珠の己は石にきわまる。
唐突にそんなことを言われても何が何だかわからないだろう。
今回は宮田珠己という作家についてちょっと書いてみる。公的には「旅行エッセイスト」と呼ばれている。自分で気になる対象を調べ上げ、どこへでも探索に出かけ、関係者に取材し、それらをネットで発信してはつぎつぎに本にしていく。その文体は「脱力系」と言われ、今や堂々たるファンサイトができていて、「タマキング」という尊称までもらっている。
というような情報を仕入れたのは、久しぶりにこの人の書いたものを読んでからのことだ。ともかく、『いい感じの石ころを拾いに』(2014・河出書房新社)という本を読んでわたしは思った。
「そうか、こういう石ころを見いだす眼力に宮田珠己の真骨頂があらわれているのだな」。
と同時に冒頭のような言葉がひらめいたというわけ。
そののち、ロジェ・カイヨワの『石が書く』(1975) という贅沢な造りの本を読んで、わたしは石が放つメッセージに惹きつけられた。特に「あばらや石」と称される、幻影都市を描いたかと思わせる模様の岩石にいたく魅入られ、ロンドンの大英自然史博物館を訪れて展示品を見て回ったこともある。
それはそうと、今は宮田珠己の魅力を語るつもりでいるのだ。
本人は石ころや岩石の風貌を言葉で描いているだけだのに、それを読む者は、秘密や謎が隠された異世界に案内してもらっているように思えてくる、と言えば、その感じをわかってもらえるだろうか。
本人は石ころや岩石の風貌を言葉で描いているだけだのに、それを読む者は、秘密や謎が隠された異世界に案内してもらっているように思えてくる、と言えば、その感じをわかってもらえるだろうか。
以前、わたしは宮田珠己の初期の本を書評サイトで取り上げたことがある。その全文を下に再録して、この人の魅力をいささかなりともつたえておきたい。
そこではタマキング・ワールドに引き入れられ、彼独特の節回しにつられて踊ってしまう読者の姿までさらしてしまっているが。
そこではタマキング・ワールドに引き入れられ、彼独特の節回しにつられて踊ってしまう読者の姿までさらしてしまっているが。
ポプラ社から出た当時の、『ホンノンボ ふしぎ盆栽』という書名は、再版されて、『ふしぎ盆栽ホンノンボ』というもっとすわりのいい名前に落ち着いたようである。
ベトナムは ホーチミンよりも ホンノンボ
2009/03/31 21:49
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「起伏の激しい磯だ。左下の船着場から中央の階段状の岩を伝って上陸すると、左手に東屋がある。道はおそらく、右手の岩山裏にも通じており、そのむこうは登山道なのかもしれず、あるいは集落があるのかもしれない。岩山には、波に浸食されてできたのだろう、船を隠したりするのに使われているのかもしれない洞窟があり・・・」(p.29)
ここで、行く手に何が待ち受けているかわからない旅路が始まる・・・と思いきや、これは、ミニチュアの岩山に目を張りつかせて、「自分が小さくなったつもりで、ホンノンボを探検する」著者の脳内映像だ。
ベトナムの「ホンノンボ」に惹かれ、わずかな手がかりをもとに探求の道へと踏み出した著者は、こうして〈ホンノンボをめぐる旅と考察〉ともいうべき写真満載の楽しい本を世に出してくれた。
そもそもホンノンボとは何か?
