2018年2月27日火曜日

谷川知子さんのこと④


知子さんという人を、困った人であるかのように描いてしまったようだ--事実、多くの人を困らせてきた--が、もともと面倒見がよく、気っぷのいい人だった。「姐御肌」という言葉どおり。ただし現実には、姉どころか、末っ子の五女だったそうだ。
「五女よ、ごじょ。だからゴジョゴジョしてるの」
と、彼女は定番の軽口を飛ばした。

ある夏休み時期、わたしは甥姪になる小学生の兄弟姉妹4人をしばらく預かったことがある。そのとき知子さんは、北軽井沢にある谷川家の別荘に来たら?と声をかけてくれて、わたしは喜んで誘いに乗った。

子供たちの前で知子さんは、きびきびと行動し、こまかいことにまで目配りした。末の小学1年生の女の子が「なんか先生みたい」と言うだけあって、ちょっとした威厳が感じられた。約束を守らなかった男の子は短い言葉でビシッと叱られた。
以前の知子さんはそんなふうだったろう。その揺るぎないたたずまいでもって、堅実な家庭を維持してきたのだろうな、と思わせた。

話は変わるが、昨日、文京区の弥生美術館で「滝田ゆう展 昭和×東京セレナーデ」を見てきた。



滝田の漫画をわたしは、初期の頃の雑誌『ガロ』で同時代的に知っている。しかも、なめるように眺めていた。彼が子供時代を描いた絵は、まるで自分の体験のように思えてくる。かつて東京の東にあった花街の絵は、シャガールが描く子供時代の村と同様、見る者に既視感を起こさせるのかもしれない。

美術館で、滝田ゆうの生年月日が、谷川俊太郎と10日しか違わないことに思い当たって、わたしは軽い目眩をおぼえた。自分の内で描いていたひとつの絵柄が、同じ時代と思えないほど、もうひとつの絵柄とかけ離れていた。

一方は、生まれた時点で母を亡くして、色街で飲み屋を営む叔父夫婦に引き取られ、とにかく人の道をはずれちゃいけないという養母の信念のもと、度はずれに厳格な育てられかたをした。
もう一方は、日本の文化をになう学者の家に一人っ子として、しかも帝王切開によって生まれ、母親に溺愛されながら自由に育ち、暑い夏は北軽の学者村にある別荘で過ごした。

知子さんも、滝田ゆうと同時代、同じ東京東の下町で育った。といっても、戦後文化の恩恵を十分に受けられる環境だったようだ。それでも、演劇を修行していた文学座では、下町出身は珍しかったらしく、一度、劇団で盗難があったとき、自分に疑いの目が向けられたのだと、実にくやしそうに話してくれた。

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名前とはうらはらに、知子さんは「知」の人ではなかった。感情に大きく支配されている一方、運動神経から発されるような彼女のコメントは、こちらがとばっちりを受けないかぎり、おもしろがって聞いていられた。
だが、運動神経で渡っていこうとすれば、現実のいろんな場面で、誤解やくいちがいが生じる。臨機応変に反応しても、それが理解と結びついているとは限らない。

ある画廊でパフォーマンスがおこなわれたときのこと。会場が狭いので、出演者の妨げにならないよう、ここの場所はあけておいてください、というアナウンスがあった。すると、知子さんはすぐに立ち上がって、あけておくよう言われた場所にさっと座り込むのだった。

アメリカにとどまっていた娘の志野さんが、ボーイフレンドを連れて一時帰国していたおり、知子さんはわたしを誘って、4人で映画を観に行くことになった。志野さんの友人は映像作家を目指しているという。娘たちの会話に加われないので、知子さんはわたしを仲立ち役にするつもりだったようだ。
志野さんが選んだ映画は、名画座で上映していた『赤い影』。ニコラス・ローグ監督の、今でも見応え十分な心理サスペンスだ。わたしはすでに観ていたが、2度目を観るだけの価値はあった。その入り組んだ仕掛けがわからなくても、映像に吸い込まれ、恐怖がひたひたと迫ってくる。
映画館で、目が離せない恐怖の映像のさなか、知子さんは居眠りをしてしまった。
終映後、いっしょに食事をしながら、わたしたちはさっき観た作品について話すことがたくさんあった。でも、知子さんときたら、ちっともついてゆかれなかったわ、と悪びれずに白状するのだった。

