2016年3月28日月曜日

カーレン・ブリクセン⑥承前

そんななかで、工作舎に預けっぱなしになっていた翻訳原稿のことがむやみに気にかかるようになった。編集者は「分量が多すぎる」と言うだけで、読んでくれているようすもなかった。

日が短くなるにつれ、妙に不安がつのるようになった。

10月だったと思う。あるいは11月になっていたか。わたしは工作舎の親しい編集者に頼みこんだ。置きっぱなしになっている翻訳原稿を、手を入れたいからという口実を使って引き取ってきてはくれまいか、と。じつは、ほかの出版社にこの翻訳の話を持ちかけていて、明日そこの編集者と会う約束になっているのだ、と打ち明けた。

少し前、出版社をいろいろ検討した結果、これと決めたのが晶文社だった。わたしの話を聞いて会ってくれるという編集者は島崎勉氏だった。
お茶の水駅近くの喫茶店に原稿の重い包みを下げていき、島崎氏と対面した。話を始めてすぐ
「やはりそうでしたか」と島崎氏は言った。
わたしがブリクセンという作者名で話を持ってきたので、すぐにはわからなかったが、じつはこの作品は、横山貞子という人が訳したものを、アイザック・ディネーセン作として晶文社から出すことが決まっているという。来年の春に出る予定とのこと。さらに、訳者は鶴見俊輔夫人だということも付け加えた。あれこれの話のあと島崎氏はこう宣告した。
「渡辺さんには泣いてもらわなくては」

その日、うちに帰り着くと、雨が降りはじめ、雨足はしだいに強まっていった。

     *    *    *    

ずっとのちになっても、わたしはこう聞かれることが何度かあった
「映画で有名になったから、あの本を自分でも訳してやろうと思ったのですか?」
無邪気な人たちだ、自分ならこうするという規準を相手に当てはめて、何の疑問も抱かない。わたしはそう思うだけだが、事の次第は簡単に説明できるものではない。

だから、こうしてここまで書きつらねてきた。ある種の諦念を通奏低音としながら。人は単純な図式とスローガンを好むものだ。


カーレン・ブリクセン⑤ブリクセンとの出会いからさらに

もうそろそろブリクセンの話題をひと休みして、最近の映画のことに移りたいのだが、ゆきがかり上、もう少し続けることにする。

前回のものと話が前後するが、わたしのもとにブリクセン会議への招待状が突然届いたのは、1996年もだいぶ過ぎた頃だった。すでにプログラムの概要もできていて、講演者一覧のなかにわたしの名前が入れられており、当方のあずかり知らないタイトルまで掲げられていた。
"Karen Blixen in the Japanese Cultural Context"(日本の文化背景におけるカーレン・ブリクセン)

結局、このタイトルを変えることなくレクチャー原稿を練り上げることになった。
さいわいわたしは研究者の立場にないので優等生的態度をとるつもりもなく、自分自身の経験を織りまぜることをためらわなかった。自分だって日本の文化背景の一部ではないか、と。そして冒頭に山室静訳『ノルダーナイの大洪水』のエピソードを持ってきた。このレクチャーの内容についてはまた別の機会にでも。
(ところで山室静といえば、わたしの子供の頃はすっかりおなじみの名前だった。わが家では講談社の『少年少女世界文学全集』をはじめ、家庭向けの外国の翻訳本をよく買ってくれていて、北欧のいろんな話の訳者として山室静の名前が作者の横に並んでいたものだ)。

そうそう、わたしはいかにしてブリクセンと出会ったかということだ、今日の話題は。

出版当時の『ノルダーナイの大洪水』は、自分にとって出会いとはならなかった。それ以前に大阪外大の文学史の授業で教えられた名のみに等しいブリクセンもそうだ。アイスランド大学では、最終学年度にデンマーク語専攻1年生の授業にまぜてもらって、ほかの学生たちといっしょにブリクセンの物語を読んだ。でも、これも出会いとはほど遠かった。

