2018年11月30日金曜日

怖い怖い話


ジュリアン・バーンズの小説『終りの感覚』を映画化したものではあるが、 『ベロニカとの記憶』は、原作と異なる強烈な印象を残す一個の作品となっており、さまざまな切り口で語ることができる。
わたしのほうでは、「おっと、またシャーロット・ランプリングに出会ってしまった。またあのオーラが全開だ」とひとりごちて、この女優に与えられた役柄についてつらつら考えてみることになった。

若い花盛りのランプリングは、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画に出ているのを見たはずだが、あまり印象に残っていない。

あれから幾星霜、老年に入りかかった近年になって、ようやくはまり役が見いだされたようだ。彼女でなければ演じられない、というよりも、彼女が演じると、役そのものの陰影が深まり、忘れられがたい印象を残すといった特質は、年齢がもたらすものなのか。
ともかくそれは怖さである。落ち着いたたたずまいは知性を感じさせ、おのずから威厳がにじみ出ている、なのにどこか謎めいている。そういう人こそ、内に秘めた怖さを体現する役柄にうってつけだ。

そもそもはフランソワ・オゾン監督・脚本の映画『スイミングプール』(2003)で、ミステリー作家の役を演じたときから始まっているようだ。
地道にきちんと仕事をこなしていく作家の現実世界と、創造の過程でふつふつ湧いてくる妄想とがないまぜになって、両者の境目がないまま映画は進行していく。そういう作家の内面は、シャーロット・ランプリングがあの三白眼で凝視するだけで足りる。日常生活のかすかな切れ目から漏れ出る異界を見ているのがなぜかわかってしまう。

映画『ベロニカとの記憶』(2017)では、さすがの彼女も若い頃のベロニカを演じるわけにいかないが、老年になったベロニカの役ははまっている。そのたたずまいは、ベロニカが40年かけて凝縮してきた感情の、不発のままの地雷の怖さそのものである。

映画『さざなみ』(2015)では、すでに定年退職した教師の役を演じている。長年連れ添った夫に対して、あのえぐるような視線を向けるだけで、すべてをひとまとめにして葬り去ろうとしている彼女の心の内がわかろうというものだ。

じゅうぶんに怖い女優、シャーロット・ランプリングが演じているなかでとりわけ怖いのは、『わたしを離さないで』という、カズオ・イシグロの小説を原作とする映画作品(2010)だ。ここで彼女は、特別な目的で設立された全寮制学校の校長という役を与えられている。

前もって話の概要を把握したうえで映画館に行って観たのだが、その衝撃たるや、じっさい夢にまで出てくるほどで、わたしは長らくこの映画をDVDで再見する気にもなれなかった。


じつのところ、ほんとうに怖いのは、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』というSF仕立ての小説だ。クローン技術を使って臓器提供のための人間をこしらえている世界の話で、提供者として短い生を終える運命にある存在のはかない愛の物語でもある。

これが今後も古びることのないのは、今しも世界中で臓器移植がおこなわれているからだ。カズオ・イシグロの入念に描かれた臓器提供者の世界どころではない。

今の中国では、自国の要らざる人間を収監して、世界中の臓器移植希望者の需要に応じているのだ。
それだけではない。つい先頃、中国の医学界では遺伝子改変済みの赤ん坊を誕生させた、という報道が流れた。
あの国では、SFの世界でしかありえない人体実験が日常のものとなっているにちがいない。すでに国家的使命を帯びたクローン人間が生み出されているとすれば、彼らはどんな環境で育っているだろう。

そこではカズオ・イシグロの小説が、クローンたちのことを知る手引きとして読まれているのだろうか。


2018年11月25日日曜日

記憶が語るもの


前回まで『ロレンス・ダレルの季節』というタイトルの下、6回に分けて書いてきた。じつはまだ終るにいたっていない。いずれまた書き足し、改変することになろう。
ともかく、ロレンス・ダレルについて語りはじめる前は、「記憶を語る」ということが心を占めていた。そこに『ベロニカとの記憶』という映画を観ることになって、大いに刺激を受け、連想が広がっていく先に、わたしにとってのロレンス・ダレルがあったのだ。

