2018年1月30日火曜日

多摩川べりこぼれ話

雪に覆われた朝』で語ったように、わたしは多摩川べりに家を借りて、8年ばかり暮らした。
それは苗木栽培を手がける造園業者の敷地内に立っている二階家だった。居住部分は2階にあり、階下は専用の風呂場のほかは業者の物置場所になっていた。

1980年のことだった。その年の前半を旅についやしていたので、わたしは帰国してしばらく、気分的に、移動と宿探しの習性を引きずっていた。
東京の西側、マイナーな路線駅を選んで賃貸物件を探し始めてまもなくのこと、
「とてもお気に召すような物件じゃないとは思いますが」
ためらいがちに不動産屋が出してみせた物件に、わたしの本能が反応し、ぜひ見たいからと案内してもらうことになった。

そのほんの週間前、わたしはギリシャのパトモス島で、一風変わったインテリ・グループのなかにまぎれこんでいた。(そのときのことは以前書いた)。そこへアテネ在住のギリシャ人建築家と画家の夫妻が加わった。どういう気まぐれだったのか、この島で売り家を探すつもりだという。夫妻の家探しに、仲間もぞろぞろついて歩いて、ああだこうだと品定めした。

帰国して、いざ自分で棲家探しを始めてみると、あのときの楽天気分がよみがえってきた。「一軒家」というだけで見るに値するものに思われた。
「わけあり」というほどではないが、その物件は作りと見た目がお粗末だったので、不動産屋からすると、喜んで紹介する物件ではなかったようだ。だが、わたしにとって見た目など何のその、自分が身軽でいられるかぎり問題にもならない。緑に囲まれた一軒家で、しかも家賃が安い。多摩川の河川敷がすぐそこに広がっている。
不動産屋の杞憂をよそに、わたしは喜んでその家を借りることにした。

どんな難があろうと、家の風貌は、そこに住まう人によって作り変えられていく。その地所全体が地植え、鉢植えの植物でぎっしり覆われていた。せめて借家も緑の中に埋もれていれば、望ましい姿となるだろうに。
まっさきに植物に埋もれていったのは、自分の頭のほうだった。いざ自分で植えて育てるとなると、どうしても種類が限られてくる。だが、園芸書や植物図鑑を眺めているだけで心がときめいて、何時間でも過ごせた。

借家とはいえ、そこは自分の城というか巣のようなものとなって、何かにつけ、人を招き入れるようになった。

階段を上った先の玄関口まで、波形プラスチックの屋根で覆われていた。夏には、下の地面に瓢箪やヘチマを植えて、階上まで這い昇らせ、分厚い葉で屋根に照りつける日差しをさえぎった。

「緑の館へようこそ」
と迎えると、招待客の女性は
「何よ、あんた、自分が『緑の館』のオードリー・ヘップパーンだって言うつもり?」と応じた。

それは谷川知子さん、当時、谷川俊太郎と別居中という立場にあった。

2018年1月28日日曜日

大学闘争異聞

承前。
問題のM講師は同じ外大の英語科出身で、在学中デンマーク語の授業を受けていたことから講師として抜擢されたものらしい。外見は肥満タイプ。それでいて、太った人に期待したくなる陽気さはみじんもなく、鬱の気質が外見ににじみ出ていた。鬱の人が太ってしまう典型例だ。

初年度のことだった。講師はときどき授業内容とは関係ない話題を振ってみせた。心にわだかまっている屈託を披露することで、気難しくも高邁な自分を演出していたようだ。
曰く、語学を学ぶのに最適な場所は二つある、ひとつは刑務所、もうひとつは精神病院だね。曰く、自分はクラシック音楽が好きで、ベートーベンを聴いていると、これほど高い境地には、ほかのどんなものをもってしても到達できないと思えてしまう。そう言ったあと続けて
「君たちのうちでクラシックが好きな人がいたら、どんなのが好きか教えてください」と問うた。

わたしは意地でも手をあげるつもりはなかった。
同級生たちのうち、ふたりの男が手を上げた。
ひとりは、ニキビ跡で顔が厚ぼったいせいか、すでに堂々たるおっさんに見える御仁で、それにふさわしい如才ない態度まで身につけている。まっさきに指名されると
「ヨハン・シュトラウスだす。あのワルツを聞くと何ともええ気分になりますう」と答えたものだから、講師は優越感まじりの微笑で応えた。
だが、つぎに指名されたのは一筋縄ではいかない相手だった。
「このところハインリヒ・イザークが気に入っています。最近、ドイツ・グラモフォンのアルヒーフ盤で出た〇〇に入っていて・・・」
狷介という言葉の見本例のようなこの学生の鉄壁の発言に、講師はみごと跳ね返されて目をパチクリさせた。