本当の意味でブリクセンと出会うには、自分の経験を凝縮したものに十分苦みがゆきわたるまで待たねばならなかった。その苦みがまわりの世界に新しい風味を加えてくれた。物事を味わう味覚がいくらか発達してきたということか。
そんな新しい味覚でもって、わたしは英語版『アウト・オブ・アフリカ』を、自分の経験したもののように読み、さらに、それを翻訳する資格が自分のうちにあることを実感した。

本格的に翻訳にとりかかったのは、アイスランドの作家ハルドール・ラクスネスの小説を工作舎から出してもらったあとだから、1979年のはずだ。まず英語版から訳し、そのあとデンマーク語版『アフリカ農場』をたどって全面的に改訂していくと、最初の訳に深みと奥行きができていった。より鮮明になって、陰翳がきわだってきたといえるかもしれない。

ともかく現実には、この翻訳原稿は工作舎に置きっぱなしにされていた。

1980年前半をヨーロッパで過ごすためコペンハーゲンに向かった。そこは自分のハブ空港のようなものだった。そこに着いて、そこからあちこちに出発していく。
まずは友人のつてで市内に落ち着き場所を見つけてもらって、ブリクセン関連の文書をあさり、古本屋の買いまわりをした。当時は本当に古本屋が多かった。古い中心部の狭い石畳の小路では半地下や中二階の小さな店が、足の位置、目の位置になる窓辺に本を置き並べ、誘いかけていた。大きな店となると、棚が迷路のように上下階に拡散し、行き場を決めてもらえない本がただ山積みになっていた。

デンマーク滞在を終えると、友人のいるアテネに向かい、そのあと、インテリ連中といっしょに夏を過ごすという旧友のいるパトモス島へ、途中ミコノス島やデロス島を経由しながら、ゆるゆると船旅をした。
そうだ、パトモス島でデンマークの詩人ヘンリク・ノアブラント氏に出会ったことを書いておきたかったのだ、結局。

ブリクセンと取り組むようになると、いろんな引用の出どころを調べる必要ができた。『アウト・オブ・アフリカ/アフリカ農場』では、本の冒頭にかかげられたラテン語の句の出典がつきとめられず、大きな課題となっていた。そのラテン語の句を、博学で鳴らすヘンリクに見せて聞いてみた。彼のほうでもその句にはおぼえがなかったが、
「内容からすると、ペルシャのことを言っているようだな。ホラティウスかもしれない」と示唆してくれた。

帰国してからのこと。このホラティウスから派生して、ヘロドトスの『歴史』(松平千秋訳・岩波文庫)を選ぶことになり、読み進むうちに行き当たったのだ、あの引用句の内容そのままの一節に。まちがいなく、これが引用句の出どころだ。だが、ブリクセンの引用しているのはラテン語であり、だれがヘロドトスをラテン語で引用したのかはいまだにわからない。
とはいえ、この発見はまさにスクープだった。デンマークにはブリクセンの研究者があまたいても、この出どころをつきとめた人はいなかった。
1997年の翻訳者会議で、ジュデス・サーマン氏にこの出典を教えてあげられたのは、わたしのちょっとした自慢である)。


そんななか、工作舎に預けっぱなしの翻訳原稿のことがむやみに気にかかるようになった。編集者は「分量が多すぎる」と言うばかりで、目を通してくれるようすもなかった。

Henrik Nordbrandt (右の人物) 1980年4月 パトモスにて ©イタロ

2016年3月24日木曜日

カーレン・ブリクセン④翻訳者会議とその後の出来事

1997416-20日、記念館で「カーレン・ブリクセン国際会議」が開催された。プログラムの表紙を書き写しておくと

Karen Blixen - Out of Denmark, Rungstedlund 16-20 April 1997
Hosted by the Danish Literature Information Center
In collaboration with the Karen Blixen Museum and Louisiana, Museum of Modern Art

そこは各国のブリクセン/ディーネセン翻訳者が一同に会する場として設定され、数多くの研究者の発表の場でもあった。ブリクセンの伝記の決定版を著したジュディス・サーマン氏も来ていて、さながらブリクセン本舗の総支配人であるかのように一目置かれていた。わたしは日本語翻訳者として正式招待され、本物の実り豊かな世界で大いに刺激を受け、得難い体験ができた。
このときのことは材料が山のようにあるので、あとで順次展開していく。