俊太郎氏と別居してからの知子さんが、自分を発揮する場はどれほどあったろう。少なくとも、彼女は大きな闘争の種を抱えていて、それが自分の生命力をかけて挑む目標となっていた。これについて、わたしは当の本人から具体的に聞かされていた。それは事実ではあっても、真実としての姿を示すことはない。もちろん、わたしが語るべき事項でもない。

『詩人なんて呼ばれて』では、谷川俊太郎が3度目に結婚した佐野洋子について多くが割かれ、たいへん興味深い章となっている。この部分で、俊太郎本人は妙に言葉を濁している。
佐野洋子は結局、俊太郎に批判を浴びせたすえ去っていくのだが、そういう批判の言葉の数々が、知子さんが発した言葉のようにわたしには思えてならない。

知子さんは、文章や絵という表現手段を持たなかったから、感情や動物的な勘に頼って、結果的に周囲の顰蹙を買うこともあった。

「まったく、ソクラテスの妻なんだから」
わたしは彼女のことを人にこぼしたおぼえがある。われながら何とも通俗的な言い回しに頼ってしまったものだ。

世に言う「悪妻」とは、哲学者なり文学者なりを完璧で立派な神輿として担ぎたい人たちによって作り上げられた人物像でしかない。21世紀の今、悪妻などという言葉は追放してやればいい。

わたしは佐野洋子氏を讃えたい。その言葉はまちがいなく、女たちに活力を与える。加えて、彼女が谷川知子という人を代弁してあげていることをここで強調しておきたい。

2018年2月25日日曜日

谷川知子さんのこと③


ジェーンは早いうちに知子さんの監視下から逃れて、独立した生活を送るようになったはずだ。

ほどなくして知子さんは、京王線の郊外駅に直結するマンションを、ここぞとばかりに選んで購入し、晴れて自分の住まいを手に入れた。そこを選ぶ決め手となったのは、俊太郎の次ぎなる相手、佐野洋子が以前から住んでいた家に近い、という理由もあったようだ。
そこもまた多摩川べりだった。わたしの知っていたあたりからすると、ずっと上流になる。

〈両国フォークロアセンター〉に知子さんを連れていったときのことを思い出す。
そこは一種のライブハウスで、わたしにとっては「ブリティッシュ・トラッド音楽愛好会」の集まりがあるとき出向く場所だった。
ふだんは、ジャンルを問わず、演じたい人に開かれているらしく、『ぴあ』などの雑誌でライブ情報を知ることができた。
ライブハウスといっても、外観は下町の密集地によくある一軒家で、階下では蕎麦屋が店を構えている。その横手に階段があって、履物をぬいで上がると、階の部屋全体がライブスペースだった。
階段を昇りきったところの狭い半端なスペースにささやかなキッチンがあって、マスターのKさんがそこに待機していた。ライブであれ、懇親会であれ、利用者がその場を取り仕切ってくれればいいというふう。
物静かなマスターは、注文に応じて、飲み物や軽食を作って出すときだけ部屋に入ってきた。

その日は津軽三味線の弾き語りをする女性が出演するというので、わたしは知子さんをさそって両国に出向いたのだ。
そこが知子さんにとって最悪の場所となったとしても、それは自身の乱心のなせるわざだったし、はたから見ると、じつに奇怪な光景が繰り広げられた。

平日の昼間ということもあって、その場には、わたしたち二人のほか、中年の男が二人いるだけだった。
津軽三味線にふさわしい和装で決めた若い女性は、定番の「じょんから節」や「よされ節」をひとしきり弾いてから、観客に向けて語り始めた。
「前回こちらで弾いたとき、詩人の諏訪優さんがいらしていて、印象深いお話をなさって・・・」
そのとたんに知子さんの顔色が変わった。顔の筋肉が弛緩したと言うべきか。吐き気をもよおした人の顔つきだった。

あとでわたしは、それと同じ顔を見たことがあるのを思い出した。映画『エクソシスト』の中だ。悪魔払いを受けている少女が、嫌悪のあまり嘔吐するときの表情がそんなふうだった。
知子さんにおいては、「詩人」という言葉に対する過剰反応だったろうか。


三味線の女性は、軽い語りのあと、演目を再開し、
「それではつぎに『リンゴ追分』を歌います」と言って、三味線は脇に置いて、無伴奏で歌いはじめた。
知子さんは壁にもたれていた姿勢からずり落ちるように寝そべって、脱いであった上着で顔をすっぽり覆った。激しい嫌悪の厚い雲が垂れ込めていた。また、それを人目にふれさせまいとしていた。

