2018年10月14日日曜日

ロレンス・ダレルの季節②


何がきっかけになるのやら。今、目の前で見聞きしているものから糸筋が放たれ、それが自分の内奥にもぐりこみ、忘れかけていた記憶の断片をたぐり寄せてくる。--わたしはそのような体験をした。
ほんの一昨日のことだ。イタリア文化会館で開催された〈ガラニアス〉一座の公演のさなか、自分の過去の断片が、郷愁をかきたてながら、ひた寄せてきたのだ。
  
その名が「美」を意味するという〈ガラニアス〉。サルデーニャ島の女性たちが中心となって、故郷の伝承音楽を舞台向けにアレンジして歌い、演じてみせるパフォーマンス・グループである。
日本のものでなぞらえるなら、1970年代の佐渡で結成された〈鬼太鼓(おんでこ)座〉といったところか。

〈ガラニアス〉一座の真骨頂は、女性たちがポリフォニーで響かせる地声の歌唱だ。島に伝わる歌の数々と踊りのメロディは、地中海世界各地ではぐくまれてきた香りのエッセンスのように感じられる。
子守歌、愛の歌、死者を哀悼する泣き女の歌。--それらの歌とパフォーマンスのはざまから、わたしに聞こえてくるものがあった。1930年代のギリシャ、コルフ島を描写した文章だ。

・・・・楽師たちを軸に、かぶり物とスカートをなびかせた色とりどりの輪が、ゆったりしたリズミカルな拍子に乗って、行きつもどりつしながらゆっくり回転していく。輪の中央では若者たちが、流れに乗りながらも自由に、テーマを自分なりに変形させた踊りを即興で踊っている。手を腰にあて、頭をのけぞらせ、忘我の表情をたたえて。・・・・

・・・・白づくめの若者は今や完全な不可抗力によって一心不乱に踊っている。頭をのけぞらせ、切れ上がった鼻翼を膨らませている。・・・・栗色の髪が頭上で上下する。片手は腰の赤い帯の上にあり、もう一方の手は指揮者のように思いきり伸ばして、機微に富んだしぐさと調和を表現している。黄と青の衣装の娘の前を踊っている。・・・・若者が娘に届くようハンカチを差し伸べると、その顔が赤らむ。連なる女たちが身をよじらせてカモメのような嬌声を上げる。踊りながら若者はいよいよ近づいていく。娘の方を見なくても、ふたりのあいだに応答と力が流れているのが即座に感じられる。一瞬、娘はうろたえた顔を見せ、それから力強い小麦色の手を伸ばしてハンカチのへりをつまむ。ふたりの上を音楽がうねる。リズムに埋もれ、この決定的な接触によって掛け金を下ろされ、音と行為を共有して、ともに回転しながら、ふたりは輪を描いていく。・・・・

・・・・しろがねのわが子
こがねのわが子
やましぎの胸もとにまさりて
おもてのうぶげのやわらかく
とびかかる蛇より敏さと
しろがねの男はいで立ち
こがねの人は往ぬめり・・・・

 いずれもロレンス・ダレルの『プロスペロの岩屋』より。出版当時の『予兆の島』を、のちに自分で改めた訳から引用している)

前回の記事の冒頭でわたしはこう述べた。
「当ブログの背後には、何とか書いておかねばという思いを背負わされた記憶の種々くさぐさが、亡者の群れのように蠢いている」
ここでまっさきに語っておくべきは、ロレンス・ダレルの『予兆の島』という訳本が1981年、工作舎から出されることになった経緯である。

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