ジェーンは早いうちに知子さんの監視下から逃れて、独立した生活を送るようになったはずだ。
ほどなくして知子さんは、京王線の郊外駅に直結するマンションを、ここぞとばかりに選んで購入し、晴れて自分の住まいを手に入れた。そこを選ぶ決め手となったのは、俊太郎の次ぎなる相手、佐野洋子が以前から住んでいた家に近い、という理由もあったようだ。
そこもまた多摩川べりだった。わたしの知っていたあたりからすると、ずっと上流になる。
〈両国フォークロアセンター〉に知子さんを連れていったときのことを思い出す。
そこは一種のライブハウスで、わたしにとっては「ブリティッシュ・トラッド音楽愛好会」の集まりがあるとき出向く場所だった。
ふだんは、ジャンルを問わず、演じたい人に開かれているらしく、『ぴあ』などの雑誌でライブ情報を知ることができた。
ライブハウスといっても、外観は下町の密集地によくある一軒家で、階下では蕎麦屋が店を構えている。その横手に階段があって、履物をぬいで上がると、2階の部屋全体がライブスペースだった。
階段を昇りきったところの狭い半端なスペースにささやかなキッチンがあって、マスターのKさんがそこに待機していた。ライブであれ、懇親会であれ、利用者がその場を取り仕切ってくれればいいというふう。
物静かなマスターは、注文に応じて、飲み物や軽食を作って出すときだけ部屋に入ってきた。
ライブハウスといっても、外観は下町の密集地によくある一軒家で、階下では蕎麦屋が店を構えている。その横手に階段があって、履物をぬいで上がると、2階の部屋全体がライブスペースだった。
階段を昇りきったところの狭い半端なスペースにささやかなキッチンがあって、マスターのKさんがそこに待機していた。ライブであれ、懇親会であれ、利用者がその場を取り仕切ってくれればいいというふう。
物静かなマスターは、注文に応じて、飲み物や軽食を作って出すときだけ部屋に入ってきた。
その日は津軽三味線の弾き語りをする女性が出演するというので、わたしは知子さんをさそって両国に出向いたのだ。
そこが知子さんにとって最悪の場所となったとしても、それは自身の乱心のなせるわざだったし、はたから見ると、じつに奇怪な光景が繰り広げられた。
平日の昼間ということもあって、その場には、わたしたち二人のほか、中年の男が二人いるだけだった。
津軽三味線にふさわしい和装で決めた若い女性は、定番の「じょんから節」や「よされ節」をひとしきり弾いてから、観客に向けて語り始めた。
「前回こちらで弾いたとき、詩人の諏訪優さんがいらしていて、印象深いお話をなさって・・・」
そのとたんに知子さんの顔色が変わった。顔の筋肉が弛緩したと言うべきか。吐き気をもよおした人の顔つきだった。
あとでわたしは、それと同じ顔を見たことがあるのを思い出した。映画『エクソシスト』の中だ。悪魔払いを受けている少女が、嫌悪のあまり嘔吐するときの表情がそんなふうだった。
知子さんにおいては、「詩人」という言葉に対する過剰反応だったろうか。
知子さんにおいては、「詩人」という言葉に対する過剰反応だったろうか。
三味線の女性は、軽い語りのあと、演目を再開し、
「それではつぎに『リンゴ追分』を歌います」と言って、三味線は脇に置いて、無伴奏で歌いはじめた。
知子さんは壁にもたれていた姿勢からずり落ちるように寝そべって、脱いであった上着で顔をすっぽり覆った。激しい嫌悪の厚い雲が垂れ込めていた。また、それを人目にふれさせまいとしていた。
その日の演目が終わって、演者の女性は二人の男性と話をかわした。
知子さんが話に加わることはなかった。
知子さんが話に加わることはなかった。
それよりも、彼女は別のことに言いがかりの種を見つけた。マスターのKさんが飲み物をとりかえている最中、どういうわけか「ふふ」と笑いをもらしたのだ。
「ちょっと、あなた、今なんで笑ったのよ!」知子さんがきつい口調でとがめた。
マスターがかならずしも常識人ではないことは、わたしにはわかっていた。それにまた、そんなとがめかたをされるような場面でもない。
わたしはあわてて、マスターの困惑顔を前に、いらざる弁解をしてみせた。
「だからねー、あのかたの個性なんだって。風のようなものなのよ」
それを受けて、中年客のひとりが絶妙な合いの手を入れた。
「両国には~、また、いろんな風が吹くようで~」
まるでこれから落語を始めようとしているみたいだ。一同、笑いで応じて、その場は収まった。
『リンゴ追分』は1952年、15歳の美空ひばり主演の映画で大ヒットした歌だという。
ライブの場で、わたしは女性の演奏と声に耳を傾けるだけだったが、知子さんからすると、自分の大切にしている世界の一角に、ずかずか踏み込まれるも同然に思えたのかもしれない。
ライブの場で、わたしは女性の演奏と声に耳を傾けるだけだったが、知子さんからすると、自分の大切にしている世界の一角に、ずかずか踏み込まれるも同然に思えたのかもしれない。
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