知子さんの住まいを初めて訪ねた日のことを覚えている。下北沢にマンションを借りて、別居生活を始めていた時期になる。
わたしは彼女からちょっとした用事を頼まれたのだ。娘の高校時代のクラスメートだったアメリカ人女性がやってくるので、会いに来てほしいという。娘に頼まれて、東京留学が決まったその学生を自宅に置いてあげることにしたのだけれど、当人が到着する日、自分はあいにく仕事で出かけている。そこで、ちゃんと家に入れたかどうか、何か困ったことはないか、見てやって、ということだった。
谷川夫妻は下の子供である娘の志野さんを、高校に入る時点でアメリカに送り出していた。知子さんの話では、すでに修羅場を呈していた谷川一族の家から離れさせなければ、と強く願ってのことだったそうだ。
独居の身になって、知子さんは浅草の手描き提灯の店で働き始めた。紙張りされた無地の提灯に、独特の流儀の文字を描き入れるのだという。もしかしたら、今後の仕事を模索しながら、伝統工芸の手習いをしていたのかもしれない。
もともと東京の下町育ちということもあり、軽口を叩いてからかいあう仕事場の雰囲気のなかで、自分らしさを発揮しているようだった。が、そのうちに提灯の店のことは話題に上らなくなった。
もともと東京の下町育ちということもあり、軽口を叩いてからかいあう仕事場の雰囲気のなかで、自分らしさを発揮しているようだった。が、そのうちに提灯の店のことは話題に上らなくなった。
知子さんが自宅に滞在させることになったのはジェーン・W、ボストンの名門女子大を卒業したばかり。下北沢のマンションで時差ボケの姿でいたところにわたしは闖入してしまったが、互いに何とはなしに気に入って、それから先もつきあうことになった。
ジェーンも、どちらかというと、「負の側」の人間だったように思う。国外に出ていくアメリカ人にイメージするような野心も押しの強さもまったく感じられなくて、ちょっとはにかむようなしぐさは、アメリカ社会にいれば負けてしまうだろう、と思わせた。
確かに妙だった。わたしは知子さんともジェーンさんともつきあいを続けたのに、その二人をそろって見ることはなかったのだ。
『婦人之友』という雑誌に知子さんの書いたエッセーが載っている、とジェーンから教えられて読んだことを思い出す。それはアメリカにいる娘を訪ねたおりの滞在記で、知子さんが非常に端正な文章を書く人だと知った。(調べれば、何年の何月号かわかるはずだ)。
わたしはそのエッセーを読んだ感想をジェーンにこう話した。
「知子さんが書いているひとつひとつのことに嘘はない。けど、彼女のわだかまりとなっている肝心な点はすっぽり抜け落ちている。意図的にそういう操作をしているのがわかるので、エッセー全体が嘘っぱちだと言うしかない」
その文章の中で,知子さんはあくまでも谷川俊太郎夫人の立場でいた。そういう自分がアメリカ留学中の娘のもとを訪ね、さまざまな交流を楽しんだ--そういう場面が、出会った人々の姿とともに、こぎれいに綴られていた。
当時の知子さんは、別居を受け入れてはいても、離婚は拒んでおり、その後も長らく拒み続けた。
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