会議が終わって、スウェーデンの友人を訪ね、そのあとコペンハーゲンで夫と合流してからフィンランドに向かい、ヘルシンキで音楽ビジネスをやっている友人と再会した。
当時わたしはヨーロッパ民俗音楽の「おっかけ」をやっていて、いずれその話題もブログに上げていきたい。

帰国して間もない頃だった。友人のみやこうせい・児島宏子氏夫妻の自宅に招かれた。そこには共通の友人たちも来ることになっていた。都内で小出版社を営んでいるそのふたりから前もって、「引き合わせたい人」がいると聞かされていた。それは彼らの旧友であり、横山貞子氏の古くからの友人だという。
今ではもう苗字は忘れてしまったが、名前はやはり貞子さんといった。フリーの編集者をしているとか。

みや・児島さん宅では、編集者の貞子さんが修道女のように(あるいは審問官のように)ミッションを胸に抱いて待っていて、すぐさま直球を投げて寄越した。
「ずっと前に山室静が翻訳した『ノルダーナイの大洪水』という本のことはご存じですか?」
「もちろん。その本が出た70年、わたしは大阪外国語大学でデンマーク語を専攻していて、当然すぐに手に入れましたよ。その年、アイスランドに留学することになって日本を離れたので、長らくそのままになってしまったのですが」
「横山貞子さんとその周辺の人たちは、その本に魅了されて、この作家をぜひ自分たちで紹介したいと語らい合ったのです」
「あの本はブリクセンの『七つのゴシック物語』と『冬物語』のそれぞれから選んで、6篇のアンソロジーに編んだもので・・・」
だが、そうやって話題をふっておきながら、この人は本の内容について語るつもりなどなかったことが判明した。きっと興味すらなかったろう。わたしの言葉をさえぎるように、引きつった声で自分のミッションをもろにぶつけてきた。
「当時、そういう人たちがいたということをもっとお考えになってはいかがですか?」
わたしは完全にキレた。さっきの5倍くらいの迫力で
「もうそんな段階ではないでしょ!」とすかさず言い返した。
編集者の貞子さんは一瞬プルッと身震いして背筋を伸ばしただけで、そのあと何も言わなかった。

わたしも二度とその話題を蒸し返すことなく、みなでなごやかに食卓を囲んだ(はずだ)。


だが、あの時、あの場面の図柄は一瞬にして読み取ることができ、あとになってそれをいろんな舞台背景に置いて反芻することになった。



2016年3月23日水曜日

カーレン・ブリクセン③版権問題その他

「カーレン・ブリクセン記念館」の館長アスムッセンさんは、会話のなかでひとつのことを厳しく指摘した。
「そうやって日本でブリクセン/ディーネセンのいろんな翻訳が出ても、どれひとつとして版権を取っていません。版権はルングステズルン財団が持っていて、翻訳権料の収入が記念館の運営費にあてられているのですよ」
わたしは、工作舎の編集者から聞きかじっていたわずかな情報を総動員して、何とか答えた。
「日本がベルン条約を批准したのが遅く、70年代初めのことで、それ以前に出た外国の本については、版権なしで翻訳できるということらしいです」

法律的には問題がないとはいえ、日本がハンデを背負っていた時代ではないのだから、何とかしたいものだ。版権の問題はいつも心の片隅にあった。その後『冬物語』と『運命綺譚』の担当をしてくれた筑摩書房のO西氏に、版権を取ることはできないものかと聞いてみた。そのときのやりとり。
「どの出版社も版権を取っていないのに、うちで取ったりしたら、ほかから悪く言われますよ」
「そりゃまたたいへん日本的な話ですな」

こういう話は面白がってもらえるだろうと、会話体のままマリアネさんにつたえた。
そうこうするうちに自分なりにできることを考えた。自分の訳本をまとまった部数、自分で買い取って記念館に送り、販売コーナーで売って収益としてもらうことにしたのだ。

安野光雅氏がブリクセン記念館を訪れたことを書いているなかで、『冬物語』についてふれているが、きっと記念館で入手したにちがいない。

『冬物語』の奥付を見ると、1995115日発行とあるが、本が出たときの記憶は抜け落ちている。神戸に甚大な被害をもたらした阪神淡路大震災の衝撃があまりに大きかったのだろう。続いてオウム真理教の一連の出来事があって、日本に暗雲がたちこめるかのように思われた。

