待つ、持つ。「まつ」と「もつ」、この二つの言葉は揺籃期、同じ巣で育つ兄弟の雛鳥だったのではないか。巣を飛び立ったあとは別々の道を行くことになる。
(フォーク・エティモロジー未満のたわごとだな)。
(フォーク・エティモロジー未満のたわごとだな)。
このたわごとじみた想念に拍車をかけるのが、右と左、西と東の不思議な間柄だ。奇妙なことに、みぎ/にし、ひだり/ひがし、と符合している。
右migi が西nisi と手を結ぶと、左hidariと 東higasi が反対側で手をつないでいる。
左手で東を指し、右手で西を指している人の顔は南に向いている。
左手で東を指し、右手で西を指している人の顔は南に向いている。
人類が移動して新しい土地へとちらばっていき、日本の島々にやってきた人々は、きっと南に進むつもりでいたのだ。だが、移動を続けて南の太平洋に乗り出すという選択はせず、気候にも土地柄にも恵まれた地にとどまっている。待っている。
(そらごとにもほどがあるな)。
待っているうちに、持っていく。たまっていく、ためるようになる。ためこむと、人は移動したくなくなる。移動するつもりなら、ためたものを捨てるしかない。「泣く泣く捨てる」という言い方はしても、「泣く泣く蓄える」などと言わないのは、移動しないのがこの国では常態となってしまったからだ。
持ち物を持て余す人たちにつけこんで、「断捨離」などという恐ろしげなお題目をかかげる宗教まであらわれるしまつだ。
蒐集には、ためるのとは別の力学が働いていると思いたい。
世にも奇妙な〈シュヴァルの理想宮〉は、もとはといえば、郵便配達夫シュヴァルが石を集めることから始まった。
板谷栄城著・工作舎1994 |
宮澤賢治は「石」に対する偏愛があった。鉱物、宝石、貴石といった硬質なものが柔和な想像力を羽ばたかせるところにも、彼の作品の独自性が現われている。すでに幼いときから石の魅力にとりつかれ、故郷盛岡ではよく鉱物採集に出かけ、山のように蒐集していたいう。
わたしも石を集めてみたことがある。アイスランドに留学中、サガの舞台となった土地を回る遠足の途中、どこの海岸だったか、波打ちぎわにゴロゴロしている石のなかに模様のきれいなのを見つけていくつか持ち帰った。それがわたしの石の蒐集の始まりだった。持ち帰る石の規準は最初から決めていた。模様がきれいで、手で握れる大きさまでの丸いもの。集めた石は学生寮の部屋の窓台に置き並べ、そのうちに、積み上がるまでになった。結局、それらの石はアイスランドを離れるさい、旅に持ってゆけない衣服などといっしょに捨てた。そのどちらにも未練はなかった。その先に新しい世界が待っているはずだった。
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