当ブログの背後には、何とか書いておかねばという思いを背負わされた記憶の種々くさぐさが、亡者の群れのように蠢いている。だが、自分のうちで消化しきれない生の感情など、うっかり吐き出してはいけない。膨らみそこなったホットケーキのように、とうてい食べられたものではない。それをわかっているからこそ、一瞬思い出してはみても、内なる検閲官によって「書くべき時は来ていない」と却下される。
ロレンス・ダレルのこともそのひとつだ。
わたしにとって、ロレンス・ダレルの季節は秋である。この作家の出世作となった『黒い本』や『アレクサンドリア・カルテット』もろくに知らない段階で、どちらかといえば軽く扱われるトラベル・ブックの初デビューとなった Prospero's Cell を自分で発見し、魅了され、翻訳することになったという事情がからんでいる。その本は秋の気配が濃厚に感じられた。
その翻訳を工作舎から出してもらうとき、本来のタイトルどおり『プロスペロの岩屋』としてほしいと主張した。でなければ、せめて『プロスペロの島』と。だが、編集部案の『予兆の島』で押し切られてしまった。
当ブログの過去の記事に『失われた旅行鞄』という1回物がある。その鞄の中には『予兆の島』が1部しまい込まれていて、北欧の北部から延々と小型バイクに乗って南欧にまで至り、ついに南フランスはソミエールに住んでいたロレンス・ダレル氏に直接手渡されることになった。9月のことだった。
そのとき撮らせてもらった氏の写真もそのほかのものも、最終的に失われた。せめて当時の印象だけでも、というわけで、わたしが記憶している氏の風貌をネットの写真群から探してみた。
わたしはダレル氏から「コルフ島に行ったら、この人を訪ねるように」と、メッセージを入れた封筒を託された。こういう経緯がなければ、典型的観光地という偏見もあって、もともとコルフ島に立ち寄るつもりはなかった。ダレルが描いた1930年代の姿はとっくに失せているのだし。
そのときのわたしの旅のハイライトはシチリア島となるはずで、ダレル邸を辞したあと、南仏の海岸沿いの幹線道路をジェノヴァめざして向かっていった。そこの港からパレルモ行きのフェリーが出ているのだ。
ついこの8月、崩落して大惨事となったジェノヴァ市の高架橋、モランディ橋 Ponte Morandi をこのとき通ったはずだ。
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