2017年5月31日水曜日

尾根の上のイタロ(2/2)

イタロ・まだ目が開かない

イタロの成長記録のほかに、〈いたちのイタロのいたところ〉と題して、イタロのいた土地のありようを記してみた。

あの春、家の向かいに見える山の小高いところに、満開の桜がぽっかり浮かび上がっているように見えた。常緑樹の濃い緑で埋め尽くされた中でひときわ目立っている。そこまで行ってみようということになって、初めてあの尾根道に足を踏み入れたのだ。
山腹に山桜の大木が点在する場所までたどり着いたものの、肝心の花は、蔓の追手を逃れて、はるか高いところに咲かせているので、山道から見上げてもほとんど見えなかった。
ともかく、桜が私たちをこの山に引き寄せることになった。藪にふさがれた道を切り開き、大木にからみついた蔓植物(ツルグミが一番たちが悪い)を切り払った。
その道は今ではすっかり通いなれた。二十数年前の開発ブームのとき切り開かれ、都会の人間に売却された尾根一帯は、もとの植物体系を失って、笹とツルグミの密林となり、夏はその上をクズとヤマフジが覆いつくして、蔓の敷物と化す。そんな土地ではハイキングを楽しむどころではない。
それでも、ところどころに、山の要かなめをなすように、照葉樹の大木と桜の古木が残っている。開発以前からそこにあった樹々。そういう場所は、蔓を取り払ってやると、高い樹冠の明るい天井が出現し、落ち葉が積もった地面は下生えもまばらで、広々とした心地よい空間に包まれている。山歩きに出て、蔓植物を切り払わずに帰るようなことはなかった。自分たちが歩くことで山の風通しをよくしているのだと思うと満足感をおぼえた。
そういう山歩きに出たときのことだ、イタロを拾ったのは。

(『いたちのイタロのいたところ』より)

2017年5月30日火曜日

尾根の上のイタロ (1/2)

山尾根で いたちの赤子を拾ったから 五月三十一日はイタロ記念日

日付の読みが長すぎて、無意味に字余り。字数合わせに日付を変えて、「ごがつみそか」にしてみたとて、だれの耳に届きましょうか、このパロディ句は。

前回、房総の家のことを書いた。その地の山が「いたちのイタロのいたところ」だ。
まだ目の開かない幼い仔をその山で見つけ、東京の自宅に連れ帰って育てたあと、ふたたび同じ山のほぼ同じ場所に帰した顛末は、『いたちの生いたち』と題して記しておいた。その記録から当時のことを引っ張りだしてみることにする。


