ばかりが増殖し、雑音となって押し寄せ、いちいち取り上げるのも無意味に思えてくる。

言うなれば、グレタは地球の未来に不安を抱いているのである。今や人間の過剰な欲望が地球をむしばみ、将来住めない場所になってしまうのではないかという絶望に近い思いを。
最近では、地球が危機的状況に陥るのは2030年という説まで取り入れるようになっている。

子供時代のグレタは外界に適応するのがむずかしかった、と母マレーナは自著の中で明かしている。その抑えた口調からも、娘が通っている小学校になじめず、いじめられていたことがうかがえる。

トゥーンベリ一家がストックホルムに居を定めたのは、グレタが入学年齢になってからのようで、それまでは母親のオペラ公演に合わせて、一家で移動生活をしていた。

クレタは5年生(11)のとき、環境問題のドキュメンタリー映画を授業で見せられて、衝撃のあまり泣き続け、何も食べられなくなった--このくだりがグレタ本の山場のひとつをなしている。

じっさい両親からすると、食事をうけつけないのに加えて、アスペルガーと診断された長女との生活は、毎日が闘いのようなものだった。(拒食症を何とか脱してからも彼女は摂食障害を抱えている)。

環境問題の映画そのものは、ほかの生徒たちにとっては、すぐに別のことに関心が移って忘れてしまえるものでしかなかった。なのに、グレタには自分の存在が揺らぐほどの脅威として受けとめられたのだ。

学校でほかの子供たちから孤立して、自分から発言しようとしなかったあいだも、グレタは世界のありようを自分なりに考えていたにちがいない。

両親としては、何らかの方法でグレタのことを理解してやりたいと思うばかり。そうやって新しい生きる道を探す途上で一家は、気候変動という地球の大問題を、いわば拠りどころにして、結束するための柱とするようになったのだろう。

現実に、世界各地で異常気象による森林火災や洪水が起きている

2018年、新学期の始まりに合わせて〈学校ストライキ〉を実行すると決めた15歳の夏、グレタは父スヴァンテに連れられてスウェーデン最北の北極圏付近を旅して回る。そこも異常な高温で、極地に定住する人たちも不安をおぼえるほどだった。
気候変動について訴える機は熟していた。



〈グレタ・トゥーンベリの作られ方〉から5回にわたって書き継いできて、ようやく宇宙船アニアーラ号とドッキングすることになる。

半世紀以上前、スウェーデンで熱狂的に迎えられた宇宙叙事詩『アニアーラ』は、それを読まなくなった世代の記憶の深層にトラウマとして残っている。
絶命寸前の地球を離れて生きるしかない人間の不安と絶望を、今現在の世界に見てしまう、それらを環境遺伝のように引き継いでいるのがグレタだ。

グレタのことを語ってやまない母マレーナも、前向きな態度を保ってはいても、ところどころで、地球が失われる不安を吐露せずにはいられない。

 私は横たわり、自分よりずっと不運な人々の記事を読んだ。
 燃えつきてしまった地球で、燃えつきてしまった人々。この星では、気候、風、日常生活が日ごとに深刻度を増している。
 これはまったく同じ病気の異なる症状なのだ、と思った。地球全体を脅かす病気が発生したのは、私たちが互いに背を向けているから。そして自然にも背を向けているからだ。

 ・・・私たちは宇宙の無人島に漂着したのだ。

(マレーナ・エルンマン『グレタ たったひとりのストライキ』羽根由訳より)