M講師の屈託がやらかしたのだろう、彼のひとつの行為が、大学闘争へと発展していくきっかけとなったのだ。

大阪外大では、専門科目を2年続けて落としたら退学させられるという学則があった。すでに留年の身だったデンマーク語科の学生が、M講師の科目試験で落とされ、その学則を適用されようとしていた。パニック寸前になった当人が、なりふり構わず命乞いをして回ったため、それは皆の知るところとなった。
同情を寄せた何人かの学生たちが研究室に押しかけて、M講師が採点した成績表をともかく開示するよう求めた。それに対して講師は、貝のように口を閉ざして拒み通した。

この交渉を画策した学生たちは、大学闘争という盤上ゲームの棋譜をすでに目の前に広げていたのだろう。
「あくまで成績表を開示しないということであれば、研究室を占拠する」
と宣言して、問題の講師、そのほかの教師たちをまとめて部屋から追い出した。

主任教授がたちまち白旗を上げて、保管してある成績表を出してきた。すると、当の学生は数字上、問題のない成績だったにもかかわらず、不可の烙印が押されたことが判明したのである。
M講師は、性格からして、そのようなことをやりかねない、という読みがすでに学生たちにあったのだろう。ひとりの学生に対して不当な仕打ちがなされたとわかると、くすぶっていた稲藁が一気に炎を上げた。
研究室を占拠する学生たちはM講師に釈明を求めた。だが、彼は雲隠れして、二度と姿を見せることはなかった。そのうちに、休職して精神病院に入院中との報がもたらされた。

皮肉なことに、彼は自分でかねがね言っていたように、語学を習得するに最適な場所に居ることになったのである。

かりにこういうデンマーク語学科の、それ自体卑小な出来事がなかったとしても、当時、主だった大学に波及していた全共闘運動が、大阪外大をも飲み込むのは時間の問題だった。夜間部の学生のなかには、すでに労働争議を体験してきた者もいた。

そのように始まった大学闘争に、わたし自身、どれほど関わったのだろう。
政治的などんな大義も自分でイメージできない者には、「ノンセクト・ラディカル」という間に合わせの組織がうってつけの場となった。
同じ匂いをなすりつけ合う仲間たちのなかにいて、誘いがかかれば街頭デモに加わり、共闘と称して、やはり学生が占拠していた京都大学に泊まりこんだりした。

その一方で、自分は大河の流れの岸辺で、浅瀬に踏み込んでみては、また安全な岸に戻ったりしているだけだと自覚していた。自分はいつでも安全な世界に戻っていけるのだ、と。

ひとつだけ言いたいことがわたしにはあった。
「こんな、不備のまま始めることになったデンマーク語科は、いったん廃止したほうがいい」
これは自分の偽らざる本心であり、何かの運動につながる話ではない。ところが意外なことに、この発言は
「わっ、何てラディカルな!」
という態度で迎えられ、わたしは大学解体運動の担い手のように扱われた。


あの時代(今だってそうだが)、ほんのわずかな語彙とスローガンを唱えていれば、あとは同時代の空気がすべてを代弁してくれるのだ。

2018年1月27日土曜日

大阪外国語大学デンマーク語学科

2017年は日本とデンマークが外交関係を樹立して150年たつということで、こんな機会でないと日の目を見ないマイナーな催し物が企画されていた。
そのひとつ、「日本とデンマーク--文書でたどる交流の歴史」が秋に東京の国立公文書館で開催された。
それをネットで紹介するページに
〈大阪外国語大学デンマーク語学科設置に関する文部省原議(1966)〉
という項目が掲げられているのが目にとまって、わたしは出向いてみる気になった。
世界に言語が数あるなかで、どうしてデンマーク語などというものが正式学科として新たに設置されたのか、いまさらながら知っておくのも冥土のみやげになるやもしれん。

秋といっても日差しはまだ暑いものの、外で過ごすには絶好の日よりだった。

問題の文部省の文書は笑えるくらい貧相なものだった。紙ぺら1枚に手書きされている。大きさは小型ノートくらい。万年筆書きの細かい文字で、日本におけるデンマーク語の重要性が羅列してある。ただそれだけ。
デンマークの言語学者イェスペルセンに言及しているのは、十分納得できる部分ではあるが、そのほかのデンマークの瑣末なエピソードと同等に並べられているだけ。
どっちにしても、だれかを説得する気があるとは思えない無味乾燥な文面だ。中央官庁というところでは、こんな紙片ひとつで物事が決まっていくのか?
だが事実、大阪外国語大学に新たにデンマーク語学科が設置されたのだ。それを裏付けるのが、この粗末な紙ペら1枚ですって?!!