同じ年、PR誌の『ちくま』にブリクセン記念館訪問の記事を載せてもらったことがきっかけとなって、ガーデニング雑誌の『ビズ』から、記念館とその庭を取材したいという打診があった。この申し出をマリアネさんはこころよく受けてくれて、取材スタッフたちをふだん公開していない部屋にまで通してくれた。


『ビズ』1995盛夏号に載った特別取材記事「カーレン・ブリクセンの世界」は、大判のページに上質な写真がふんだんに使われ、ブリクセンが見たらさぞや満足するだろう仕上がりとなっていた。わたしの書いた文章がその隙間を埋めた。




 

 

 


2016年3月22日火曜日

カーレン・ブリクセン②皮切りのつもりで

カーレン・ブリクセンについてのブログ記事を書くにあたって、前もって構成を決めているわけではない。それにまた、作家としてのブリクセンについては、当方の訳書の末尾につけた解説がすでに十分語っているので、今さら繰り返すつもりはない。
とはいえ、それらの解説は何らかの形で、だれにでもアクセスできるようにしておきたいとは思っている。
特に1992年、筑摩叢書として出してもらった『アフリカ農場――アウト・オブ・アフリカ』の末尾の、『カーレン・ブリクセンをめぐって』と題する解説は、まとまった作家論となっているはずだ。

カーレン・ブリクセン本の渡辺洋美訳を掲げておく。
Den afrikanske farm / Out of Africa
『アフリカ農場』(工作舎1983
『アフリカ農場――アウト・オブ・アフリカ』(筑摩書房1992
Vinter-Eventyr / Winter‘s Tales
『冬物語』(筑摩書房1995
Skæbne-Anekdoter / Anecdotes of Destiny
『運命綺譚』(筑摩書房1996

これらはすべて英語版とデンマーク語版の両方に依拠した翻訳である。
じっさいにブリクセンが書いた手順のとおり、まず英語版からから訳し、つぎにデンマーク語版をたどりながら、本来彼女が意図したと思われる文脈に変えていった。
ただし、後年になると、ブリクセン自身、母語であるデンマーク語のほうを優先するようになり、加えて英語では昔の力を発揮することができなくなった。そこで、デンマーク語版が先に作られたことが判明している何篇かは、わたしのほうでも、デンマーク語版から訳したあと、英語版でたどってみる、というプロセスを実行した。

ブリクセンの言語の問題については、上記の訳本の「解説」で再三説明している。にもかかわらず、「渡辺訳はデンマーク語からの訳」と繰り返し言われてきた。だから、わたしもここで再度これまでと同じことを言っておく。

人は単純な図式とスローガンを好むものだとつくづく思う。

                    *     *     *     

前回のブログ記事は前口上のつもりで書いたが、そのあとどういう切り口で続けたものか、いろいろ考えた。ずっと過去のことから始めるか、トピックを立てて語るか、それとも今現在のことを話題にすべきか。

やはり最新のことから、単刀直入に始めることにする。わたしがブログを始めるきっかけとなったのがそれだったのだ。
「アイザック・ディネーセン」の作家名のもとにこの作者の作品を訳出してきた横山貞子氏が、201512月、自身の新訳として「イサク・ディネセン」の作家名のもとに新潮社から『冬の物語』を出したことに端を発する。
ここではその訳書についての論評は控えるが、つぎの点だけは指摘しておきたい。

「訳者あとがき」で、この新訳が先行訳の『冬物語』に助けられたとして謝辞を述べているなかで横山氏は、この先行訳はデンマーク語からの訳だなどといい加減なことを言っているのだ。
引用-「1995年には Winter's Tales が、カーレン・ブリクセン著『冬物語』として、渡辺洋美氏訳で、やはり筑摩書房から出版された。デンマーク語から訳されたこの本は、今回、英語版によって『冬の物語』を訳出するにあたり、大きな助けになった。ここに記して御礼申し上げたい」(p.360)-引用終わり

