1977年の年明け、1年ぶりに帰国し、降り立った東京でそのまま暮らし始めてまもなく、わたしは知り合った人たちに導かれるまま工作舎に出入りするようになった。
すでに「『偶然』という〈觔斗雲〉のような乗り物に乗って」いたのだろう、「自分の身に起こる『偶然』を、当然と言わないまでも、ありがちなこととして受け止めて」いた。(引用部分は以前のブログ記事『偶然という乗り物』より)。
当時の工作舎はちょっとした梁山泊という趣があった。
わたしの「売り」はアイスランド文学だった。
松岡正剛編集長との雑談のなかで、アイスランドの現代作家、ハルドール・ラクスネスの小説 Kristnihald undir Jökli (氷河麓のキリスト教)についてかなり詳しく話した。
1968年に出たその戯曲風作品には、作者が若いころから傾倒していたタオイズム思想が色濃く反映されている。
自身、『老子道徳経』のアイスランド語版(訳者は Jakob J.Smári 1971年刊)の編纂にたずさわり、その小型本 Bókin um veginn『道をめぐる書』に解説を寄せているほどだ。わたし自身、アイスランド大学留学生コースの最終試験のさい、現代文学分野の課題にラクスネスのKristnihaldを選んだくらい読み込んでいた。
松岡氏を相手にそういったことを語れるだけでも楽しかったが、その場で翻訳を出そうということになったのは驚きでしかなかった。1979年にそれが実現した。邦訳タイトルは、編集部で用意した『極北の秘教』。(これについては懸命に意義を唱えたのだが・・・。また、本造りのプロセスも知らないまま、ざわついた舎内の片隅で校正作業を済ませ、結果的に相当数の誤植を見落とすことになった)。
1968年に出たその戯曲風作品には、作者が若いころから傾倒していたタオイズム思想が色濃く反映されている。
自身、『老子道徳経』のアイスランド語版(訳者は Jakob J.Smári 1971年刊)の編纂にたずさわり、その小型本 Bókin um veginn『道をめぐる書』に解説を寄せているほどだ。わたし自身、アイスランド大学留学生コースの最終試験のさい、現代文学分野の課題にラクスネスのKristnihaldを選んだくらい読み込んでいた。
松岡氏を相手にそういったことを語れるだけでも楽しかったが、その場で翻訳を出そうということになったのは驚きでしかなかった。1979年にそれが実現した。邦訳タイトルは、編集部で用意した『極北の秘教』。(これについては懸命に意義を唱えたのだが・・・。また、本造りのプロセスも知らないまま、ざわついた舎内の片隅で校正作業を済ませ、結果的に相当数の誤植を見落とすことになった)。
そのあと1980年の秋、「ブリクセン」の問題が起きた。これについては過去の記事『カーレン・ブリクセン⑥承前』でその顛末を明かしている。
さて、ここにいたるまで、なるたけ簡略に述べたつもりだのに、またしても前口上が長引いてしまった。でも、この問題がロレンス・ダレルをわたしのもとに引き寄せるきっかけになったのだから、省くわけにいかない。
編集部の側では「ブリクセン問題」をなかったことにしてしまいたかったろう。だが、当事者のわたしの怒りぶりは自然消滅させられないと見たのか、こんな提案をしてきた。
「あなたの翻訳はいずれ機会を見て出すことにしたい。その前に実績を作っておくのがいいだろう。実はロレンス・ダレルの作品で、 Spirit of Place という興味深いタイトルの本があるのだが、それを訳すのはどうだろう?」
「〈場所の精神〉という言葉自体、工作舎の方向性と合致している」というような説明もあったはずだが、わたしはそういう部分は聞き流していたようだ。
「〈場所の精神〉という言葉自体、工作舎の方向性と合致している」というような説明もあったはずだが、わたしはそういう部分は聞き流していたようだ。