それにしても、あまりに細かい文字はガラスケース越しでは読みにくく、書き写すのはあきらめた。スマホのカメラで撮影しておきたかったが、監視員がすぐ横に立っているので実行不可能。

当時、国立大学は一期校と二期校とに分けられ、国立大学を受験する機会が2回与えられていた。だから、本命の一期校の入試に落ちた者が、不本意ながら「すべりどめ」の二期校で妥協するケースが多かった。今なら偏差値が決め手になるのだろう。
わたしの場合、「どんなことだって独学で勉強できるのだから、実学・技術としての語学を身につけるのは悪くない」という理由を用意していた。ワグナーに心酔していたことについては、口にするのをはばかった。

15人の定員のデンマーク語科に合格した面々は、一堂に会してみると、みな競うように「自分は一期のどこそこに落ちた」とカミングアウトし合った。

心を白紙にして、初めての言語・文化を学び始めるにしても、設立間もない学科は、悲しいほど、教える側がそろっていなかった。
どんなに拙劣な学校でも、学ぶ側に目的意識と意欲があって、それに応えようとする教師がいれば、そこは充実した学びの場所となるはずだから、手さぐりで学校らしくしていける余地はあったろう。


だが、とりあえず集められたデンマーク語科の教師のなかに、ひとり人格的に問題のある講師がいた。彼のある行為がのちに糾弾を受けることになり、プロ運動家がそれを火種にして、大学闘争に燃え広がるよう煽った。
そのひとことで足りるのではないか。大阪外大のけちな大学闘争などというものは。

2018年1月25日木曜日

はるかな昔、多摩川から遠く離れて

承前。
それよりはるか昔、多摩川から遠く離れて。

1974年頃の京都、伏見区、いつもの場所だった。西部邁夫妻が居合わせていた席にわたしも連なっていたのは。そこは、こちらにとって文字通りサンダル履きで行ける隣家で、いつも文化人サロンが展開されていた。

あの鮒鮨のように濃密な京都文化人の結束する現実を思うだに、それに関わる話題を出すのは気が重い。(だからますます京都文化人は濃密に結束するのだ)。ここでは極力、固有名詞を出さないことにする。

1973年秋、3年ぶりで帰国する少し前から、何とはなしに、自分は帰国後、京都に住む気がしていたのだろう。あの夏、わたしがドイツ語の夏期講習を受ける先としてハイデルベルク大学を選んだのも、無意識のうちに京都への流れを進めていくためだったのか、と今にして思う。

実際に帰国したわたしは、それまで波に運ばれるまま自分の居場所を定めてきたように、周りの人たちの好意にみちびかれながら、京都市南にささやかな一軒家を借りて暮らし始めた。何から何まで異郷のように思えた。(どのみち16歳のときからずっと、故国にいながら異境にある自分を自覚していたのだが)。しかも新しい異郷はすべてが新鮮だった。

ともかく、アイスランドから船便で送った荷物は、大阪港止めにしてあった。
それよりも、まだ在籍していた大阪外国語大学に出頭せねばならなかった。

まず、デンマーク語学科の研究室に出向いて、自分が存在していることを示した。さいわいその場に、デンマーク生活が長かった教師がたまたま居合わせていたので、その人に向かって、3年間の留学がどんなだったかを話した。

アイスランド大学では、文学部の外国人向け課程を終え、最終試験と論文も通って学位を得た。
そのほか、3年目の年度では、文学部、デンマーク語学科第1学年の授業を、アイスランド人学生に混じって受けた。その年度末の試験では、課題論文をデンマーク語で書くのは、ほかの学生と同じだったが、時間制限のあるペーパーテストとなると、アイスランド語で訳文を書いたり、回答したりするのはハンデがありすぎるので、わたしは主任講師に頼んで、別に試験問題を作ってもらい、最終結果を書類の形でコメントしてもらった。
その夏、大学の夏期語学コースで、デンマーク語とドイツ語をはしごするという愉快な体験もあった。