イタロ・拾って3日目


1998年
五月三十一日(日曜日)、午後三時ごろ、裏山の尾根道を歩いていると、笹藪のなかでキーキーと鳴き声がする。鳥の雛だろうか。笹を押し分けて少し降りると、まだ目の開いていない小動物の赤ん坊が、地表の穴から頭をのぞかせ、鳴きたてている。その顔にニクバエが一匹、さかんに止まったり離れたりしている。その小さな生き物のほうに手を出しても引っ込むようすがないので、穴から取り出し、先へ行っている夫に追いついて見せた。だが、野生動物を育てるのは無理だということになって、もとの場所に引き返して穴の中に入れ直す。そのうち親が戻ってくるだろう。
ちょうどそこに群生していた蕗を摘んでいく。
尾根道を端までたどって、新しく生え出てきた笹の新芽を見つけしだい踏み折ってやる。その間、あの仔を育てる可能性について考え続けていた。
動物の糞を見つける。まったく同じものがうちのすぐ裏手の尾根道にもあった。真っ黒で、種らしきものだらけ。木の実を食べる小動物?にしては大うんこではないか。
そのときの山歩きは、蔓払いをすることが目的だった。そのためにわざわざ買った鉈を試すはずだったが、今回はあまり気乗りがせず、一時間ほどで引き返す。
蕗が目印となっているあの場所に、いやでも意識が集中。笹藪のなかからまだ声が聞こえる。だが、非常に弱々しい。ちょっとためらったあと、藪に分け入ってみる。
さきほどと同じ光景が展開されていた。ただし、今度はニクバエが二匹に増えていて、かわるがわる仔の顔にとまっている。その光景に、死が差し迫っていることが感じられる。
どうせ死ぬなら、人間の手もとで死ぬのも同じだ。仔を引っぱり出し、軍手をはめた手で包んで持ち帰る。片手で包みこめる大きさ。体は前より冷えている。
さいわい家にはミルクがあった。それをまず少し温めてみたものの、どうやって飲ませるか。コットンを細紐状に撚って、皿のミルクに浸し、反対側の端から飲ませてみようとした。だが、そもそもコットン紐をくわえてくれない。
つぎに綿棒にミルクをひたして口に押し込むと、ガヂガヂ噛むようにして少しは飲めている。
額の上から首筋にかけて、細長い白っぽい小さなものに覆われている。雑草の種に見えた。
「あっ、あのときハエが卵を産みつけていたのだ」
払ったり、濡れ布巾でこすったりして、ついているものを落とそうとしたが、なかなかとれてくれない。それでも忍耐強く続けているうちに、すっかりきれいになった。
その小さな生き物はけっこう臭い。目の前でオシッコをしたとき、匂いがモロに立ちのぼった。腹から直接、水が湧いて出てくる感じ。はて、雌だろうか?
その仔を連れて東京に帰る道中の長いこと。この動物は何かという議論。いたち以外、考えられない。
頭と背中に灰色の毛が十分生えそろっているものの、腹部はピンクの地肌のままで、見るからに生まれたての仔だ。嬰児にしては鋭い犬歯が、砂粒のように小さいながら、上下ともしっかり生えている。胴長で(胴体を伸ばした状態で頭胴長が十センチ以上ある)、足は短く、毛の生えた指の先に小さな爪。この手の形が、これは絶対にネズミではない、と確信させる。そのほか、太くて短い尻尾が肉体の一部としてついていて、体と同じように毛が生えている点もネズミではない。
とぼしい動物体験を総動員してもこの程度。何といっても、以前夫が家の近くで、いたちらしき動物を目撃しているのが最大の決め手となった。
では、なぜ幼いいたちが巣穴から出てきたのかという疑問。
1.親が巣の引っ越しをしたとき、忘れられた。
2.親が獲物あさりに出たまま、敵(蛇、カラス、トンビ)にやられたかして戻ってこなかった--そこで、残された仔のなかでも元気のいい一匹が、空腹に耐えきれずに外まで出てきた。
3.いずれ親がもどってくるはずだった。・・・それにしても、この仔が顔をのぞかせていた穴は非常に狭く、親が通れる大きさに見えなかった。

東京の自宅にもどると、閉店まぎわの薬局でスポイトを購入。綿棒よりはましだが、首を振り立てるので、スポイトの先端で口が傷つきそう。以前、赤ん坊猫にしてやったように、お腹を濡れティシューでなでてやったら、さっそく排尿、排便。
発泡スチロールの箱にティシューを丸めたものをたくさん置いて、そのなかに入れてやると、体をもぐりこませて寝る態勢をとってくれた。
(『いたちの生いたち』より)


2017年5月29日月曜日

「偶然」の内部には物語の種が

「偶然」とは、『大辞林』によれば、「何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま」と定義されている。

そこには最低限の舞台設定が欠かせない。だれかの身に何かが起き、状況からすると、それが通常ありえないということになり、因果律からはずれた奇縁だとして、人は偶然というものに思いをいたすのだろう。

ならば、「偶然」の内部には、いつも何かしらストーリーの種が納められているのではないかしら。

最近、人と話をしていて、話題が小説『犬に堕ちても』のことになって、わたしはこう言った。
「あの本については、まあ、途中いろんなおかしなことがありましてね。翻訳、出版と平行して、メイキング・オブ・〈犬堕ち〉の別冊だって作れるくらいでしたよ」
惜しむらくは、それらの出来事は、実在する人たちがかかわっているという事情もあって、気軽に語り散らすわけにいかない。

