九州の熊本と大分で大地震が起きた。心のつぶれるような出来事だ。大きなものが何事かなそうとしているさなか、それを避けるすべもなく、祈るしかない人間ひとりひとりを思う。
今回も島村英紀教授が地震学者としてマスメディアから発言を求められている。
氏は地震学を含めた広大な地球物理学の分野で、世界的評価をえているだけでなく、日本の国土と暮らしの観点から、どのように地震に対処すべきか、といった具体的な提言の数々もある。
氏は地震学を含めた広大な地球物理学の分野で、世界的評価をえているだけでなく、日本の国土と暮らしの観点から、どのように地震に対処すべきか、といった具体的な提言の数々もある。
今となっては信じられない話だが、これほどの逸材を、以前、日本国は抹殺しようとしたのだ。氏の追い落としには、「地震予知」という占いめいた目標を掲げる研究組織に安住し、国家予算を得ていた学界が加担した。
十年前に起きたこの訴訟事件は、忘れられていいはずがない。とりわけ今でも「地震予知」というものが、いささかなりと実現するきざしもないことを思えば。
十年前に起きたこの訴訟事件は、忘れられていいはずがない。とりわけ今でも「地震予知」というものが、いささかなりと実現するきざしもないことを思えば。
わたしは不覚にも、その事件自体、知らないままでいた。事件を報じる新聞記事を見ても、公職にある人のよくある不祥事くらいに思ったのだろう。
のちに島村氏が体験記を出版し、その本の紹介文で事件の顛末を知ったとき、わたしは衝撃に打ちのめされた。島村氏とは面識はない。アイスランドの火山をめぐる氏の著作に関連して、メールと電話でやりとりしたことはあった。それはわたしの氏へのオマージュだった。
今ではもうないが、「BK1」という書籍販売サイトは、書評記事で有名だった。そこにわたしは氏の問題の著書『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか』 (講談社文庫)の評を書き送った。
当時のBK1の読者書評は、hontoに吸収された今でもまだ読むことができる。
わたしがBK1に寄せた書評は以下のとおり。
地球全体をフィールドとしてきた科学者が、ある日突然逮捕され、半年にわたって勾留されるという体験を、持ち前の好奇心を全開にして、新奇なフィールドに挑むように記録した異色の手記
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2009/02/07 22:41
今から3年前の2006年、メディアが騒ぎたてたホリエモン逮捕から9日後の2月1日、ひとりの学者が東京の自宅の家宅捜索を受けた。彼はそのまま拘束・逮捕されて札幌の拘置所に送られ、保釈を一切認められないまま、実に半年近く勾留されることになった。
逮捕され、その後起訴されたのは島村英紀。国際的に知られる地球物理学者。日本では地震学者として一般向けの著作でもよく知られている。北海道大学を拠点に、地震・火山・極地の研究機関で活躍してきた逸材だ。
起訴の理由は「詐欺罪」。北海道大学時代の島村教授が、みずから開発した海底地震計をノルウェーのベルゲン大学に売却し、その代価を教授個人の口座に振り込ませ、研究費にあてたというのである。
これは世にも奇妙な言いがかりというものだった。
そもそも北海道大学は研究費など出してくれず、研究者が外国から研究費を得ることになっても、大学には小切手を受け取る仕組みさえなかったのだ。
それどころか、「詐欺」にあった当事者とされるベルゲン大学が、自分たちは詐欺にあったとは思っていない、島村教授には感謝している、と証言している。
詐欺のかけらもない詐欺罪。一般常識から考えても、この件は、教授の側で煩わしい手続きを少しはしょっただけのささいな逸脱で、この機会に大学のほうで入金の仕組みを作ればよかっただけのことである。
しかし、一審で「懲役3年、執行猶予4年」の判決が下った。
これに対して被告が控訴すれば、あとに続く裁判で無限に時間をとられる。しかも、国を背負った検察の主張は上級審でくつがえされることなく、そのまま通ってしまう。
研究者として現役の島村は、控訴しないという苦渋の選択をした。
本書は、こういう体験を経てきた著者のいわばフィールド・ノートである。「事件」そのものについて順を追って語っているわけではないので、ドラマ性はない。初めて見聞きする事象に興味をかきたてられ、それを客観的に記録すべく、感傷を排して、事実を淡々と記していく。快活さすら感じられるその筆致はまぎれもなく科学者のものだ。
「いままでしたことがない経験に踏み出す。これからなにが起きるのだろう、そういった意味では、初めて南極に立ったときのほうが、よほど興奮していたと思う」(p.26)
