2019年4月30日火曜日

北欧館のこと、1972年から翌年にかけて(承前)


前回の記事を承けて続ける。

レイキャヴィクの北欧館 Nordic House は今もデザインの斬新さを失っていない。設計したのはアルヴァ・アールト Alvar Aalto 、フィンランドの誇る建築家・デザイナー。1968年に外観が完成したとのことなので、アールト後期の作になるようだ。

北欧館 2017 --向き合うように建っているのが〈新寮〉
アイスランドに留学していた当時、この独特の形状が、何か特別に降臨したもののように思われた。

グーグル・アースで見ると、現在、建物の輪郭は変わりない。向かいの〈新寮〉も健在のようだ。しかし、1972年当時、手つかずの荒野だった一帯は、ゆったりした屋並みに覆われ、国内線の滑走路は大幅に拡張されている。

ともかく北欧館は北欧5カ国の文化振興を目的に造られた公共施設だ。

表側の明るいカフェテリアが一般に開かれ、ホールでは講演・レクチャーが開催された。だが、開館して数年の当時、人目にふれない地下部分は、まだ手つかずのままだった。

北欧館の顔になる役職は北欧5カ国から交互に選ばれる。

フィンランドから新しい館長が赴任してきたのは1971年のうちか、それとも翌年になってのことだったか。就任記念の講演会が開かれたとき、わたしは友人のアンナに誘われて行ったのをおぼえている。

名前をどうしても思い出せないが、このフィンランド人館長は重苦しい印象を漂わせる中年男性に見えた、という記憶はある。だが、このあたりについては、1年後に起きたあの凄惨な死が、逆にこの人物に重苦しい印象を植えつけることになった、と言えるかもしれない。

当時としては稀に見るあの事件について、本気で調べる気になれば、それなりの情報が得られよう。そして結局のところ、死に方はともかく、よくある自死の1件として収束するだけのことだろう。

ここではそういった歴史事実を示すことはできないし、あの件の真相が解明されたかどうかについても不明である。あくまで個人的体験としてあのことを語るまでだ。見聞きしたものが季節の移り変わりと織り交ぜられ、自分のうちに全体像の形で定着した記憶--それこそが体験にほかならない。

以前のブログ記事に書いているが(ここ)、チェスの世界王座をかけてアメリカのボビー・フィッシャーとソ連のボリス・スパスキーが対決したのが、この1972年の夏のことだ。
大学が夏休みに入ると、わたしは老人施設で短期間働いたあと、その夏いっぱいをデンマークの国民高等学校で過ごすことにしていた。すでにフュン島のリュスリンゲという田舎町の学校から受け入れの返事をもらっていた。

初めてのデンマーク滞在、しかも全寮制の学校で過ごした日々は、まちがいなく自分を作ってくれた。デンマークの夏は、日本の五月晴れのような天気がずっと続く最高の季節で、わたしは秋冬の暗くて鬱陶しい時期を知らないまま、「永遠の夏休み」のエッセンスを存分に味わった。
(この夏のデンマーク体験については別の機会に書くつもりだ)。

リュスリンゲに滞在中、待ち望んでいた知らせがアイスランドから届いた。政府奨学金を引き続き受けられるという。アイスランド大学で留学生コースの最終年度の課程に進み、卒業(学位取得)試験に臨むという進路がわたしを待ち受けていた。

秋になってレイキャヴィクに戻ると、わたしは前年度と同じ〈新寮〉の部屋を割り当てられた。ただし、北欧館の見える側とは反対の、眺めがぱっとしない裏側だったが。

新しい年度、わたしは留学生のためのアイスランド文学コースの最終課程を始める一方で、デンマーク語科の初年度コースに特別に入れてもらった。
アイスランドにおけるデンマーク語の立ち位置について、以前取り上げたことがある(ここの中ほど)。古代とあまり変わらない姿を保っているアイスランド語からすると、デンマーク語は退化のきわまった言語といってよく、まともに習うに値しないと思われているふしがあった。小学校4年から習う必修科目のデンマーク語は、文字情報を得るために使えれば十分だとばかりに、発音はなおざりにされていた。
デンマーク人からすると、あの玄妙な音韻を無視したアイスランド式デンマーク語を耳にするのはやりきれない。だから、アイスランド大学デンマーク語科の初年度は、ともかくあのなげかわしい発音を矯正することに力点が置かれていた。

年が明け、日が伸びつつも厳寒の冬が居すわる時期、週末と祝日が合わさった短期休暇があり、地方出身の学生たちはそれぞれに帰省してしまって、〈新寮〉は閑散としていた。

そんなある朝、わたしの部屋を寮の管理人が訪ねてきて、開口一番、
「大丈夫、もうすべて片づいたから、何も心配することはない」と言った。
わたしがきょとんとしているのを見て、管理人は隣室で何が起きたかを話してくれた。隣の住人である医学部の男子学生が、昨夜、部屋のなかで亡くなっているのが見つかったというのだ。
休暇が始まって、大学の友人たちは彼が北部の実家に帰ったものと思っていた。一方、郷里では婚約者が彼の帰りを待っているのに、何の連絡もなく、寮に電話してもつながらない。そこで管理人に部屋を見てくれるよう頼んだ。すると、当人はベッドの中でこと切れていた。
死因に不審なところはなかった。もともと癲癇の持病があって、睡眠中に発作を起こし、嘔吐したものを喉に詰まらせて窒息死したのだ。死後1日以上たっていた。
わたしは昨夜は友人のパーティに出かけていて、寮に戻ったのは深夜だったので、隣室であったはずの騒動に出くわさずにすんでいた。

