前回までの5回、ゆるくつながって続いていた話を、いったん中断して、別の話題を差しはさむことにする。
昨夜の赤い月が誘いかけるのだ。
待たれていた皆既月食は予想外にはっきりと見ることができた。肉眼では、半ば欠けた月面が赤みがかって見えるのに、双眼鏡を通して月そのものを引き寄せてみると、いつもと同じように白っぽいのはどういうわけだ?
翌朝になると、天気は一変して下り坂。冷たい雨が小雪に変わって、世界が白い靄の中に閉されていく。わたしの心はそのまま、あの映画の世界へと沈み込んでいった。
アイスランドのミステリー映画『湿地』(2006年制作)。
原題は Mýrin --文字通り沼地や湿地のことだ。英語圏ではタイトルを変えられて、 Jar City(瓶詰めの町)になっている。 |
月からこの映画へと連想が続いていくのにはわけがある。映画の最初のほうで、『ツィゴイネルワイゼン』のメロディが圧倒するように迫ってくるが、その曲には『ジプシーの月』という別名があるのだ。サラサーテが中心メロディとして借りてきたハンガリー民謡ではそう呼ばれている。
ユニゾンのハミングで歌われる男声合唱の声が、ごくゆっくりしたテンポでうねり広がって、荒寥たる風景一面を覆い、陰惨な殺人事件の背景を教えてくれているように思われた。
そうか、月食の途上の月があのように赤い色をしているのは、地球という大きなものにさえぎられ、自分の感情を押し殺しているせいか。
そういう押し殺した怒りでいっぱいだった、『湿地』という映画は。
そういう押し殺した怒りでいっぱいだった、『湿地』という映画は。
少し前、初めてこの映画をDVDで観ていて、ハミングで歌われるメロディに見舞われてうろたえた。そこでいったん停止して、
「この曲、ほんと、よく知っているのに、題名が出てこない。何だ、何だっけ?」
とつぶやきながら、メロディを反芻していくうちに、ようやく、ツィゴイネルワイゼンだ!と言い当てることができた。
「この曲、ほんと、よく知っているのに、題名が出てこない。何だ、何だっけ?」
とつぶやきながら、メロディを反芻していくうちに、ようやく、ツィゴイネルワイゼンだ!と言い当てることができた。
この映画での歌いぶりを聴けば、だれだってうろたえるだろう。独奏ヴァイオリンが弾くあの張りつめた調子とは真反対の境地にあるのだ。
サラサーテ版を思いきり引き延ばしたスローテンポで、男声合唱のハミングで歌われるメロディは、寒冷な湿地に立ち込める霧のように、あるいは、際限なく落ちてくる雪のように、出口の見つからない絶望となって、うなりやうねりの重圧感で迫ってくる。
サラサーテ版を思いきり引き延ばしたスローテンポで、男声合唱のハミングで歌われるメロディは、寒冷な湿地に立ち込める霧のように、あるいは、際限なく落ちてくる雪のように、出口の見つからない絶望となって、うなりやうねりの重圧感で迫ってくる。
『湿地』という物語自体、アイスランドの特異な現実がベースになっている。国民の遺伝子情報を集めてデータバンク化するというプロジェクトが本当に実行されているのだ。
主人公は事件現場での経験豊富な警部。彼がひとつの殺人事件を調べていくうちに、人間ドラマの断片らしきものが明らかになっていく。
その一方で、自分の遺伝子を切実な思いで調べている若い父親がいる。幼い娘が難病に苦しんでいるのだ。遺伝子バンクの情報から、病気の原因は自分が受け継いだ遺伝子にあることをつきとめると、彼は悪い血に対する復讐へと向かっていく。
この二人のドラマが平行して流れ、最終的に合流したとき、男は自分の呪われた血を断ち切る決意でいた。
その一方で、自分の遺伝子を切実な思いで調べている若い父親がいる。幼い娘が難病に苦しんでいるのだ。遺伝子バンクの情報から、病気の原因は自分が受け継いだ遺伝子にあることをつきとめると、彼は悪い血に対する復讐へと向かっていく。
この二人のドラマが平行して流れ、最終的に合流したとき、男は自分の呪われた血を断ち切る決意でいた。
アイスランドの「バイオバンク法」がらみの話自体、それでなくても興味がつのるのに、警部自身のとうてい自慢できない家庭内事情や、好物の食べ物のことなどが出てきて、書き始めると収拾がつかなくなりそうなので、とりあえず、この映画について、ポイントをひとつに絞って語りたい。
そう、まさに音楽をめぐる話だ。しかも、それはこの映画の構成において要(かなめ)の役割を果たしている。
この映画の監督はバルタサル・コルマウクル(1966-)。ミュージシャンのムーギソン(芸名。1976-)~ロッカーでありブルース・シンガーでもある~と緊密な共同作業をしながら、この映画を作り上げたにちがいない。映像と音楽とが絡み合って、もはや両者を引き離すことができないほどだ。
ムーギソンはこの映画のサウンドトラックを公表しているので、映画で使われた音楽のひとつひとつをあらためて聴くことができる。(リンクはここ)。
タイトルからわかるように、それらはアイスランドの昔の流行歌、歌いつがれてきた国民唱歌、子守歌、賛美歌といったよく知られた古いメロディが大半だが、その中にとびきり新しい自分のナンバーもまぎれこませている。歌詞のないハミングで歌っているのは、警察官で編成された男声合唱団だ。彼らの姿も映像の合間に差しはさまれる。
ギリシャの古典劇では、「コロス」と呼ばれる合唱隊が控えていて、登場人物のセリフだけではわかりかねる内容を補足・説明していたそうだ。
この映画では、登場人物たちに代わって彼らの心を開いて見せるかのように、男声合唱隊の声が荒寥たる原野と海岸に吹き渡っている。
この映画では、登場人物たちに代わって彼らの心を開いて見せるかのように、男声合唱隊の声が荒寥たる原野と海岸に吹き渡っている。
サウンドトラックの最初に出てくるのがハミングによる『ツィゴイネルワイゼン』のメロディ。 「Til eru fræ ティル・エル・フライ--(そんな)種がある」というタイトルがつけられている。
1950年代のアイスランドではやった歌だ。 Haukur Morthens ホイクル・モルテンスという歌手が歌ってヒットしたらしい。どうやらアイスランドでこの曲は、「ティル・エル・フライ」という名前で知られているようだ。「ツィゴイネルワイゼン」ではなく。
YouTube でその歌を聴くことができる。いくつか上がっている中から、今風のイメージ写真を付けられたものを選んでみた。(ここ)
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