前回の映画『最後の一本』から続く。
この映画、じつはドキュメンタリーに見せかけて作ったコメディではないか、とわたしは疑っている。「ペニス博物館」の創始者シッギが演出と主演を兼ねて。そうなると、あの疫病神と化したアメリカ男さえ、どっかから探してきた見栄えのしない役者に思えてくる。だが、こんなにありえない人物は、ドナルド・トランプと同様、アメリカなら大いにありうると思うしかない。
ドキュメンタリーにしても、ノンフィクションにしても、ただ事実を垂れ流してできるものではない。ある構想のもとに、必要な場面をうまく配置して、ストーリーを作って・・・何のことはない、やっぱりフィクションではないか。ただ、登場するのが神話的人物たちではなく、実在するおっさんたちだという事実が、『最後の一本』をドキュメンタリーたらしめているだけだ。
映画の冒頭で箴言が読み上げられる。~財産である家畜も、家族も、自分自身も、死ぬと決まってる。だが、死なないものがある。それは死後も残る名声だ。~これがこの映画のコンセプトになっていることは見ていくうちにわかる。
その言葉の出どころを現代アイスランド語綴りの形で掲げると
Deyr fé,
deyja frændur,
deyr sjálfur ið sama:
en orðstír
deyr aldregi,
hveim er sér góðan getur.
(家畜は死ぬ、一族の者たちは死ぬ、自分もやはり死ぬだろう。だが、名声は、自分で勝ち得た名声は、決して死にはしない)
Deyr fé,
deyja frændur, deyr sjálfur ið sama.
Eg veit einn,
að aldrei deyr:
dómur um dauðan hvern.
(家畜は死に、一族の者たちは死に、自分もやはり死ぬだろう。死なないもの、ただひとつ--それを私(最高神オージン)は知っている--死後それぞれに下される名声だ)
『エッダ詩』(Eddukvæði) の一章『高みにある人の言葉』(Hávamál) より
アイスランドの古代詩に依拠するまでもない。いつの時代も、どれだけこんなことに煩わされてきたか、オスという種族は。
男たちが自分のモノを博物館に寄贈したいというのは、自分の名前を残したいがためだ。博物館のコレクションを完成したいと願うシッギにしても、そういう野心と無縁ではない。
十数年にわたる映像が映画の場面に使われている。その間、アイスランドではいろんなことがあった。アメリカ駐留軍がついに去ってくれた。アイスランドで身の安全を守られていた元チェス・チャンピオンのボビー・フィッシャーが亡くなった。バブル状態のアイスランドを金融危機が襲い、国家経済が破綻して、その影響はヨーロッパにもおよんだ。続いて、エイヤフィヤッラ氷河の下で火山が噴火し、噴煙がヨーロッパの空を覆って航空路を妨げた。
どれもこれもただ過ぎ去る。だが、死なないもの、ただひとつ、死後の名声。
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