2017年2月28日火曜日

片隅から眺める

片隅から眺める。それに尽きるのかもしれない、自分にとって望ましい立ち位置は。

その昔、『華麗なるギャツビー』の映画(1974年制作)を見たとき、いかにもアメリカ的な新興富豪のパーティ三昧の生活と、そこで繰り広げられるドラマ模様には辟易させられた。ところが、それが第三者によって見られ、語られていく展開がわかってくると、ギャツビーをめぐる物語から目を離せなくなったのだ。
主人公の派手な生活ぶりの裏に見え隠れする寂寥。彼を取り巻く、一見薄っぺらな人間たちに感じられるニュアンス。そういったものが、影の主人公ともいうべきニック・キャラウェイの目を通して描かれる。
ニックは地味で内気な人物で、たまたま借りた古家がギャツビー邸の広い敷地に隣接していたためその片隅から、目立たない存在のまま、目の前で繰り広げられる狂騒世界を眺め、自分なりに見える絵柄を描いてみせる。といって、その絵模様に自分をまぎれこませるようなことはない。

その映画で見たニックの立ち位置が、わたしには妙に心地良いものに思えた。自分をそんな場所に置けば、自然に何事か語りだせるような気がした。
つまるところ、自分は舞台の中央で演じるようなタマではないと白状しているわけだが。

ブログを始めてちょうど1年になる。
自分の記憶という限られた素材をもとに書いてきて、自分の立ち位置が見えてきた。
過去の記憶--といっても、その後の年月によって多少なりとも修正されているものだが--そんな記憶に、今の自分に可能な解釈をほどこす。一方、日々、世界で起きて報道される出来事に端を発し、過去の記憶が呼び起こされることもある。過去と今をつなぎ合わせてみるうちに、何かしらまとまった形ができていく。

そんな作業を振り返ってみると、ジグゾーパズルのピースをつなぎ合わせていくイメージが思い浮かぶ。ただし、それは平面図ではない。時間軸が加わって立体像になっているはずだ。ささやかなものでしかないが。

2017年2月21日火曜日

言うにこと欠いて

まちがいなく、このわたしも長年にわたって教育されてきた、A新聞によって。子供の頃からわが家でA紙は地元紙といっしょに食卓に置かれていた。その文章は周到に咀嚼され、口当たりよくできていたのだろう、中学前から目についた記事を読んでいたと思う。
A紙の方向づけに自分がすんなり従ったかどうか--それについては何とも言えない。若い心と頭を引きつけるものは新聞以外にもいくらでもあった。

それにしても、十代の人間を突き動かす「憧れ」の情動は、何かをおぼろげに知るところから生じるのだろう。地方都市のくすんだ日常に幽閉されていると思える身に、A新聞は外界にひらけた窓のように感じられた。紙面で発信されるさまざまな文化世界が燦然と輝いて見えることもあった。
〈大阪国際フェスティバル〉の特別企画として開催された〈バイロイト音楽祭〉がまさにそうだ。主催元のA新聞が、別格扱いの華やかな特集を用意して、その祭典のことを報じていたのだ。高校生だったわたしはその記事を見つけて、親に頼み込み、何とか前売りチケットを手に入れた。
すでに脳内でリヒャルト・ワグナーの音楽が麻薬のように効いているなか、ゲルマン神話も含めて、その楽劇の世界は、自分個人がひそかに祀る宗教のようになっていたのかもしれない。このことについては、いずれ別の筋立てで語る機会があるだろう。

今はA新聞のことからそれるわけにいかない。

元朝日新聞記者の永栄潔が書いた『ブンヤ暮らし三十六年 : 回想の朝日新聞という滅法おもしろい本がある(草思社 2015)。朝日という組織は、過去の一時期、この著者のように清濁併せ持つ、厚みのある人材を数多く抱えるだけの精神的余裕があったのだ。もちろんそれは経済的余裕に支えられていたのだろうが。

その責任の大きさに対し、まともな反省も見せずにやり過ごそうとしていることで、今も朝日新聞に対する批判がやまないのも当然だ。だが、ここでバッシングに加わろうというつもりはない。

 わたし自身、A新聞の説教調が鼻につくようになって、長年の講読をやめたという経緯がある。

20世紀の真っ盛りメディアの世界が百花繚乱だったなか、A紙はつねに教育者としての立ち位置にあって、自分たちが「正しい場所」にあるとしてきた。だから、そこには本当の花が咲かなかったのだろう。

報道記事よりも、コラムのように自由度の高い記事で、記者たちの余技的力量が発揮される。埋め草のような扱いだったとはいえ、A紙の匿名記者の書くコラムはこしらえ物に見えた。
おそらく組織での順位が上がって、コラムを担当するようになったのはいいが、乏しい体験から絞り出すだけで精一杯だったのだろう。風呂場の鼻唄みたいに、ひとりいい気になって歌う歌は、たいがい聞けたものではない。
「言うにこと欠いて」の発言ではあったが、そこには組織の姿勢というものがからんでいたはずだ。
のちに知ったのだが、A紙は記事に「角度をつける」ことになっているという。あの匿名記者たちは、社是に合ったコラムを書くのにさぞや苦労したろう。

20世紀も終わりに近づいて、それまで長らくなじんで別れがたかったワープロを捨て、パソコンに乗り換えた。購読紙はすでに朝日から毎日に変えていた。

ある日の『天声人語』にさすがに堪忍袋の緒が切れたのだ。

その欄ではおなじみの切り口で、さりげない出来事から始め、そこに何らかの意味づけと色合いを加え、文句のつけようのない教訓に仕上げる--手順はいつもながらだった。ところがその日の執筆者は知性の点で難があって、自分の誤謬を教壇でさらすことになった。さらに絶望的だったのは、その誤りを訂正してあげる人がいなかったことである