その日の演目が終わって、演者の女性は二人の男性と話をかわした。
知子さんが話に加わることはなかった。
それよりも、彼女は別のことに言いがかりの種を見つけた。マスターのKさんが飲み物をとりかえている最中、どういうわけか「ふふ」と笑いをもらしたのだ。
「ちょっと、あなた、今なんで笑ったのよ!」知子さんがきつい口調でとがめた。
マスターがかならずしも常識人ではないことは、わたしにはわかっていた。それにまた、そんなとがめかたをされるような場面でもない。
わたしはあわてて、マスターの困惑顔を前に、いらざる弁解をしてみせた。
「だからねー、あのかたの個性なんだって。風のようなものなのよ」
それを受けて、中年客のひとりが絶妙な合いの手を入れた。
「両国には~、また、いろんな風が吹くようで~」
まるでこれから落語を始めようとしているみたいだ。一同、笑いで応じて、その場は収まった。

『リンゴ追分』は1952年、15歳の美空ひばり主演の映画で大ヒットした歌だという。
ライブの場で、わたしは女性の演奏と声に耳を傾けるだけだったが、知子さんからすると、自分の大切にしている世界の一角に、ずかずか踏み込まれるも同然に思えたのかもしれない。

谷川知子さんのこと②


知子さんの住まいを初めて訪ねた日のことを覚えている。下北沢にマンションを借りて、別居生活を始めていた時期になる。
わたしは彼女からちょっとした用事を頼まれたのだ。娘の高校時代のクラスメートだったアメリカ人女性がやってくるので、会いに来てほしいという。娘に頼まれて、東京留学が決まったその学生を自宅に置いてあげることにしたのだけれど、当人が到着する日、自分はあいにく仕事で出かけている。そこで、ちゃんと家に入れたかどうか、何か困ったことはないか、見てやって、ということだった。

谷川夫妻は下の子供である娘の志野さんを、高校に入る時点でアメリカに送り出していた。知子さんの話では、すでに修羅場を呈していた谷川一族の家から離れさせなければ、と強く願ってのことだったそうだ。

独居の身になって、知子さんは浅草の手描き提灯の店で働き始めた。紙張りされた無地の提灯に、独特の流儀の文字を描き入れるのだという。もしかしたら、今後の仕事を模索しながら、伝統工芸の手習いをしていたのかもしれない。
もともと東京の下町育ちということもあり、軽口を叩いてからかいあう仕事場の雰囲気のなかで、自分らしさを発揮しているようだった。が、そのうちに提灯の店のことは話題に上らなくなった。

知子さんが自宅に滞在させることになったのはジェーン・W、ボストンの名門女子大を卒業したばかり。下北沢のマンションで時差ボケの姿でいたところにわたしは闖入してしまったが、互いに何とはなしに気に入って、それから先もつきあうことになった。

ジェーンも、どちらかというと、「負の側」の人間だったように思う。国外に出ていくアメリカ人にイメージするような野心も押しの強さもまったく感じられなくて、ちょっとはにかむようなしぐさは、アメリカ社会にいれば負けてしまうだろう、と思わせた。

確かに妙だった。わたしは知子さんともジェーンさんともつきあいを続けたのに、その二人をそろって見ることはなかったのだ。

『婦人之友』という雑誌に知子さんの書いたエッセーが載っている、とジェーンから教えられて読んだことを思い出す。それはアメリカにいる娘を訪ねたおりの滞在記で、知子さんが非常に端正な文章を書く人だと知った。(調べれば、何年の何月号かわかるはずだ)。

わたしはそのエッセーを読んだ感想をジェーンにこう話した。
「知子さんが書いているひとつひとつのことに嘘はない。けど、彼女のわだかまりとなっている肝心な点はすっぽり抜け落ちている。意図的にそういう操作をしているのがわかるので、エッセー全体が嘘っぱちだと言うしかない」

その文章の中で,知子さんはあくまでも谷川俊太郎夫人の立場でいた。そういう自分がアメリカ留学中の娘のもとを訪ね、さまざまな交流を楽しんだ--そういう場面が、出会った人々の姿とともに、こぎれいに綴られていた。