そういう公的書類を見せに研究室を訪れたわけではなかった。挨拶に困って、場を埋めるためのおしゃべりをしただけのことだった。

結果的に、自由を享受している者の、自信をひけらかし気味の姿を見せつけることになったかもしれない。
「こんなところに拘束されて、いったい、何が身につくというのだ、書類上の資格を取得すること以外に?」といった態度は、それ自体、不遜きわまりない。だが、制度で守られていない者、野生動物にとっては、行使していい特権に思われた。

研究室にいたそのほかの、面識のない人たちにしてみれば、いっとき幽霊が現れて、また消えていったくらいのことだったろう。

そのあと、事務課に行って退学の手続きをすませた。

     ・・・・・・・・・・・・・

肝心の西部邁氏のことから離れてしまったようだ。だが、こういったとりとめのない述懐も、氏が導き出してくれているものと思いたい。

京都の文化人サロンでわたしは「アイスランド帰り」と呼ばれて、しょっちゅう開かれる宴会では、ちょっと毛色の変わった珍獣の役割を与えられた。

たぶん「アイスランド」という言葉が何のイメージも結んでくれないからだったろう、人から、どうしてアイスランドに行ったのか、と聞かれることはあまりなかった。
むしろ、せっかく入った大阪外大を終えて、順当に留学すればいいのに、途中で出てしまうなんてもったいない、という観点から好奇心を向けられた。

それに対してわたしは、60年代終わりの大学闘争にかかわることになって、もうもとの場所に戻るわけにいかなくなったから、とごく手短に答えていた。
あるいは、もともと政治とは無縁の人間だったのに、同じ語学科の、救うに値するとは思えない学生を、退学処分から救う運動に加担して、結果として自分自身が退学することになった、と付け加えることもあった。

(実際のところ、あの大学の、あの学科を選んだことが、早くから悔いの種になっていたので、わたしは、大学や専攻を変えられない日本の現実に、恨みの矛先を向けたと言える)。

サロンで西部氏と遭遇したときの記憶は希薄なままだ。つぎつぎに新しい顔ぶれが現れるせいもあったが、客人の多くが美術関係者であり、話題が飛びかうなかで、特に氏とまとまった話をする機会もなかったのだろう。
ただ、あとでサロンの主から、氏がわたしについて何やら好意的なコメントを述べていたと教えられたことだけはしっかり記憶にとどまった。だから自分はじっさいに西部邁という人と出会ったのだと思うばかり。

あのとき氏はまだ30代半ば、少壮気鋭の学者だった。

2018年1月23日火曜日

雪に覆われた朝-西部邁氏のこと

そのあと出現する情景をあらかじめ思い描いていたのではないか。「花のもとにて春死なむ」と願った歌人のように。
その人の入水ののち、出現した雪景色。
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日早朝、西部邁氏が多摩川に身を投じ、「自裁死」をまっとうした。

その報を受けて、ネットでいち早くコメントしていたのは、西部氏と何らかの形で接点があった人たちだ。思想的に共鳴していようがしていまいが。すでに彼の思想について何か言えるだけの見識を持ち合わせていればこそ。
接点ということでは、じっさいに本人と言葉をかわしたという記憶が、何か言わずにおれない気持ちにさせるのだろう。

自分もその一人だ。ただ、わたしの場合、本当の意味での読者とは言えないし、その昔、出会ったことがあるといっても、つかのまの邂逅でしかなかったのだが。

氏が入水した多摩川のあのあたりはよく知っている。日本中が土地バブルの狂騒に揺れ動いていた当時、その余波を受けて、立ち退かざるをえなくなるまでの8年ほどの間、この川べりで借家暮らしていたのだ。

川向こうは神奈川県川崎市。こちらから見える対岸は、護岸と称するコンクリートで固められている。
一方、こちらの東京都側は、車が走る「多摩堤通り」を兼ねた岸壁が、万が一の氾濫をせき止める役割をになっているだけ。
その広い河川敷には、篠竹の密生する藪地までできていて、あちこちにできた踏み道をつたっていけば、簡単に水辺に降りられる。
川そのものは流れるにまかせてあって、台風や豪雨のあとでは、中州が形を変えているのがつねだった。

とびきりの快晴の日には、手品師が布を払って見せてくれるみたいに、ちっぽけな富士山が、視線の果てに出現した。

そのなつかしい多摩川べりが、氏の最後の住環境だったということを知って、胸を突かれる思いだった。

老齢で足どりが不確かながらも、河川敷を進んでいき、踏み道をたどっていくと、湯船をまたぐより簡単に、流れに身をひたしている。--そのような光景が勝手に脳裏で展開していった。

ずっと遠い昔のことだった、わたしが西部邁氏とつかのま出会ったのは。