今回は『ベロニカとの記憶』の原作であるジュリアン・バーンズの小説『終りの感覚』を話題にしたい。それはひとりの男の、記憶をめぐる話といっていい。
映画のほうは、渋いミステリー・ドラマに仕立てあげられ、観る者を流れに引き込みながら展開していく。冒頭からして、主人公が思いがけない手紙を受け取る場面で始まり、謎解きの心をくすぐる。
あらためて『終りの感覚』を読むと、両者の立ち位置のちがいがわかる。
小説のほうはといえば、主人公が思索をまじえて記憶を語っていくため、物語としてスムーズに流れていかない。何しろ、自分の記憶にある昔の出来事を40年たった今、検証せざるをえないという事情があるからだ。

物語は、今や老境にある主人公のトニーが、高校時代のエピソードを回想するところから始まる。
歴史の授業で教師と生徒が問答をかわす場面がある。トニーはいつもながらの気負いを見せて、歴史とは「勝者の嘘の塊です」と言ってのける。それを老先生は軽くいなして、「敗者の自己欺瞞の塊でもあることを忘れんようにな」という反論で応酬する(引用は土居政雄訳、以下同じ)。

トニーの回想はさらに大学時代の女友達ベロニカと、親友エイドリアンをめぐる込み入った関係へと続いていき、今では苦味を感じずには思い出せない数々のことを、自分なりに総括しようとする。

そうやって若かりし日を回想し終えると、トニーはつぎのような言葉でしめくくる。--私は生き残った。「生き残って一部始終を物語った」とはよくお話で聞く決まり文句だ。私は軽薄にも「歴史は勝者の嘘の塊」とジョー・ハント老先生に答えたが、いまではわかる。そうではなく、「生き残った者の記憶の塊」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。--

「勝者の嘘の塊」であれ、「敗者の自己欺瞞の塊」であれ、はたまた「生き残った者の記憶の塊」であれ、歴史とは残された記憶だ。
それが物語の後半で、記憶の主たるトニーに復讐をしかけてくるのだ。
自分はまずまずの人生を歩んできたと思っている心穏やかな老人は、別の歴史が重層的に進行していたことを思い知らされ、「生き残った者の記憶の塊」さえ打ち砕かれ、とまどうばかり。

青春時代のトニーは、事をひとひねりしてうわ手に出たつもりになったりと、若者にありがちな気負いを周囲に見せつけてきたが、年齢を重ねるうちに人生と妥協することをおぼえ、今では人当たりのいい熟年男になっている。

こういうどこにでもいそうな人間は、一般に、自分の人生をどのように語るだろう、とわたしは考えてみる。

おそらく、何の疑問も抱かずに自分の来し方を語ることができるのだろう。どこそこで生まれ育ち、学校へ仕事へと進み、家族を作り増やし減らして云々。自分を語るのに使える便利なものが世の中には用意されている。定型文、挨拶文、紋切型。
本気で自分のことを語ろうとすると、とかく感情があふれてしまって収拾がつかなくなる。長い人生には込み入った出来事もあったろう。とはいえ、絡み合った糸を自分解きほぐすのは容易ではない。そこで定番の、既成のストーリーの出番だ。その鋳型に、感情という形の定まらない流動体を注ぎこめば、まがりなりにも姿形をそなえた物語ができている。あるいは常識や通説が支えてくれる意見を述べるのもよし。

どうやらわたしはフロベールのほうへと向かっていきそうだ。このへんで打ち止めにしておきたい。

ところで、ジュリアン・バーンズという作家は大のフロベール好きで、『フロベールの鸚鵡』というパロディ小説まで書いているのだ。