『冬物語』(筑摩書房刊)のあとがきでわたしはブリクセンのふたつの言語をどう扱って訳出したか書いている。それだのに、横山氏はなぜかそのことを全面無視しているのだ。氏はご自分に都合のいい部分だけ先行訳からつまみ食いしたということなのだろうか。

当然のことだが、言語は本来のテキストの理解、解釈の根幹をなすもので、そこがしっかりしていればこそ批評へと展開していける。ブリクセン/ディーネセンにおいては、言語の問題は根幹にかかわる部分であり、今後も当ブログで取りあげていく予定だ。
『アフリカ農場――アウト・オブ・アフリカ』(筑摩書房1992)は、横山氏訳の『アフリカの日々』に対する全面的批評になっていて、そのことは氏もよくわかっているはずだ。だからこそ、このもうひとつの訳については完全無視を通しているのだろう。


以下に『冬物語』(筑摩書房刊)のあとがきの該当ページを画像の形で掲げておく。







2016年3月20日日曜日

カーレン・ブリクセン①そもそもBlixen(ブリクセン)blogとは

「ブログ」という広場に初めて出ていき、自分がどう歩き、走ればいいか、足運びを確かめるべく、ウォーミングアップのつもりで投稿を重ねてみた。そしてわかった。最初から予定していたトピックで記事を書いているつもりでも、連想が横すべりして、予定外の道へそれていくのだ。それがさらに連想を生む。まさに自分がネットのなかで自分自身のネットを形成しつつある。こういうこともブログの醍醐味なのかもしれない。

ブログを始めるにあたって、自分の名称「イタロ」の由来を書いておいた。が、かんじんのブログ・タイトルについては説明しないままだった。しかるべき話題に入るときに書けばいいのだからと。今、その時になった。

Blixen(ブリクセン)blog

Karen Blixen (1885-1962) カーレン・ブリクセン、デンマークを代表する作家の一人。デンマーク語・英語の両方で同一作品を著すという、現代では珍しい二重言語作家。作家名として「カーレン・ブリクセン」と「イサク・ディーネセン」を同等に使っていた。小説家ではなく、物語作家と称すべき。今の時代では較べる相手とてない独自の作風を実現した。

こうしてわたしがブログを始めたのも、ブリクセンについて徹底的に書いておかねばならないと思ったからで、当然ブログ・タイトルにその名を冠することになった。

ユーロを導入していないデンマークでは、自国の通貨はもとのままデンマーク・クローネだ。その50クローネ札の図柄にブリクセンの肖像が使われている。現在のレートをあてると850円足らず。






コペンハーゲンの近郊ルングステズルンに「カーレン・ブリクセン記念館」 がオープンしたのが1991年。そこはカーレンが生まれ育った由緒ある屋敷で、のちにアフリカを引き上げて帰国してから終生暮らした場所だ。
地所の広い庭の片隅、古いブナの巨木のかたわらに彼女の墓所がある。自身を神話化することにたけた人だったが、自分の没後、そこが自分を参詣する人たちの社(やしろ)となることを願い、それはかなえられた。
古い館が改装され、ブリクセン/ディーネセンを知るための展示がなされて、記念館という聖地が仕上がった。それから四半世紀がたつ。
Karen Blixen Museet - The Karen BlixenMueum

記念館の内部 ブリクセンの書斎 ⓒイタロ
ブリクセンの墓所 ⓒイタロ
ブナの古木の下に眠る ⓒイタロ

「ここを訪れる日本人が少ないのはなぜでしょう?デンマークにはおおぜい日本人観光客がやってくるというのに」

19945月、わたしが初めて記念館を訪れたとき、初代の館長をつとめていたマリアネ・ヴィーレンフェルト・アスムッセン氏からそう聞かれた。

館長に就任するまで美術史分野の仕事をしてきたマリアネさんは、日本に流出したヨーロッパ絵画のリサーチで来日し、神戸で過ごしたこともある。

「それは日本でブリクセンの名前が通用していないからです。Dinesenという--それもおかしなディネーセンという呼び方の--名前で定着してしまっているのです」とわたしは答えるしかなかった。