わたしは管理人に「大丈夫、平気だから」と言ってはみたものの、それは昼ひなかの話で、夜もふけて寝床に入ると、安眠するどころではなかった。自分の五感のすべてが、壁ひとつへだてた隣室に向けられていた。そこは換気のため小窓が開けてあるらしい。厳寒期特有の強風が吹き込んで、悲鳴のような音を鳴り響かせている。
こちらのベッドは隣室の壁に接していた。ついに耐えきれなくなって、起き出すと、ベッドを反対側の壁に移動させた。それでも音が聞こえてくることに変わりはない。わたしは身を固くして、まんじりともしないで夜を明かした。

そのあとわたしは部屋を代えてもらい、眺めのいい側に移ることができた。北欧館を前景にして広く開けた眺望は、さすがに気分を一転してくれた。

大学棟の正面に立つポールに半旗が掲げられていた。
休暇が明けてデンマーク語科の授業に出ると、わたしはちょっとした〈時の人〉になった。
「半旗が立ってるけど、だれが死んだのかしら?」
わたしはさっそく事の顛末を話して聞かせた。教師も学生も全員女というクラスである。新たなゴシップ種が投下されて、教室内は、魚がエサに群がるみたいに沸き立った。

2019年4月24日水曜日

1972年の復活祭の頃


復活祭に関連してあの話を書いておかなくては・・・と思いつつ、時宜を逃すこと2度、3度。今年はどうやら自分の内的気運が高まったようだ。

今年421日の復活祭は、スリランカの自爆テロに血塗られることになった。その数日前、パリのノートルダム大聖堂の尖塔が焼け落ちるという象徴的な災厄が起きたばかりだ。
それでなくても今年のイースターホリデーの時期は、交通事故のニュースが続いたのが印象に残った。--マデイラ島で観光バスが制御不能になって崖から転落、乗っていたドイツ人観光客が大勢亡くなった。日本では、高齢者の運転する車が暴走し、あるいは停車中のバスが急発進して死者を出すという事故が続いて起き、さまざまな議論を呼び起こした。

これら一連の事件、事故に何らかの因果関係を見いだそうというつもりはない。
わたしにとっては、復活祭の時期に印象に残る出来事が立て続けに起きるだけで十分だった、昔のあの記憶を鮮明によみがえらせるには。

1972
年の復活祭は42日だった。当時わたしはアイスランド政府の奨学金を受ける身として学生寮に暮らしていた。大学本棟の両脇に建つ新旧2棟の学生寮のうちの「新寮」のほう。窓の外は、真正面に見えるモダン建築の〈北欧館〉のほかには、何もない野っ原が広がるばかり。そのずっと先にある小さな国内線空港も丸々見えた。


             Norræna húsið (Nordic House 北欧館)フィンランドの建築家アルヴァ・アールトの設計。〈新寮〉の窓からこんな風に見えていた。 

復活祭をはさんだ休暇が始まった頃、同じ「新寮」に住まう男子学生の行方がわからなくなった。最後に彼の姿を見たのはタクシー運転手だった。深夜、寮の玄関前まで送り届けたのだ。かなりの酩酊状態だったという。そのあと学生は部屋に戻ることはなかった。

きっと目の前の野っ原に迷いこんでそのまま行き倒れたのだ。真っ先にそういう判断が下されるのが、いかにもアイスランドらしい。
そこで、広い荒野を横一列に並んだ捜索隊の一行が、櫛で梳くように進んでいく探索がなされた。復活祭当日のことだ。

その朝、大学ホールでおこなわれるバッハの『マタイ受難曲』の実演に参加するため、スウェーデン人の友人アンナと連れ立って出かけるとき、小雨の中、荒野の捜索が始まったところだった。

 『マタイ受難曲』は、イエス・キリストが自らの死を予感する場面から始まって、ついに十字架にかけられて亡くなり、そのあとよみがえるまでを、聖書にもとづいて克明にたどっていく、いうなれば音楽劇だ。
演奏者と合唱団のみならず、聴衆も参加する形式になっていて、ホールに入場するさい、コラール合唱の歌詞が皆に手渡されていた。演奏の途中、指揮者の合図で聴衆が立ち上がり、さきほど歌われたなじみ深い旋律のコラールを復唱するのだ。
唱和する声の厚みは広い会場を突き抜けて、天空に達するかに思われた。

23時間の演奏が終わり、わたしたちが歩いて学生寮に帰り着く頃には、捜索の隊列が荒野のずっと先まで進んでいるのが見えた。

行方不明の男子学生は結局、見つからなかった。きっと何かの出来心から、近くの海岸まで歩いていき、そのまま海に入ってしまったのだ、ということにされた。

アイスランドでは、メディアというものがなくても、何かあると皆、その事件について知っている。しかも驚くほど早いうえに、内容的にほとんど違いがない。まるでその場で見聞きしてきたかのように、だれもがその事件の詳細を語れるほどである。
あの学生がいわば「復活祭時期に行方不明になった学生の話(サガ)」として語られてきたかのように、だれもがその顛末を知っていた。

だが、その「サガ」が末尾で、「かの男は何らかの出来心から、近くの海岸へ足を向け、そのまま入水し終えた」といった文句でしめくくられたとしても、この人物は別の噂(サガ)のなかで取り上げられることになる。

あの未解決事件から1年近くたった頃、奇妙な噂話サガ)がささやかれるようになった。

(このあと3回に分けて続ける)。