そのとき手渡された大部の本に目を通してみると、Spirit of Place というタイトルは、「場所の精神」というつかみどころのないものではなく、明確に「土地の霊ーー地霊」という意味で名付けられていることが判明した。しかも、イギリスの新聞・雑誌の依頼に応じて書いた雑多なエッセーをまとめたものだ。ダレルが一般読者向けにサービス精神を発揮して、ひねりをきかせた雑文を書いてきたこともわかった。が、その内容となると、工作舎が期待しているものとはほど遠い。
「ロレンス・ダレルなら、こんなものよりほかに何かもっといいものがあるはず」
そう言って、わたしはすぐに神保町の北沢書店に出向いた。
そこで Prospero's Cell が、いわば向こうからわたしの胸に飛び込んできたのである。
それは、1945年刊行の初版が新装版になって、1975年、ハードカバーの装丁で出されたもので、しかもその第1刷だった。紙質も、写真ページに使われるような光沢と厚みがある。そのほか、この新装版には巻末に付録が付いていた。初版では当時の事情で入れられなかったエドワード・リアのコルフ島滞在記の抜粋12ページ分である。
この本は、何度かの引っ越しでカバーが擦り切れてしまってはいるが、〈見返し〉の上部に貼られた「北沢本店」のシールは健在だ。
わたしはその1冊だけ買って帰り、吸い込まれるように読み通し、「これは自分が知っている世界だ、自分がこの本の輝きを翻訳して見せなくては」という確信を持った。
翌日には工作舎の親しい編集者に電話して、 Prospero's Cell がいかにダレルの青春の輝きにあふれた作品であるかを、熱に浮かされたように語っていた。
翌日には工作舎の親しい編集者に電話して、 Prospero's Cell がいかにダレルの青春の輝きにあふれた作品であるかを、熱に浮かされたように語っていた。
それで十分だった。その場で翻訳を出すと決まったも同然だった。ただし、1975年刊行のものだと版権をとらなくてはならないという事情があり、旧版を訳したことにするという。こちらとしては何の異存もあるわけがない。
原作は地味な装丁の本だが、邦訳版は、ビジュアル面で工作舎の色合いが目立つものとなった。
原作は地味な装丁の本だが、邦訳版は、ビジュアル面で工作舎の色合いが目立つものとなった。
それにしても、翻訳作業の期間があまりに短すぎた。訳し上げたものは、いったん忘れてクールダウンさせる期間が必要だ。そうでないと自分の文章が、張りついたシールのようにつるつる抵抗なく読めてしまうのだ。
すでに出版されてしまった『予兆の島』の訳文について、どんな言い訳をしてももう遅い。その責めは自分で負うしかない。
すでに出版されてしまった『予兆の島』の訳文について、どんな言い訳をしてももう遅い。その責めは自分で負うしかない。
その後、わたしは自分の訳を全面的に改訳しており、再出版の望みはかなえられないでいるが、作品の色と香りは健在で、ふとした折り、自分の中で鮮烈によみがえってくる。
それは1982年の秋、南仏の、樹々が鬱蒼と生い茂る館を訪れた日、ムッシュー・ダレルから託された黙約のように思われる。
『プロスペロの岩屋』は、ほら、ここにあります。早まって収穫してしまった果実『予兆の島』を追熟させることができました。
ここでようやく『松岡正剛千夜一夜』というサイトに登場願うことにする。その連載が千夜になる頃まで、わたしもよく読んでいたおぼえがある。だが、今は「松岡正剛社中」といった黒子集団が存在していて、過去の記事を、現在の事情に合うよう書き換えているのだろうか?
ずっと以前、ロレンス・ダレルを取り上げていたなかでは違う言い回しだったと記憶しているが、ともかく現在読める形ではこうある。
「ダレルは場所の精神に富んだ作家でもある。そのことを探りたくて、かつてぼくはダレルの『予兆の島』(工作舎)を選び、これを渡辺洋美に訳してもらった」。
思わず笑ってしまう。こんなおかしな言説も、何度もネット検索に引っかかるなかで、お墨付きをいただいた真実になってしまうのだろうか?あるいは、これもオルタナティブ・ファクトとして通用するのだろうか?
さいわいなことにネットでは、わたしもこうやって(長々しくはあるが)記憶にもとづいて証言することができるのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