この初対面のときからマリアネさんと、ブリクセンをめぐっての交流が始まることになる。この作家についていくらでも語っていい--それは日本では望んでもなかなかできなかったことだ。

「カーレン・ブリクセン記念館」初代館長さん ⓒイタロ


2016年3月17日木曜日

「クレゴール幼虫説」からさらに

変身したグレゴール・ザムザには、日常のすべてが途方もない難儀となる。そのこまごました描写をたどるだけで、読んでいる身も疲労感や焦燥感に襲われる。

そういえば、この感覚は別の本で体験したような。すぐに思い当たった。またもやヘレ・ヘレだ。『犬に堕ちても』の次作にあたる『これは現在形で書くべきことなのに』という作品だ。

この小説の舞台は1980年代のコペンハーゲンと、その近郊になるシェラン島中南部の田園や町。主人公は21歳のドーテ。前作『犬に堕ちても』の主人公が42歳の作家だったのと好対照をなす。年齢は半分だし、まだ何者でもない。

これまで書きためてきた原稿を破棄し、古着を山ほど捨てて、両親の家を出ていく場面から「わたし」の語りが始まる。4月。電車でコペンハーゲン大学に通うため、郊外電車の途中駅のすぐ脇にあるバンガローを借り、ひとり暮らしを始めたところだ。
だが、不調を脱しきれていない精神状態にあって、やるべきこともできないでいる。

そういう現在は、過去の記憶をよみがえらせる受け皿のようなものだ。ドーテは1、2年前にかかわってきた人々のことや当時の生活についてひんぱんに回想する。(むしろそれが色彩豊かなドラマとして展開していく)。

彼女は今、蛹の状態にある。回想の幼虫時代は生命力にあふれ、陽射しを楽しみ、暮らす樹(家、ボーイフレンド)を変えて、最後に徹底的に傷つく。
現在は蛹状態で動けないでいる自分の身を持て余しているように見える。まるで変身したグレゴールみたいだ。読んでいて疲労をおぼえる。
だが、蛹の内部には少し前の幼虫時代の豊かな養分がつまっている。だから蛹から脱皮、羽化して飛ぶ能力を得たら、ありきたりの蝶になりはしないだろうと予感させる。

じつはわたしはこの作品をすでに翻訳している。そして出版社2社に断られている。それでもまだ、だれかの目に止まらないともかぎらない、と希望をつないでいる。
ヘレ・ヘレ近影

グレゴールの話題から横すべりしたせいで、必要以上に重くて暗い印象を与えてしまったかもしれないので、急ぎ付け加えておく。前作の『犬』はそこはかとないおかしみが読者を楽しませ、作者の面目躍如たる色合いを見せてくれていたが、こういうおかしみは『現在形』でもやはり健在だ。しかも、ずっと軽妙でカラフル。いい季節が多いせいか、明るい空気に満ちている。
ミニマルな描写はインディーズ映画を思わせる。



2016年3月15日火曜日

悪夢からカフカの『変身』へ

前ブログより続ける。

それにしても、こういうあせりの夢を見たあとの疲労感は尋常ではない。身体の動きがままならないと、日頃やりなれていることをするだけでくたびれ果てるようなものだ。

昨年のこと、カフカの『変身』を多和田葉子の新訳(すばる20155月号掲載)で読んでいたとき、この疲労感がよみがえってきた。


ある朝、目覚めると、自分が今までの自分ではなくなっている。過去の幾多の翻訳では、「毒虫」だの「甲虫」だのとされて、人間大の虫、となると、気色悪いというしかない存在になってしまった主人公グレゴール。
多和田訳では「寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっている」。

何に変身したにせよ、当の本人が持て余す体型は、当人の実感にもとづく描写を頼りに推しはかるしかない。
まず、腹部は細い板状で、曲げられる作りになっている。つぎに、背中は固く、丸みがあって、仰向け状態から身を起こすのに難儀する。さらに、両側には小さな脚がずらりと並んでいる。その脚でもって天井に張りつくことができる。
そんな体でグレゴールは、起床に始まる自分のふだんの細かい動作ができないことをいちいち実感する。