だが、当時あったひとつの出来事なら、知らない者同士のすれちがいのようなものだから、バラしたからといって、とがめられる心配はなさそうだ。

それは房総半島に持っていた家を売却しようとしていた時期のことだった。
わたしがその小さな家を手に入れたのは、自分のうちの季節に駆られた衝動からだったし、四半世紀過ぎて、それを売りに出すことにしたのも、やはりその季節がめぐってきたと悟ってのことである。何よりも、家がこのまま湿気にやられていくと、手のほどこしようがなくなる。

房総半島は、全体が地層の褶曲した山地といっていい。狭い海岸部を離れると、低い山と深い谷とが深緑の襞をなしてどこまでも続く迷宮を作っている。そういう土地の、小さな漁港から急坂を尾根近くまで上がったところにその小さな家があった。

緑の季節になると、売却物件を見に不動産屋に連れられてくる人たちがぽつぽつ現れた。

そんな春爛漫の日、地元の不動産屋の若い伜が連れてきた客は、見るからに神経質そうな女だった。スカーフやアクセサリー、それに室内でもはずそうとしないサングラスといった小物が、小柄な当人をちまちました姿に見せていた。小物で飾りたてたお座敷犬のような印象もあった。

サングラス越しに、女は家の内部、窓の外に目を走らせながら言った。
「住む家を探しているんです、別荘じゃなくて」

いささか突飛な思いつきだ、気まぐれのような。しかも車の運転はできないという。
それでも、ここで暮らすのは十分可能だ。

それから彼女は何よりも気になっているらしい点について聞いた。
「怖いってことありません?」

怖いといえば、家にいたる最後の急坂がそうだ。崖に無理して作った、しかもデコボコの小道だ。
そのほか、山中の環境を知らなければ、夜のしじまに聞こえる物音は気味悪く感じられるかもしれない。
でも、朝早くから鳴き始めるウグイスその他の鳥の声は、それを補ってあまりある。

わたしは自信たっぷりに言った。このあたりは定住している人たちもいるし、暮らすうえでは安全ですよ。それに、車がなくても、自転車があれば、日常生活も何とかやってゆかれますし、と。

女は自分の不安な心だけ、残響のように置き去りにしていった。

何たる偶然だ。まるでわたしが訳している小説から出てきたみたいではないか、この女は。
わたしは演劇プロデューサーになりかわって、彼女を不幸のどん底に突き落としただろう男のこと、その演劇効果を吟味していた。

ヘレ・ヘレの小説『犬に堕ちても』の主人公は42歳の女。家出して、知らない寂しい海辺の土地にたどり着いたあと、海岸の先に見える小島に小さな家があると聞いて、そこに住みたいと言い出すのだ。この気まぐれのような思いつきも、日常生活のなかにまぎれてしまい、いつのまにか忘れられてしまうのだが。


房総の家はしばらくして買い手が見つかった。
あの小柄な女は「泣くのにちょうどいい場所」を見つけたろうか。あのとき42歳だったにちがいない。



2017年5月26日金曜日

偶然という乗り物

 昨日久々に記事を上げることができ、さっそく言い訳しなくてはならないが、このところの空白状態にはちょっとした事情がある。パソコンで日本語入力するための「親指シフト」が突然使えなくなってしまったのだ。といっても、「ローマ字入力」をあたりまえに使っている人たちには何のことかわからないだろう。

「親指シフト」というのは、ワープロ全盛期、富士通が自信をもって広めた合理的な日本語入力方式で、これに慣れてしまうと、万人向けのローマ字入力がまどろっこしく感じられる。そのくらい手になじんでくれる快適な方式だ。思い浮かぶ言葉がじかに文字に置き換わっていくといっていいかもしれない。ストローク数はローマ字入力の半分以下ですむので、当然入力スピードも早い。