独房は「(船の)キャビンだと思えば結構な広さがあるし、船と違って天井も高い。第一に、揺れないのがありがたい。・・・エンジンの音に煩わされることもない」(p.45)
「壁は分厚いコンクリートに白いペンキを直接塗ってある。殺風景といえば殺風景だが、いっぽう、厚い壁に囲まれているということから、これほど地震に強い建物はあるまい」(p.46)
「鉄格子だと思うと気が滅入る。障子の桟だと思うことにした」(p.51)
独房の外のガラス戸に、かつて見た景色を呼び起こして映し出す。「白い砂浜と椰子の林が眩しい太陽の下に拡がっているラバウルの熱帯の海岸や、マグマが冷えて固まった峨々たるアイスランドの岩山や、南極の氷河や、北極海で見た何千頭というアザラシ・・・」(p.122)
毎日、看守や雑役係の役割・行動を観察し、食事を楽しみ、その内容を丹念に記録する。もちろん取り調べ担当の検事もしっかり観察されている。
「検事も気の毒な商売だ。あんな形相を繰り返すのでは、ストレスもたまるに違いない。そして、町で飲んで憂さ晴らしもできない職業だけに、たまったストレスのはけ口もあるまい」(P.103)
そして、日本の司法慣習の理不尽さをあらためて知る。
「調書が「私が・・しました」という形式で書かれていることだ。実際には検事の質問に被疑者が答える形式で尋問が進んでも、調書になったときには、「検事が調べたところ・・と言った」とか「こう聞いたら、こう答えた」という形式にはならないのである」(p.64)
日常の些事に煩雑な手続きをとらせること。あるいは、長期勾留がまかりとおり、そのためには、どんなことにも拡大解釈できる例外規定をあてて、保釈を却下する現状。
それにしても、高名な学者がなぜこんな目にあわなくてはならなかったのか?
著者にはその理由がわかっている。だが、本書では科学者らしい態度を貫いて、第三者の発言として示唆するにとどめる。
「私が著書や発言で、政府の地震予知計画を厳しく批判してきたしっぺ返しなのではないか、というのであった」(p.301)
問題の著書は、逮捕の2年前、柏書房から出た『公認「地震予知」を疑う』。これが国の逆鱗に触れたのである。
門外漢の私が島村英紀を知ったのは、岩波ジュニア新書の『火山と地震の島国――極北アイスランドで考えたこと』を読んでからで、視野の広い、魅力ある人物として記憶にとどめていた。その人が、鳴り物入りの「地震予知」を批判しているというので、問題の本には驚かされたが、堂々と「王様は裸だ」と言ってくれているのは痛快だった。
この本はさいわい講談社から再刊されている。『「地震予知」はウソだらけ』という、より明快なタイトルに変えられて。
地震予知は国策だった。それを専門の立場から批判する人間は、国として放置しておくわけにいかなかった。――著者がそう言っているわけではない。しかし、それは重いメッセージとして本書からつたわってくる。
[付言]「地震予知」には国民的願望がこめられている。だからといって、メディアが「大本営」にすり寄った希望的観測を流すのは無責任ではないか。
最近も、最相葉月が地震学者の石田瑞穂に取材した、「未来の地震予知へ道を拓く」というタイトルの記事を見かけた。
一般の人の求める「いつ、どこで、どの程度の地震が起きるか」ということとは無縁の内容であるにもかかわらず、このような見出しをつけずにはいられない。――こんなところにも、地震研究が科学にとどまることを許されない現実がかいま見える。
(引用終わり)
【追加】長々しい記事になってしまったが、重荷に小付けを。長年愛読しているChikirin氏の昔の記事。「"検察が逮捕したい人"一覧」。皮肉がいっぱい。
逮捕され、その後起訴されたのは島村英紀。国際的に知られる地球物理学者。日本では地震学者として一般向けの著作でもよく知られている。北海道大学を拠点に、地震・火山・極地の研究機関で活躍してきた逸材だ。
起訴の理由は「詐欺罪」。北海道大学時代の島村教授が、みずから開発した海底地震計をノルウェーのベルゲン大学に売却し、その代価を教授個人の口座に振り込ませ、研究費にあてたというのである。
これは世にも奇妙な言いがかりというものだった。
そもそも北海道大学は研究費など出してくれず、研究者が外国から研究費を得ることになっても、大学には小切手を受け取る仕組みさえなかったのだ。
それどころか、「詐欺」にあった当事者とされるベルゲン大学が、自分たちは詐欺にあったとは思っていない、島村教授には感謝している、と証言している。
詐欺のかけらもない詐欺罪。一般常識から考えても、この件は、教授の側で煩わしい手続きを少しはしょっただけのささいな逸脱で、この機会に大学のほうで入金の仕組みを作ればよかっただけのことである。