当時の知子さんは、別居を受け入れてはいても、離婚は拒んでおり、その後も長らく拒み続けた。

2018年2月22日木曜日

谷川知子さんのこと①

ゆるゆると続いていた語りが、別の話題のために中断していたが、もとに戻ることにして、『多摩川べりこぼれ話』を承けてさらに続ける。

その記事を、わたしはこんなふうにしめくくった。宙吊り状態のまま。
「それは谷川知子さん、当時、谷川俊太郎と別居中という立場にあった」。

最近、谷川俊太郎の正史ともいうべき『詩人なんて呼ばれて』いう本が--詩人本人はまだ生きているので「とりあえずの正史」ではあるが--出版された。(語り手・谷川俊太郎、聞き手・尾崎真理子、新潮社・2017

その本の中でわたしの心にひっかかることがひとつあった。
谷川俊太郎が結婚して離婚した3人の女性について、3人とも2010-11にかけて亡くなったと語られている。(聞き手の言葉を引用すれば、「三人の奥様は2010年から翌年にかけて、相次いでこの世を去られました」)

この「正史」には巻末に年譜が付けてあり、その中で岸田衿子と佐野洋子(最初の妻と3番目の妻)については、没年月日が記されている。
ところが、俊太郎との間に2人の子供をなし、結婚期間も長かった谷川知子の場合、没した事実を記してもらっていないのだ。
これは記載ミスなどというものではないだろう。記さないことでもって、「正史」は、彼女について何ごとか語っているように思える。

「正史」が光り輝くなかで、消えたり消されたりした幾多の物語があり、そういうものを総称する「稗史」という言葉がある。
稗史とは、大まかに言えば、稗官(しがない小役人)が取材して、記し、残した民間の言い伝えのたぐいで、正史の陰で生きてきた民間伝承という趣もある。今の世で言えば、上等なところで歴史小説、でなければ、言い伝えや伝説も含めて、マスメディアとネット上でまとまりなく漂っている情報といっていい。

そういう雑多な世界に、今さら何かを付け加えようというつもりはない。

わたしが知子さんとつきあいがあったのは、多摩川べりの借家に住んでいた1980年代のうちにほぼおさまる。
やはり、自分が記憶にとどめている多摩川べりの風景から、死者たちが呼びかけてくるのだろう。そんな思いで追憶の糸をたどり、思い出を選別して、何らかの形にしてみるまでだ。

そもそもの発端は、19839月に出たわたしの翻訳書だった。これについては、当ブロクの初期の記事で関連する事情に言及している、と言うにとどめておく。ともかく、ハンデを背負ったその本を、「まとまった数、買い取りたい」と申し出てくれたのが知子さんだった。工作舎の編集者をしていた友人を介しての話だった。

現実に本の受け渡し場所となったのは、東横線の多摩川園駅(当時の名称)のホームだった。知子さんが横浜へ出かける用事に合わせて、当方にとっての最寄り駅で途中下車してもらったのだ。それが初対面となった。

当時は思いもよらなかったが、彼女からすると、わたしは「負の側」、つまり自分と同じ側にいる人間に分類でき、それゆえに肩入れしてやる気になったのだろう。
年譜によれば、その前年、俊太郎は絵本作家、佐野洋子と交際 を始めたという。

年齢もずいぶん離れているし、そもそも互いの過去に何の接点もなかったのだが、知子さんはわたしによく電話してくるようになった。用事があるわけではない。暇にまかせて、こちらも思いつくまま、ひらめくまま、話を長引かせた。

そうやって気軽におしゃべりをするようになったのは、あるやりとりがきっかけになったものと思う。

わたしはたまたまテレビで見かけた演出家の木村光一のことを話題にした。舞台演劇に関する彼のうがった意見が印象に残っていたのだ。
すると、知子さんは「あっ」と声を上げた。
「木村光一さん! 久しぶりに思い出した。ほんと、物事をよくわかっている人よ。いやあ、昔、こんなことがあったの。ほら、わたし、若い頃、文学座の女優をしてたでしょ。俊太郎の書いた芝居で舞台に立ったことがあるのよ。--それが縁で結婚するところまでいったんだけど。--で、木村さんから言われたの。谷川のあんなもの、よくまあ大まじめで演れるなあって」

年譜から引用しておくと
1955年 6月、一人芝居「大きな栗の木」の作、演出を引き受け、文学座で上演。主演の大久保知子と知り合う。
ということになる。

谷川俊太郎、23歳、木村光一、大久保知子ともにほぼ同年齢。思い出すだけで、痛快な気分になり、甘やかな気持ちがこみあげてくる青春のひとこまだったろう。

2018年2月4日日曜日

映画『湿地』~ アイスランドのツィゴイネルワイゼン(2/2)