だが、富士通の外では普及しなかったため、「親指シフト」はマイナーな方式にとどまってきた。あるいは、熱狂的支持者に支えられて生き延びているともいえる。

だから、この25年間、日本語を書くのに使ってきた方式が、パソコンの画面から消えてしまったのは、筆記に使ってきた道具を失くしてしまったとか、両手が使えなくなったというのと同じくらい狼狽する事態だった。

ここでわたしのパソコン歴を語ってみたいところだが、どれもこれも、機械の進化の過程でちょっと翻弄されたことがあるというだけの話だ。
そもそもワープロを始めるさい、「ローマ字入力」に対する疑問から「親指シフト」を選んだ--このことがあとあとまで影響した。富士通のワープロ専用機を使いこなしていたため、パソコンになかなか切り替えられなかった事情やら何やらは、無駄に涙ぐましい記憶となっている。

最初のパソコンWindows98では四苦八苦した。「不正な処理をしたので終了します」といった高飛車な文言が画面に現れるたびに「ヒーッ」と悲鳴を上げながら、操作の基本は何とか習得した。日本語を書くのは、あいかわらずワープロ専用機だった。

それからまもなくのこと、Microsoft IMEを使わなくても日本語を「親指シフト」で入力できるという話を聞いて飛びついた。
それは「親指シフト」の生みの親、富士通が開発したJapanistというソフトで、簡単に言えば、Windowsパソコンに装備されている入力方式に「親指シフト」方式をかぶせて使えるようにしたものだ。
Japanistの試作ソフトに手応えを得て、バージョン1、さらに2と買い換えて17年、インターネットを立ち上げるブラウザも、マイクロソフトのIEからキツネ紋のやつに、それからグーグル・クロームに変えて落ち着いた。その間、日本語入力は、意識するまでもなく「親指シフト」でこと足りた。

そこに突然の不具合である。これまでパソコンに関してはいろんな事態に対処してきたが、今回は困り果てた。何しろ「親指シフト」自体、マイナーな分野であり、ネット検索しても、これといった解決方法が見つからない。自分なりの判断で、いったんJapanistをアンインストールして、またインストールし直してみたがだめだった。
最終的に富士通のサポートに電話して問い合わせ、そのアドバイスにしたがって、Japanistの最終バージョン2003をインストールすることで解決した。

ここまで、自分でもいやになるくらい、長々と書いてしまったが、それにはわけがある。サポートの人のひと言に感じ入ったのだ。
「これまでずっと2002版が使えていたのは偶然だったのでしょう」
IT技術を専門とする人も「偶然」という言葉を説明に使うことがあるのか!

なぜか自分が、今まで「偶然」という〈觔斗雲〉のような乗り物に乗って、自在に飛び回っていたように思えて、不思議な気分だった。
そういえば、これまでわたしは自分の身に起こる「偶然」を、当然と言わないまでも、ありがちなこととして受け止めてきたような気がする。

前回、稲富正彦をめぐる人たちとの遭遇について書いたように、それは求めて得られるたぐいのものではなく、その時その場にいたがゆえに遭遇したのだ、と言うしかない。

2017年5月25日木曜日

稲富正彦氏のこと (2/2)

それから何年もたって、日本に戻っていたわたしは稲富正彦の名前を目にすることになった。ムンクの評伝の翻訳者として(ニック・スタング『評伝・エドワルド・ムンク』筑摩書房1974年刊)。
ついでに、ムンクがわたしと同じ誕生日であることも知った。

1975
年の夏、返還からまだ3年の沖縄でキャンプ暮らしをしたあと、ついでのように台湾を訪れて、秋になってもまだ熱暑の残る時分、台北の外港、基隆キールンから那覇に向かうフェリーに乗って帰途についた。
その船上でまたもや稲富正彦の名前を耳にすることになったのだ。今度の情報提供者は、アンドレ・レヴィという名前のフランス人言語学者で、以前、京都大学に研究滞在していたことがあり、まだ日本語を忘れないでいた。
(いっしょに那覇の町を歩きながら、看板の文字に目を止めて、「ぢ」て何ですか?「おかず」って「置かない」ということですか?などと質問を向けてきた)
彼は妻がノルウェー人だという。
「妻の一族は外国人好みのところがあってね、従姉妹のひとりなど、オスロの日本人と結婚しているよ」
稲富正彦のことだった。

