2018年2月27日火曜日

谷川知子さんのこと④


知子さんという人を、困った人であるかのように描いてしまったようだ--事実、多くの人を困らせてきた--が、もともと面倒見がよく、気っぷのいい人だった。「姐御肌」という言葉どおり。ただし現実には、姉どころか、末っ子の五女だったそうだ。
「五女よ、ごじょ。だからゴジョゴジョしてるの」
と、彼女は定番の軽口を飛ばした。

ある夏休み時期、わたしは甥姪になる小学生の兄弟姉妹4人をしばらく預かったことがある。そのとき知子さんは、北軽井沢にある谷川家の別荘に来たら?と声をかけてくれて、わたしは喜んで誘いに乗った。

子供たちの前で知子さんは、きびきびと行動し、こまかいことにまで目配りした。末の小学1年生の女の子が「なんか先生みたい」と言うだけあって、ちょっとした威厳が感じられた。約束を守らなかった男の子は短い言葉でビシッと叱られた。
以前の知子さんはそんなふうだったろう。その揺るぎないたたずまいでもって、堅実な家庭を維持してきたのだろうな、と思わせた。

話は変わるが、昨日、文京区の弥生美術館で「滝田ゆう展 昭和×東京セレナーデ」を見てきた。



滝田の漫画をわたしは、初期の頃の雑誌『ガロ』で同時代的に知っている。しかも、なめるように眺めていた。彼が子供時代を描いた絵は、まるで自分の体験のように思えてくる。かつて東京の東にあった花街の絵は、シャガールが描く子供時代の村と同様、見る者に既視感を起こさせるのかもしれない。

美術館で、滝田ゆうの生年月日が、谷川俊太郎と10日しか違わないことに思い当たって、わたしは軽い目眩をおぼえた。自分の内で描いていたひとつの絵柄が、同じ時代と思えないほど、もうひとつの絵柄とかけ離れていた。

一方は、生まれた時点で母を亡くして、色街で飲み屋を営む叔父夫婦に引き取られ、とにかく人の道をはずれちゃいけないという養母の信念のもと、度はずれに厳格な育てられかたをした。
もう一方は、日本の文化をになう学者の家に一人っ子として、しかも帝王切開によって生まれ、母親に溺愛されながら自由に育ち、暑い夏は北軽の学者村にある別荘で過ごした。

知子さんも、滝田ゆうと同時代、同じ東京東の下町で育った。といっても、戦後文化の恩恵を十分に受けられる環境だったようだ。それでも、演劇を修行していた文学座では、下町出身は珍しかったらしく、一度、劇団で盗難があったとき、自分に疑いの目が向けられたのだと、実にくやしそうに話してくれた。

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名前とはうらはらに、知子さんは「知」の人ではなかった。感情に大きく支配されている一方、運動神経から発されるような彼女のコメントは、こちらがとばっちりを受けないかぎり、おもしろがって聞いていられた。
だが、運動神経で渡っていこうとすれば、現実のいろんな場面で、誤解やくいちがいが生じる。臨機応変に反応しても、それが理解と結びついているとは限らない。

ある画廊でパフォーマンスがおこなわれたときのこと。会場が狭いので、出演者の妨げにならないよう、ここの場所はあけておいてください、というアナウンスがあった。すると、知子さんはすぐに立ち上がって、あけておくよう言われた場所にさっと座り込むのだった。

アメリカにとどまっていた娘の志野さんが、ボーイフレンドを連れて一時帰国していたおり、知子さんはわたしを誘って、4人で映画を観に行くことになった。志野さんの友人は映像作家を目指しているという。娘たちの会話に加われないので、知子さんはわたしを仲立ち役にするつもりだったようだ。
志野さんが選んだ映画は、名画座で上映していた『赤い影』。ニコラス・ローグ監督の、今でも見応え十分な心理サスペンスだ。わたしはすでに観ていたが、2度目を観るだけの価値はあった。その入り組んだ仕掛けがわからなくても、映像に吸い込まれ、恐怖がひたひたと迫ってくる。
映画館で、目が離せない恐怖の映像のさなか、知子さんは居眠りをしてしまった。
終映後、いっしょに食事をしながら、わたしたちはさっき観た作品について話すことがたくさんあった。でも、知子さんときたら、ちっともついてゆかれなかったわ、と悪びれずに白状するのだった。

俊太郎氏と別居してからの知子さんが、自分を発揮する場はどれほどあったろう。少なくとも、彼女は大きな闘争の種を抱えていて、それが自分の生命力をかけて挑む目標となっていた。これについて、わたしは当の本人から具体的に聞かされていた。それは事実ではあっても、真実としての姿を示すことはない。もちろん、わたしが語るべき事項でもない。

『詩人なんて呼ばれて』では、谷川俊太郎が3度目に結婚した佐野洋子について多くが割かれ、たいへん興味深い章となっている。この部分で、俊太郎本人は妙に言葉を濁している。
佐野洋子は結局、俊太郎に批判を浴びせたすえ去っていくのだが、そういう批判の言葉の数々が、知子さんが発した言葉のようにわたしには思えてならない。

知子さんは、文章や絵という表現手段を持たなかったから、感情や動物的な勘に頼って、結果的に周囲の顰蹙を買うこともあった。

「まったく、ソクラテスの妻なんだから」
わたしは彼女のことを人にこぼしたおぼえがある。われながら何とも通俗的な言い回しに頼ってしまったものだ。

世に言う「悪妻」とは、哲学者なり文学者なりを完璧で立派な神輿として担ぎたい人たちによって作り上げられた人物像でしかない。21世紀の今、悪妻などという言葉は追放してやればいい。

わたしは佐野洋子氏を讃えたい。その言葉はまちがいなく、女たちに活力を与える。加えて、彼女が谷川知子という人を代弁してあげていることをここで強調しておきたい。

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