若い人に重しをまとわせて、老人の体を体験させると、その大変さをわかってもらえるそうだ。でも、虫の姿になったら何ひとつできやしない。

日常生活を拒む体の動きにくさ、生きにくさが『変身』という小説の主眼としか言いようがない。

以下はわたしの思いついたこと。「グレゴール幼虫説」とでもしておこう。
グレゴールがどんな虫に変身したにせよ、それは成虫ではない。幼虫だ。もちろん、ぶよぶよと太った芋虫などではない。どうやら、図鑑の写真や説明をもとに、甲虫類に属するシデムシの幼虫と仮定してみると、かなり納得がいく。体長は3㎝くらい、黒光りして、見るからに固そうだ。昆虫なので、脚は6本しかないのだが。さすがに芋虫などとちがって、すばやく走るそうだ。その名のとおり、小動物の死骸を食物としている。

幼虫は成長してサナギへと変わり、そこから羽化・変身して成虫になる。
だが、グレゴールは満たされない幼虫の時間を過ごし、空洞のサナギとして何ものにもなれないまま生命を終える。


2016年3月14日月曜日

悪夢のパターン

だれにでもあるだろう、繰り返し見る同じパターンの夢が。
わたしの場合、飛行機に乗るため空港に向かっているという夢だ。乗り継いだ電車はなぜかまちがっている。空港オフィスに電話連絡すべくダイヤル盤を回す(のちにはプッシュボタンを押す)が、なぜか指がデタラメに動いてしまう。あせりでいっぱいになりながら、すべては空回りするばかりで、絶対に空港には行き着けない。
何度このような悪夢に襲われたことか。目を覚ますと疲労困憊している。

この夢はまちがいなくある体験から来ている。
アイスランドでの3学年を終え、学位試験にも無事通って、わたしはその夏を「ヨーロッパ」のあちこちで過ごす予定だった。
アイスランド最後の数日は友人の家に泊めてもらった。出発の前夜はお別れパーティになって、皆で痛飲した。わたしは高揚気分に浮かされて、紙片に日本語で思いつくまま書き散らした。
その夜、どうやって寝床に入ったかおぼえていない。翌朝目覚めると、自分が飛行機に乗り遅れたことがわかった。この時間では昼前の便には絶対間に合わない。驚愕で目の前が真っ白になった。だが一方では内心の声が、大丈夫だから、とささやいていた。ともかく、レイキャヴィークの中心部にある Loftleiðir-Icelandair のオフィスに駆け込んで、カウンターの若い女性に告げた。
Ég svaf yfir.(寝過ごしてしまって)」
すでに状況がわかっていたらしく、彼女は笑って、翌日の便に振り替えてくれた。今ではありえない話だろう。
友人がバスの窓からわたしの姿を見かけてびっくりした。「どういうこと、ヒロミったら、もう発ってるはずだのに!
その夜は緊張のあまり眠るどころではなかったのは言うまでもない。

それまでわたしは、いろいろと困った事態に陥っても、助けの手をさしのべてもらっていた。アイスランドでもデンマークでも、そのほかの旅先でも。その都度、自分なりに猛反省したものだ。わたしはノンシャランにはできていない。根っこのところは几帳面なので、できればそう見えないようにしている。
だからこそ、あの出来事はわたしの心の奥底で生きていて、ときおり悪夢となってよみがえるのかもしれない。

オリヴァー・サックスの自叙伝『道程』(早川書房 2015大田直子訳)を読んでいたら、ウィスタン・ヒュー・オーデンがその種の夢を見るというくだりがあってうれしくなった。サックス先生は長らくこのイギリス詩人と親しくしていたのだが、神経科の臨床医としては、やはりこういうエピソードは逃すわけにいかないようだ。
「彼は繰り返し見る夢について話してくれたことがある。列車に乗り遅れまいと、ひどく動揺して急いでいる。人生も何もかもが、その列車に乗ることにかかっている。しかし次から次へと障害が現われ、パニックに追い込まれて声の出ない叫びを上げる。そして突然、もう手遅れで自分は列車に乗り遅れたが、それはちっとも問題でないと気づく。この時点で急に解放感を覚え、それが至福となり、夢精して目覚める・・・」(p.246)


なるほど、詩人においてはそこまで至るのか。