1980年の春、ついにオスロに出向いて稲富氏と対面をはたした。その前年、わたしは初の翻訳を出してもらっていて、これで氏と会う資格ができたように思えた。当時滞在していたコペンハーゲンから、スカンジナビア3首都を周遊する鉄道割引を利用して出かけた。
意図をもってして何かをすると、不発に終わるのがわたしの常らしい。
稲富氏の勤務先、オスロ大学のカフェテリアでの会話は弾まなかった。わたしのほうで横光利一の未完の小説『旅愁』を話題に上げ、横光の異文化体験の描写が的を外していることなど述べた。それを稲富氏は借り物の意見と見抜いたのだろう。その小説にはそれなりの見どころがある、と言って軽くいなした。
わたしは気を取り直し、例のフランス人言語学者、アンドレ・レヴィのことを、意外な出会いとなった楽しいエピソードのつもりで話題にした。ところが、稲富氏は親戚筋にあたるユダヤ系フランス男にあまりシンパシーを抱いていないようす。文学上の不一致が原因のようだった。
「うちの子と約束がありまして」という言葉で、会見は早々に終わった。
春といっても凍結した世界がゆるむ気配も見せない土地が、よそ者をはねつけるように感じられた。
あとで思うと、稲富氏はあの頃すでに体調が思わしくなかったのではないだろうか。

つぎに稲富正彦のことが話題に上ったのは訃報としてだった。

1982
5月、コペンハーゲン行きのパキスタン航空の便に乗ったときのことだ。その便は中継地イスラマバードで乗り換えるさい、長い待ち時間がとってあった。日本からの乗客は10人ほどだったろうか、専用の待合室で同じ食卓をあてがわれた。そのなかに白人の一家がいた。年配の男とティーンエージャーらしき息子と娘。その息子のTシャツの図柄にわたしの目が止まった。ノルウェー国旗だ。それを糸口にして親子に話しかけた。関西在住のノルウェー人牧師の一家と判明した。父親はNotto Thelleという宣教師。今も検索にひっかかってくる人物だ。
当時わたしはノルウェーのあちこちを訪れるつもりで、いろいろと予習していた。その知識をひけらかしているものと見られたのか、少し牽制ぎみの反応があった。だが、そのあとびっくりするようなやりとりをすることになった。
「稲富正彦氏のことはご存じですよね?」
「もちろん知っています。昨日亡くなりました。新聞に出ていました」
ノット・テレ師は聖職者らしく、稲富正彦を顕彰する口調で語るのだった。
「あの人は若い時分からノルウェーという国にひたむきな思いを寄せていました。高校を卒業するとすぐにノルウェーにやってきて、強い意志でもって言葉を習得し、オスロ大学でノルウェー文学を学び、修士号まで取ったのです」

ノルウェー版 Wikipedia にはこうある。

稲富正彦氏のこと (1/2)

前回ふと思いついて書き始め、途中切れで終わったヨーロッパの「文化のグラデーション」を接ぎ穂にする。
グラデーションなどという言葉を使ってはみたが、あのときの気分を振り返ってみるなら、ヨーロッパ文化の色調が微妙に移り変わっていくさまを音楽のなかに感じとっていたということだろう。