しかし、一審で「懲役3年、執行猶予4年」の判決が下った。
これに対して被告が控訴すれば、あとに続く裁判で無限に時間をとられる。しかも、国を背負った検察の主張は上級審でくつがえされることなく、そのまま通ってしまう。
研究者として現役の島村は、控訴しないという苦渋の選択をした。
本書は、こういう体験を経てきた著者のいわばフィールド・ノートである。「事件」そのものについて順を追って語っているわけではないので、ドラマ性はない。初めて見聞きする事象に興味をかきたてられ、それを客観的に記録すべく、感傷を排して、事実を淡々と記していく。快活さすら感じられるその筆致はまぎれもなく科学者のものだ。
「いままでしたことがない経験に踏み出す。これからなにが起きるのだろう、そういった意味では、初めて南極に立ったときのほうが、よほど興奮していたと思う」(p.26)
独房は「(船の)キャビンだと思えば結構な広さがあるし、船と違って天井も高い。第一に、揺れないのがありがたい。・・・エンジンの音に煩わされることもない」(p.45)
「壁は分厚いコンクリートに白いペンキを直接塗ってある。殺風景といえば殺風景だが、いっぽう、厚い壁に囲まれているということから、これほど地震に強い建物はあるまい」(p.46)
「鉄格子だと思うと気が滅入る。障子の桟だと思うことにした」(p.51)
独房の外のガラス戸に、かつて見た景色を呼び起こして映し出す。「白い砂浜と椰子の林が眩しい太陽の下に拡がっているラバウルの熱帯の海岸や、マグマが冷えて固まった峨々たるアイスランドの岩山や、南極の氷河や、北極海で見た何千頭というアザラシ・・・」(p.122)
毎日、看守や雑役係の役割・行動を観察し、食事を楽しみ、その内容を丹念に記録する。もちろん取り調べ担当の検事もしっかり観察されている。
「検事も気の毒な商売だ。あんな形相を繰り返すのでは、ストレスもたまるに違いない。そして、町で飲んで憂さ晴らしもできない職業だけに、たまったストレスのはけ口もあるまい」(P.103)
そして、日本の司法慣習の理不尽さをあらためて知る。
「調書が「私が・・しました」という形式で書かれていることだ。実際には検事の質問に被疑者が答える形式で尋問が進んでも、調書になったときには、「検事が調べたところ・・と言った」とか「こう聞いたら、こう答えた」という形式にはならないのである」(p.64)
日常の些事に煩雑な手続きをとらせること。あるいは、長期勾留がまかりとおり、そのためには、どんなことにも拡大解釈できる例外規定をあてて、保釈を却下する現状。
それにしても、高名な学者がなぜこんな目にあわなくてはならなかったのか?
著者にはその理由がわかっている。だが、本書では科学者らしい態度を貫いて、第三者の発言として示唆するにとどめる。
「私が著書や発言で、政府の地震予知計画を厳しく批判してきたしっぺ返しなのではないか、というのであった」(p.301)
問題の著書は、逮捕の2年前、柏書房から出た『公認「地震予知」を疑う』。これが国の逆鱗に触れたのである。
門外漢の私が島村英紀を知ったのは、岩波ジュニア新書の『火山と地震の島国――極北アイスランドで考えたこと』を読んでからで、視野の広い、魅力ある人物として記憶にとどめていた。その人が、鳴り物入りの「地震予知」を批判しているというので、問題の本には驚かされたが、堂々と「王様は裸だ」と言ってくれているのは痛快だった。
この本はさいわい講談社から再刊されている。『「地震予知」はウソだらけ』という、より明快なタイトルに変えられて。
地震予知は国策だった。それを専門の立場から批判する人間は、国として放置しておくわけにいかなかった。――著者がそう言っているわけではない。しかし、それは重いメッセージとして本書からつたわってくる。
[付言]「地震予知」には国民的願望がこめられている。だからといって、メディアが「大本営」にすり寄った希望的観測を流すのは無責任ではないか。
最近も、最相葉月が地震学者の石田瑞穂に取材した、「未来の地震予知へ道を拓く」というタイトルの記事を見かけた。
一般の人の求める「いつ、どこで、どの程度の地震が起きるか」ということとは無縁の内容であるにもかかわらず、このような見出しをつけずにはいられない。――こんなところにも、地震研究が科学にとどまることを許されない現実がかいま見える。
(引用終わり)
【追加】長々しい記事になってしまったが、重荷に小付けを。長年愛読しているChikirin氏の昔の記事。「"検察が逮捕したい人"一覧」。皮肉がいっぱい。
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