この時期になるといやでも思い出す。そうでなくても、つい最近、札幌市でスプレー缶のガスが引火爆発する事故があったばかりである。昔、自分がやらかした失態のことがよみがえってくる。そもそもは、ひとりの人間の、先を考えない愚かな行為によって引き起こされたと言うしかない。
わたしの場合はつぎのような次第である。
わたしの場合はつぎのような次第である。
高校2年の冬、おそらくクリスマス時期だった。あのドライアイスはケーキに付いていたはずだから。ともかく、台所の流し場にドライアイスが放置されていた。調理台にはまた、ラムネの空瓶が、見えるところに置かれていた。きっと捨てるにしのびないのでとってあったというところだろう。ドライアイスとラムネ瓶とがわたしの中で出会った。瓶にドライアイスを入れて砂糖水を詰めたら、瓶の口のビー玉が出口に栓をしてくれて、サイダーができる、と思いついた。
こうやって、当時の自分の愚かな思いつきと行動を、順繰りに思い出していくだけで、破滅への道行きがありありと見え、目眩をおぼえるほどだ。結果的にわたしが大惨事をまぬがれたのは偶然でしかなかった。(ここにも「偶然」という〈觔斗雲〉がいた!)
こうやって、当時の自分の愚かな思いつきと行動を、順繰りに思い出していくだけで、破滅への道行きがありありと見え、目眩をおぼえるほどだ。結果的にわたしが大惨事をまぬがれたのは偶然でしかなかった。(ここにも「偶然」という〈觔斗雲〉がいた!)
瓶に適当に投入したドライアイスは分量が多すぎたのは確かだ。しばらくして、サイダーはもうできたろうと、開栓のためビー玉を瓶の内部に落としこもうとした。だが、内部圧を受けた玉はゆるぎもしない。そのとき自分の本能が、瓶から手を離せ、と命じたのだと思う、わたしは瓶を調理台の上に置いた。つぎの瞬間、それは轟音とともに爆発した。大きな破片が台所の窓ガラスを突き破り、あたりに液体が飛び散った。家族が家のあちこちから駆けつけてきた。わたしは無傷だった。ただ、轟音で鼓膜がしびれてよく聴こえない、という実感はあった。
爆発の惨状を目の前にして、母はわたしを叱ることも忘れ、無事でよかったと言うばかりだった。
その場では感じなかった恐怖は、あとでじわじわやってきた。それは今にいたるまで体にしみこんでいる。
厚いガラスの破片は窓ガラスを突き破ったが、その一方で、わたしが引き起こした爆発事件そのものは、自分の何かを突き破ってくれたように思う。
厚いガラスの破片は窓ガラスを突き破ったが、その一方で、わたしが引き起こした爆発事件そのものは、自分の何かを突き破ってくれたように思う。
前回、高校時代の出来事を語るなかで、わたしはあの学校で過ごすうちに道を見失い、生きる気力まで失せていったことに触れた。それは高校1年の晩秋に始まって、一年間、その状態が続いた。自分の内部で変化が起きているのを自覚しながら、わたしはなすすべもなく漂っていた。
その詳細をここで述べているわけにはいかない。話題が重すぎる。ともかく、自分が半透明の液体の中にでもいるように、外界すべてのものに白い靄がかかって見えた。あるいは自分が白っぽい膜に覆われているように思えた。
あの爆発を体験して、自分の陥っていた膠着状態が一挙に破られたのだろう。目の前の白っぽいものは徐々にとれて、世界は透明になり、自分自身は何か硬質なものに変化していた。