現実の社会も、実在する人間も、本を通じて知る著者も、単一の色で成り立っているわけはない。つねに色調の微妙な移り変わりがそこに見てとれるはずだ、ためつすがめつして見るならば。
何にせよ、物事が微妙に色調を変えて広がっているさまを見てしまう。--それは人生の早いうちに、自分がいつも何かのはざまで浮き漂っていて、自分の色合いなど決められないと自覚するところからきている習性かもしれない。
明快な言葉、明白なたたずまいを、色調の移り変わりとして感じさせてくれるなら、それがだれであれ、自分には好ましい人に思えた。
こちらに何の心づもりもないなか、そういう人たちと出くわすのだ。確かにいろんな不思議な出会いがあった。それは求めて得られるたぐいのものではない。その時その場にいたがゆえに遭遇したのだ、と言うしかない。

そういう人たちのひとりが稲富正彦だ。
彼の名前は、日本語のネット検索では、画家のエドヴァルド・ムンクに関連してかろうじてひっかかってくるにすぎない。一方、彼が長くない生涯の後半生を送ったノルウェーでは、日本出身の特筆すべきノルウェー人として記憶されている。

1971年の夏のこと。アイスランド大学での初年度を終え、魚工場のアルバイトでちょっとした資金を手に入れると、わたしは待望のヨーロッパの旅に出た。前の年、初めて日本を出て、コペンハーゲンに数日滞在したあと、アイスランドに渡って、ずっと冬の暗い時期を過ごしたのだ。ともかく「ヨーロッパ」に出ていかねば、という気持ちに駆られていた。(アイスランド人も「ヨーロッパに出かける」という言い方をする。自国もいちおうヨーロッパに属するのだが)。

当時すでにヨーロッパ周遊のための便宜はととのえられており、鉄道を使って長旅ができるユーレイルパスは、西ヨーロッパのほとんど全土をカバーしていた(島嶼部のブリテンと軍政下のポルトガルは除外されていた)。旅の始まりをイギリス、アイルランドに選んだのは、そのあとユーレイルパスで大陸を無駄なく周遊するつもりだったからだ。以前、アイルランドがらみで書いた話題はそのときのこと。

今のEUの危うい状態、ヨーロッパを目指して難民が押し寄せていることなどを思うと、当時が茫漠とした昔のことのように感じられる。ともかく、あのころのユーレイルパスは、何とも太っ腹なことに、鉄道のファーストクラスが、期間限定ではあるが乗り放題だったのだ。ジプシーに負けないくらい気ままで、どこまでも快適な移動が実現できた。ほんの1年前には想像もできなかった自由をわたしは手にしていた。

とはいえ、安直に得た自由は空回りする。身についた手順をこなすように、つぎのユースホステルを目指して移動することが旅の目的となり、惰性となっていった。ついにはそういう移動生活に疲労をおぼえるようになっていた頃、同じコンパートメントに乗り込んできた日本人の男性と話をすることがあった。
最初の儀礼的なやりとりのあと、もう少し立ち入った話をするうちに、彼はオスロ在住の稲富正彦の名前を出したのだ。わたしがアイスランドの大学で古代文学を勉強していると話したのがきっかけだった。
「それじゃ、この人を訪ねるといい。オスロ大学で文学を教えているそうだから」と言って、紙切れに住所を書いて渡してくれた。たまたまオスロの美術館で稲富氏と出会って話がはずみ、ノルウェー人の奥さんと住んでいる自宅に居候させてもらうことになったのだそうだ。カ月も。

この日本人は短時間乗車しただけで降りていった。名前ももう忘れてしまった。なのに、彼が口癖のように言っていた言葉だけはおぼえている。「オレ何々は嫌いなんだよ」と。細身にダンガリーの上下という姿はいっけん若者風だったが、顔はずっとふけて見えた。
あれは列車がどの国を走っていたときだったのか。それも記憶からとんでしまった。つかのまの出会いで、相手のことを聞き出すところにまではいたらなかったため、気障な部分がとくに印象に残ったのだろう。あらためて推測してみるに、この人は何らかの美術方面の仕事をしていて、オスロのムンク美術館を訪れたということだったのだろう。

そのときの旅の終着地はオスロだった。でも、わたしは気後れして稲富正彦に連絡をとることはしなかった。