ひと言でいうなら盆栽である。ホン(島)・ノン(山)・ボ(シルエット / 景)という名称のとおり、水に囲まれている山の景観を模した盆栽。
ベトナムの北部、ハノイ周辺で愛好されているものだが、もともと中国伝来で、道教の宇宙観に基づいて作られるという。
水をはった鉢に岩石をそそり立たせて島を出現させ、そこに植物を根付かせ、ミニチュアを載せるのが基本らしい。
ミニチュアは、といえば、三蔵法師に従う孫悟空たち一行、碁盤をはさんで対局する老人、水辺で釣り糸を垂れる太公望といった人形、布袋や観音の像、塔・東屋・楼閣・橋・船などの建造物、あるいは大小の動物や虫。基本的に中国の山水画に見られる素材だ。
「ミニチュアをひとつ置くだけで、それが周囲の岩や草や苔の縮尺に変化を与え、なんでもない苔の茂みが鬱蒼としたジャングルに見えてくることもある」(p.32)
趣味にするにしても、ホンノンボは手間がいらない。多孔質の岩に植物が根を伸ばすので、作ったあとはほったらかしてかまわない。それに、涼しい風情をともなっているので、家人にうるさがられない。
もっと見たいと思って探し歩くにも限界があり、著者はハノイで日本語のできる通訳とおかかえの運転手を雇って、ホンノンボの奥義を究める旅に出る。
旅は最初からズッコケの様相を呈していた。
「通訳のタム氏は扇状地のような顔をした三十代の男性で、「タムはベトナム語で心のことですね」といい、「タマちゃんと呼んでください」と自己紹介した。「いやです」と即座に切り返しそうになったが、最初からそんなことでは険があるので、涙をのんで譲歩することにした」(p.93)
とはいえ、さすがに雇い主の追求するものに合点がいくようになると、通訳氏の情報収集能力は向上して、その道の達人のもとへ案内してくれる。最初無関心だった運転手トゥアン君までがホンノンボの魅力に開眼し、素材を買い求めるようになる。
場所はハノイ近郊、水田地帯に山水画が出現したような岩山がそびえ、さながら巨大なホンノンボである。で、この3人組ときたら、まるでホンノンボにのっかっているミニチュア、西遊記の一行ではないか。
そして、旅の終わりに著者は結論めいた境地に到達する。
「・・・ルールを守り、普遍的な価値へと高めていくスタイルがある一方で・・・ルールに縛られないやりたい放題のスタイルもある。そこに海と山、すなわち地形が表現されてさえいれば、あとは何をつくったって構わないという寛容さ。ひとりひとりが独自のエキゾチズムを投影し、自分だけの桃源郷に思いを馳せる。
もしホンノンボがそのようなものだとすれば、そこにこめられた気持ちは千差万別で、決してひとつの言葉で理解することなどできないにきまっている」(p.222)
この言葉に甘えて、読者のホンノンボ体験をひとつ。
じつを言えば、私は初めてベトナムを旅する前、参考書のつもりで本書を読んだのだ。(以前、ポプラ社のサイトに連載されていたときには、「キッチュなものに凝るやつがおるわ」くらいにしか見ていなかった)。
肩こりというものは、「肩こり」という言葉を知って初めて実感されるというが、私にとっては「ホンノンボ」がまさにそうだった。
南部と中部しか行っていないので、ホンノンボの本場とはほど遠かったが、それでも見えてくるのだ。寺院の前庭に、古い家屋の坪庭に、美術館の中庭に、なにげなく置かれているのが。町を歩いていて、2階、3階のベランダから鉢植えの緑がのぞいていると、かならずやそこにあるはずのホンノンボが。あるいは街路のバニヤン樹の、気根が幹と縒り合わさった隙間に、切り花や人形が置かれていたり、蘭の花が根付かせてあったりすると、そこにホンノンボを実感してしまう。ほかのだれも気にとめるようすがないので、言ってあげたくなった。
「ほら、見なさい。ホーチミン*もいいけど、なんたってホンノンボですよ」
*(今さらながらの注)--いわずと知れたベトナム建国の父。この国の通貨ドンの大半を占める紙幣の顔はすべてホーチミンである。
ここで、行く手に何が待ち受けているかわからない旅路が始まる・・・と思いきや、これは、ミニチュアの岩山に目を張りつかせて、「自分が小さくなったつもりで、ホンノンボを探検する」著者の脳内映像だ。
ベトナムの「ホンノンボ」に惹かれ、わずかな手がかりをもとに探求の道へと踏み出した著者は、こうして〈ホンノンボをめぐる旅と考察〉ともいうべき写真満載の楽しい本を世に出してくれた。
そもそもホンノンボとは何か?
