2016年4月14日木曜日

『ニャウルのサガ』異聞

1970年の夏、もうすぐアイスランドに向かうため準備に追われていた頃のことだ。新聞の外電欄の、小さくはあるが奇妙な記事が、わたしの目に大きく飛び込んできた。アイスランドの現職大統領が、別荘に滞在中、火事にあって、孫とともに焼け死んだというのである。
反射的に『ニャウルのサガ』のことが思い浮かんだ。「アイスランド・サガ」について語る人がかならず筆頭にあげる、サガ文学の白眉といっていい物語である。1200年代に書かれ、『焼き殺されたニャウルのサガ』という異名でも呼ばれる。

Brennu-Njáls Saga 第1章
(Einar Ól. Sveinsson gav út)
Hið Islenzka Fornritafélag, Reykjavík
アイスランドにキリスト教が導入されたのが紀元1000年のこと。そのころ実在した Njáll ニャウルという、名前からしてアイルランド系(今でいうNiall / Niel)と想像される、気質の穏やかな賢人が、自分の一族と敵対する一族とのあいだで際限なく殺し合いが続く事態を終わらせようと心に決めた。敵の一団によって屋敷を包囲攻撃されたさい、これを受けて闘うことはおろか、火をかけられた家から逃げ出すことさえせず、老妻、孫とともに寝台に横たわったまま焼け死ぬことを選んだのである。
この殉教的な行為が人々の心を揺り動かし、あれほど憎しみが燃えさかっていた抗争も、一気に鎮静化し、和解へと収束していく。

外電欄の小さな記事はわたしにこのニャウルの熾烈な死の場面を呼び起こした。一国の大統領が孫とともに焼け死ぬなど、人口1億の国に育った者の感覚からすると、恐るべきことに思われた。しかも、あまりに有名な歴史的エピソードに似ている。単なる火災事故だったにしても、そこに何らかの意味合いがこめられてはいないだろうか?

その秋からわたしはレイキャヴィクの住人になった。滞在先の家庭でさっそく「アイスランド大統領焼死」事件の話題を持ち出してみた。だが、わたしが教えてもらった事実のなかに、あの小さな記事からへだたるものはなかった。『ニャウルのサガ』を引き合いに出す人々もいる、という言葉も付け加えられた。じつのところ、その口調は「アイスランド・サガ」の語り口に似ていた。
サガの描写には、心理的な意味づけや、物事の理由づけがあってはならないのだ。

「大統領の焼死」はサットゥル(索に撚りなすための糸)のまま、人々の記憶のなかに保存されている。それが長年にわたって語り継がれていくなら、そのほかの多くの糸といっしょに索に撚り合わされて、サガという長編物語が完成するだろう。大統領をめぐるほかのさまざまなサットゥルが、ひょっとして彼の死を推し進める契機として働いていたことを明らかにしてくれるかもしれない。大統領が孫とともに焼け死ぬという運命がそこに読み取れるようになるのかもしれない。そのときに「焼け死んだ大統領のサガ」が完結し、彼は悲劇の英雄となるのである。


(この文章はわたしの古いノートからほぼそのまま引き写した。日付はないが、自分で訳したブリクセンの文体が、恥ずかしいくらいはっきりと見てとれる。きっと訳しながら、あるいは訳文を推敲しながら、ひょこっと思いついたことを書き留めたものだろう。ルーズリーフの紙片には分類のための符号だけは印してある。「噂」と。そう、「噂の系譜」という項目をたてて、いつの日かエッセイを書くとき材料にでもなるかもしれないと。古い紙片たちは、このような形で引っ張りだされるとは思ってもみなかったろう)。

0 件のコメント:

コメントを投稿