2018年10月28日日曜日

ロレンス・ダレルの季節⑤



ドアの内にわたしを招き入れると、ダレル氏は、玄関ホールの薄暗い廊下に掛けられた額のほうをそれとなく指して注意を喚起した。それは毛筆で書かれた中国語の詩文だった。短い漢詩ひとつだったら、わたしも意味を読み取ろうとしたろう。だが、縦長の行がつらなる長文となると、歯が立ちそうにない。
「ああ、中国語ですね」と応じてうなずくだけにした。

廊下の突き当たりに台所とダイニング・ルームが左右に振られていて、わたしは左手のダイニング・ルームの、壁ぎわの小テーブルに案内された。
「葡萄酒はどうかな。日本人は日が暮れてからでないと酒は飲まないということだが」
「いえ、いえ、そんな伝説があったんですか。喜んでいただきます」
台所から葡萄酒の白と、皿に乗せたチーズを取ってくると、厚手のコップに注いでくれた。

会話がとぎれなく続いた。わたしは何よりもまず、Prospero's Cell のなかでよくわからなかった箇所について訊ねておきたかった。訳文では、不明の箇所はわかる範囲内で収めたが、こうして著者本人に確認できるえがたいチャンスは逃すわけにいかない。そのほか、描かれた風物、人物たちについて、もっと知りたいことがあった。

この1982年当時でも、ダレルのコルフ島滞在から、すでに45年もの年月がたっていた。氏を不動の作家にしている小説群のことにも触れず、わたしはじつに能天気な質問ばかりしたものだ。
「ある海岸近くで潜ってみたら、昔の邸宅の跡らしき石の構築物が見つかったとありますが、その後、調査はおこなわれたのですか?
「ああ、調査した結果、ローマ時代の邸宅跡だとわかった」

イオニア海にあるコルフ島は、対岸イタリアと縁が深く、ローマ貴族の別荘地として使われていた歴史もある。作品に登場する非常に興味深い人物、D伯爵は、ヴェネツィア貴族の末裔である。

わたしは自己紹介の続きのつもりで、自分も20代のはじめ、国外の島で暮らしたという話題を振ってみた。アイスランドに留学していたのだ、と。ダレルの「イスロマニア(島狂い)」という関心事項に誘引したつもりだった。ところが、氏からするとアイスランドは身震いを起こさせる、できれば避けたい固有名詞だったようだ。
そのときわたしは、以前訳したラクスネス作品のことまでは話さなかったが、すでに伏流の見えない流れの中でダレルとつながっていた。それはあとになってわかることだった。

「日本人は英語が達者な国民なのかな?」
「いえ、その真反対で、何年も学校で英語を勉強してもしゃべれないことで有名です。ふだんの生活で外国語を使う必要がないのです」
「以前、アメリカのヘンリー・ミラーのところで過ごしたことがあってね、そこでいろんな日本人に会ったのだが、みな英語を流暢に話していたものだから」
「ホキという日本人女性がミラー氏といっしょだった頃のことですね。ところで、こちらに日本人のお知り合いは?」
「あいにくいない。一度、日本人の男がここを訪ねてきたことがあったな。名前は忘れてしまったが、詩人だと言っていた」

のちに工作舎の担当編集者に絵葉書を送ったなかで、わたしは「ロレンス・ダレルについては何よりもまず、滑らかな人、という印象を抱いた」というようなことを書いた。
あのときのわたしは、ダレル氏の滑らかな踊りのステップに絡めとられて、ふだんの自分とは思えないほど軽々と踊っていたようなものだ。
こういう言い方でダレル氏の魅力の一端を語ったとしても冒瀆には当たるまい。

そのうちに、戸口のほうで物音がして、30代くらいの女性が入ってきた。ダレル氏は、彼女とわたしを交互に紹介した。
「今、近くの町の劇場でぼくの戯曲『サッフォー』をやっていて、主役を演じてくれているんだ。うちに滞在している」
「お会いできて栄光です」
「どうぞよろしく。外のバイクはあなたのだったのね」


そろそろ退出する潮時だ。
その女優とわたしが話をしているあいだに、ダレル氏は奥の部屋に引っ込んで、何かを手にしてきた。ひとつは、その年、再版の形で出たばかりの小型のエッセイ本、 A Smile in the Mind's Eye 。イトル・ページに献辞が記してある。もうひとつは、コルフ島に行ったら旧友Aを訪ねるようにと、紹介状を入れた封筒だった

退出前、わたしは聞いた。写真をとらせてもらえないでしょうか、と。その部屋から続くポーチにプールが作られていて--水はなく、落ち葉が積もっていた--その端にダレル氏は立ってくれた。

「道中は気をつけるのだよ。最近も、このあたりで女性がアラブ人に殺される事件があったし。いや、ぼくの娘があなたと同じくらいの年齢なものだから・・・」
そんな話をしながら、ダレル氏はバイクのところまでわたしに付き添ってきてくれた。

そのときのエピソードは、わたしにとって、ダレル氏を象徴する印象深い図柄となって心に刻み込まれることになった。
ひと目見るなり、そのバイクに難があることを見てとったのだ。(その日、わたしはガソリンスタンドで給油したさい、栓を戻し忘れ、給油口が開きっぱなしだった)。
「タンクの栓がないじゃないか。これではどんどん蒸発してしまう」
マロニエ(セイヨウトチノキ)
そう言って、あたりを見回して、地面に落ちていたマロニエの実を拾い上げるとタンクの開口部に当てがった。だが、実は大きすぎた。それでなくても、角のような棘に覆われていては、とうてい栓の役をつとめられそうになかった。

高く伸びるマロニエの大木、その根方に寄りかかる深緑色の小型バイク、そこに小柄なダレル氏が、薄緑色の丸い実を手にして立っている。--このような図柄をわたしは、いっぷう変わった紋章として記憶している。

以前のブログで書いているが、わたしが撮ったダレル氏の写真(未現像のフィルム)は、失われた鞄の中の一切合切といっしょに消えた。

だが、あのとき手渡されたエッセイ本は、機内持ち込みの手荷物の中にあって、こうして生き延びることになった。











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