ひと言でいうなら盆栽である。ホン(島)・ノン(山)・ボ(シルエット / 景)という名称のとおり、水に囲まれている山の景観を模した盆栽。
ベトナムの北部、ハノイ周辺で愛好されているものだが、もともと中国伝来で、道教の宇宙観に基づいて作られるという。
水をはった鉢に岩石をそそり立たせて島を出現させ、そこに植物を根付かせ、ミニチュアを載せるのが基本らしい。
ミニチュアは、といえば、三蔵法師に従う孫悟空たち一行、碁盤をはさんで対局する老人、水辺で釣り糸を垂れる太公望といった人形、布袋や観音の像、塔・東屋・楼閣・橋・船などの建造物、あるいは大小の動物や虫。基本的に中国の山水画に見られる素材だ。
「ミニチュアをひとつ置くだけで、それが周囲の岩や草や苔の縮尺に変化を与え、なんでもない苔の茂みが鬱蒼としたジャングルに見えてくることもある」(p.32)
趣味にするにしても、ホンノンボは手間がいらない。多孔質の岩に植物が根を伸ばすので、作ったあとはほったらかしてかまわない。それに、涼しい風情をともなっているので、家人にうるさがられない。
もっと見たいと思って探し歩くにも限界があり、著者はハノイで日本語のできる通訳とおかかえの運転手を雇って、ホンノンボの奥義を究める旅に出る。
旅は最初からズッコケの様相を呈していた。
「通訳のタム氏は扇状地のような顔をした三十代の男性で、「タムはベトナム語で心のことですね」といい、「タマちゃんと呼んでください」と自己紹介した。「いやです」と即座に切り返しそうになったが、最初からそんなことでは険があるので、涙をのんで譲歩することにした」(p.93)
とはいえ、さすがに雇い主の追求するものに合点がいくようになると、通訳氏の情報収集能力は向上して、その道の達人のもとへ案内してくれる。最初無関心だった運転手トゥアン君までがホンノンボの魅力に開眼し、素材を買い求めるようになる。
場所はハノイ近郊、水田地帯に山水画が出現したような岩山がそびえ、さながら巨大なホンノンボである。で、この3人組ときたら、まるでホンノンボにのっかっているミニチュア、西遊記の一行ではないか。
そして、旅の終わりに著者は結論めいた境地に到達する。
「・・・ルールを守り、普遍的な価値へと高めていくスタイルがある一方で・・・ルールに縛られないやりたい放題のスタイルもある。そこに海と山、すなわち地形が表現されてさえいれば、あとは何をつくったって構わないという寛容さ。ひとりひとりが独自のエキゾチズムを投影し、自分だけの桃源郷に思いを馳せる。
もしホンノンボがそのようなものだとすれば、そこにこめられた気持ちは千差万別で、決してひとつの言葉で理解することなどできないにきまっている」(p.222)
この言葉に甘えて、読者のホンノンボ体験をひとつ。
じつを言えば、私は初めてベトナムを旅する前、参考書のつもりで本書を読んだのだ。(以前、ポプラ社のサイトに連載されていたときには、「キッチュなものに凝るやつがおるわ」くらいにしか見ていなかった)。
肩こりというものは、「肩こり」という言葉を知って初めて実感されるというが、私にとっては「ホンノンボ」がまさにそうだった。
南部と中部しか行っていないので、ホンノンボの本場とはほど遠かったが、それでも見えてくるのだ。寺院の前庭に、古い家屋の坪庭に、美術館の中庭に、なにげなく置かれているのが。町を歩いていて、2階、3階のベランダから鉢植えの緑がのぞいていると、かならずやそこにあるはずのホンノンボが。あるいは街路のバニヤン樹の、気根が幹と縒り合わさった隙間に、切り花や人形が置かれていたり、蘭の花が根付かせてあったりすると、そこにホンノンボを実感してしまう。ほかのだれも気にとめるようすがないので、言ってあげたくなった。
「ほら、見なさい。ホーチミン*もいいけど、なんたってホンノンボですよ」
*(今さらながらの注)--いわずと知れたベトナム建国の父。この国の通貨ドンの大半を占める紙幣の顔はすべてホーチミンである。
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