 " I'm not an exhibitionist! " 
たまたま見かけた若い白人のTシャツにそう書かれているのを目にして、「自分は展覧会主義者ではない」ととった執筆者は、その誤解の上に意味付けをほどこして、ひねりのきいた教訓を導いてみせた。完璧な展開を見せたつもりだったろう。
「オレ露出狂じゃないよ」というだけのことを、誤解にもとづいてここまで捏ねあげる。「言うにこと欠いて」とはまさにこのことだ。

「この!」紙面に向かってわたしは毒づいた。

2017年2月14日火曜日

マイケル・ブース氏トークイベント

たぐり寄せた糸がまだとぎれずに続く。

「正義」性を表明したければ、「教育」という手を使うにかぎる。自分が教育する側にいるかぎり、目の前に居並ぶのは教育される側であり、これら二者は截然と区別され、上下に分かれている。教育する側がつねに上にあって、しかも正しい(ということになっている)。
「教育」という言葉自体、すでに事々しい防壁が張りめぐらされているように見える。
国の大事であるからと、「教育」を、文句のつけられない聖域にしたうえ、それを大事にしている自分たちを、文句のつけようのない領域に置いておく。--学校以外の場でそれを実行してきたのが、日本の有力紙、A新聞だ。

その聖域、領域がいくら広いように見えても、現実の世界からすれば、柵をめぐらした内向きの世界でしかない。自分たちだけで見つめ合う人たちには、その背後に広がる世界は存在しない。

自分で口ごもりそうになりながら、教育などという言葉を出してつぶやくことになったが、これも想定どおりの道筋ではある。以前、マイケル・ブースの『限りなく完璧に近い人々』を話題にしたあと、こういう展開でいくつもりだったのだ。そもそものきっかけはブース氏のトークイベントだった。

去年の秋のこと、このベストセラー本に関する評やコメントをネットで漁っていたら、A新聞のGLOBEという部門が、ブース氏を招いてトークイベントを開催するという情報に行き当たった。題して『世界一幸せ?北欧社会のリアルを読み解く』。ネットの気軽さもあって、参加者募集にその場で応じたのだ。

主催はA新聞、会場は出版元のカドカワが所有する豪勢なビルのホールで、12月2日、マイケル・ブース氏のトークイベントがおこなわれた。
北欧からのゲストは在日フィンランド大使ただひとり。フィンランドはブース氏が個人的に偏愛する国であり、A新聞からすると、教育というテーマで理想を語るのにうってつけの国だ。
そのほか、胴元A新聞の社長と司会役の女性記者が同席し、ブース氏を調教済みの動物のように披露し、A新聞の味覚の嗜好に沿う話題を振った。ブース本をおもしろくしている絶妙な切り口とレトリックについては完全無視。そのかわり、教育、男女共同参画、子育て、ライフワークバランスといった、おなじみの分野に誘導し、そこを自社自賛の場に仕立てた。
クライアントのそういう空気を読み、期待に沿った発言をするくらい、手だれのジャーナリスト、ブース氏には造作ないことだ。
彼が得意とする皮肉や逆説まじりにひねりをきかせたユーモアは、凡庸な精神には荷が勝ち過ぎる。たとえそういう発言を頭で理解できたとしても、A紙の二人は返す言葉を持たないだろう。湿気たマッチ棒に火がつかないがごとくである。その場は「限りなく朝日に近い言説」の周囲によどんでいた。


渡辺雅隆社長は何かと「うちでは」という言葉を口にした。朝日の「正しさ」がつつがなく受け継がれていく現場を見るようだった。

2017年2月7日火曜日

花も草も生えないコチコチの校庭

前回から糸を幾筋か、たぐり寄せて続ける。

窓の外に小学校が見える。校舎の向こうは校庭で、ふだんから運動場として使うという目的に沿っているのだろう、まっ平らな地面が広がっている。コチコチに固められていて、花どころか草1本生えそうにない。日本全国、大半の学校で見られる光景だ。

コチコチの校庭は「絶対的正義」の具現化と言えないだろうか?教育現場にいるというだけで、自分が正しい側にあるのだと信じている教師たちの、晴れがましいまでに平板な心のようにも見える。そこに疑いをさしはさむ気分的余裕など、入りこむすきまもない。学校教師は、未熟な人間に「当たり前」なるものをたたきこむことになっているのだから。さもなくば、「落ちこぼれ」などという言い方ができるはずがない。

イスラエルの詩人、イェフダ・アミハイ(1924-2000)の作品『わたしたちが正しい場所』を思い出す。

  わたしたちが正しい場所からは
  花はぜったいに咲かない
  春になっても。

  わたしたちが正しい場所は
  踏みかためられて かたい
  内庭みたいに。

  でも 疑問と愛は
  世界を掘りおこす
  もぐらのように 鋤のように。
  そしてささやき声がきこえる
  廃墟となった家が かつてたっていた場所に。(*)


ドイツに暮らすユダヤ教正統派の家に生まれたアミハイは、子供のとき、両親に連れられ、パレスチナの地に移住してきたという。以来、イスラエル建国によって引き起こされた数かぎりない紛糾のなかで、エルサレムの厚い層をなす歴史とともに生きた。
そこでは、自分たちこそ正義の側にいるとするさまざまな人たちが、おのれの正当性を声高に主張している。今もなお。アミハイは、そんな町の、固められた石のあいだに、生き死にしてきた人間のひそやかな息吹を聞き取ってきた。

(*)『エルサレムの詩--イェフダ・アミハイ詩集』(村田靖子・編訳・思潮社・2003