2018年2月22日木曜日

谷川知子さんのこと①

ゆるゆると続いていた語りが、別の話題のために中断していたが、もとに戻ることにして、『多摩川べりこぼれ話』を承けてさらに続ける。

その記事を、わたしはこんなふうにしめくくった。宙吊り状態のまま。
「それは谷川知子さん、当時、谷川俊太郎と別居中という立場にあった」。

最近、谷川俊太郎の正史ともいうべき『詩人なんて呼ばれて』いう本が--詩人本人はまだ生きているので「とりあえずの正史」ではあるが--出版された。(語り手・谷川俊太郎、聞き手・尾崎真理子、新潮社・2017

その本の中でわたしの心にひっかかることがひとつあった。
谷川俊太郎が結婚して離婚した3人の女性について、3人とも2010-11にかけて亡くなったと語られている。(聞き手の言葉を引用すれば、「三人の奥様は2010年から翌年にかけて、相次いでこの世を去られました」)

この「正史」には巻末に年譜が付けてあり、その中で岸田衿子と佐野洋子(最初の妻と3番目の妻)については、没年月日が記されている。
ところが、俊太郎との間に2人の子供をなし、結婚期間も長かった谷川知子の場合、没した事実を記してもらっていないのだ。
これは記載ミスなどというものではないだろう。記さないことでもって、「正史」は、彼女について何ごとか語っているように思える。

「正史」が光り輝くなかで、消えたり消されたりした幾多の物語があり、そういうものを総称する「稗史」という言葉がある。
稗史とは、大まかに言えば、稗官(しがない小役人)が取材して、記し、残した民間の言い伝えのたぐいで、正史の陰で生きてきた民間伝承という趣もある。今の世で言えば、上等なところで歴史小説、でなければ、言い伝えや伝説も含めて、マスメディアとネット上でまとまりなく漂っている情報といっていい。

そういう雑多な世界に、今さら何かを付け加えようというつもりはない。

わたしが知子さんとつきあいがあったのは、多摩川べりの借家に住んでいた1980年代のうちにほぼおさまる。
やはり、自分が記憶にとどめている多摩川べりの風景から、死者たちが呼びかけてくるのだろう。そんな思いで追憶の糸をたどり、思い出を選別して、何らかの形にしてみるまでだ。

そもそもの発端は、19839月に出たわたしの翻訳書だった。これについては、当ブロクの初期の記事で関連する事情に言及している、と言うにとどめておく。ともかく、ハンデを背負ったその本を、「まとまった数、買い取りたい」と申し出てくれたのが知子さんだった。工作舎の編集者をしていた友人を介しての話だった。

現実に本の受け渡し場所となったのは、東横線の多摩川園駅(当時の名称)のホームだった。知子さんが横浜へ出かける用事に合わせて、当方にとっての最寄り駅で途中下車してもらったのだ。それが初対面となった。

当時は思いもよらなかったが、彼女からすると、わたしは「負の側」、つまり自分と同じ側にいる人間に分類でき、それゆえに肩入れしてやる気になったのだろう。
年譜によれば、その前年、俊太郎は絵本作家、佐野洋子と交際 を始めたという。

年齢もずいぶん離れているし、そもそも互いの過去に何の接点もなかったのだが、知子さんはわたしによく電話してくるようになった。用事があるわけではない。暇にまかせて、こちらも思いつくまま、ひらめくまま、話を長引かせた。

そうやって気軽におしゃべりをするようになったのは、あるやりとりがきっかけになったものと思う。

わたしはたまたまテレビで見かけた演出家の木村光一のことを話題にした。舞台演劇に関する彼のうがった意見が印象に残っていたのだ。
すると、知子さんは「あっ」と声を上げた。
「木村光一さん! 久しぶりに思い出した。ほんと、物事をよくわかっている人よ。いやあ、昔、こんなことがあったの。ほら、わたし、若い頃、文学座の女優をしてたでしょ。俊太郎の書いた芝居で舞台に立ったことがあるのよ。--それが縁で結婚するところまでいったんだけど。--で、木村さんから言われたの。谷川のあんなもの、よくまあ大まじめで演れるなあって」

年譜から引用しておくと
1955年 6月、一人芝居「大きな栗の木」の作、演出を引き受け、文学座で上演。主演の大久保知子と知り合う。
ということになる。

谷川俊太郎、23歳、木村光一、大久保知子ともにほぼ同年齢。思い出すだけで、痛快な気分になり、甘やかな気持ちがこみあげてくる青春のひとこまだったろう。

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