この映画の、あるいは原作小説の核心は、『ツィゴイネルワイゼン』のメロディに乗せられた歌詞にあると言っていい。
それは、詩人で小説家のダヴィズ・ステファンソンDavíð Stefánsson18951964の詩作品だ。


この詩が『ツィゴイネルワイゼン』のメロディにうまくはまることを発見したのが誰かはわからない。しかも、人気歌手に歌わせて、ヒットさせているのだ。
そういう事情は今のところ、不明のままにしておくとして、"Til eru fræ"の詩の原文は以下のとおり。下に拙訳も並べておく。

Til eru fræ, sem fengu þennan dóm:
Að falla í jörð, en verða aldrei blóm.

Eins eru skip, sem aldrei landi ná,
og iðgræn lönd, er sökkva í djúpin blá,
og von sem hefir vængi sína misst,
og varir, sem að aldrei geta kysst,
og elskendur, sem aldrei geta mæst
og aldrei geta sumir draumar ræst.

Til eru ljóð, sem lifna og deyja í senn,
og lítil börn, sem aldrei verða menn.


こんな定めを受けた種がある、
地に落ちても、花を咲かせることのない。

岸にたどりつくことのない船のような、
深海色に埋もれた先進工業国のような、
翼を失くした希望のような、
口づけもできない唇のような、
出会えないまま、わずかな夢に
乗り出すこともできない恋人たちのような。

生まれたとたんに死ぬ詩がある。
大人になることのない幼児がいる。


前回の記事の末尾にあげた YouTube 動画の作成者は、この歌詞の意をくみ取って、近年の難民問題を念頭に置いて、ネットで拾えるなかから写真を選んできたものと推察できる。
ヨーロッパを目指して海を渡ってくる難民の悲劇はまだ続いている。

それにしても、往年の人気歌手、ホイクル・モルテンスの歌いっぷりは、つやめき過ぎて、ポマード臭が鼻につく。
ホテルのラウンジだろうか、ダンス・フロアで熟年カップルたちがこの歌に合わせて踊っている動画まである。(どんな気分で踊るのだ?こんな重たい歌詞を聞きながら)。
口直しに、アイスランドの男子高校生たちによる合唱をあげておく。(リンクはここ)。

現実のアイスランドで、個々の人の遺伝子情報の詳細が明らかにされたとしても、その先にあるのは、負の遺伝子を背負った者たちにどう対処するかという問題だろう。
それ以前に、人の心の闇は、遺伝子のデータでわかるものではない。


『湿地』という作品は、小説であれ、映画版であれ、現実の社会問題を突きつけて考えさせようという意図はない。にもかかわらず、向き合う者に、自分の心の深みにまで降りてゆかせる力がある。

2018年2月1日木曜日

映画『湿地』 ~ アイスランドのツィゴイネルワイゼン(1/2)

前回までの5回、ゆるくつながって続いていた話を、いったん中断して、別の話題を差しはさむことにする。

昨夜の赤い月が誘いかけるのだ。
待たれていた皆既月食は予想外にはっきりと見ることができた。肉眼では、半ば欠けた月面が赤みがかって見えるのに、双眼鏡を通して月そのものを引き寄せてみると、いつもと同じように白っぽいのはどういうわけだ?
翌朝になると、天気は一変して下り坂。冷たい雨が小雪に変わって、世界が白い靄の中に閉されていく。わたしの心はそのまま、あの映画の世界へと沈み込んでいった。
アイスランドのミステリー映画『湿地』(2006年制作)。

原題は Mýrin --文字通り沼地や湿地のことだ。英語圏ではタイトルを変えられて、 Jar City(瓶詰めの町)になっている。

月からこの映画へと連想が続いていくのにはわけがある。映画の最初のほうで、『ツィゴイネルワイゼン』のメロディが圧倒するように迫ってくるが、その曲には『ジプシーの月』という別名があるのだ。サラサーテが中心メロディとして借りてきたハンガリー民謡ではそう呼ばれている。
ユニゾンのハミングで歌われる男声合唱の声が、ごくゆっくりしたテンポでうねり広がって、荒寥たる風景一面を覆い、陰惨な殺人事件の背景を教えてくれているように思われた。

そうか、月食の途上の月があのように赤い色をしているのは、地球という大きなものにさえぎられ、自分の感情を押し殺しているせいか。
そういう押し殺した怒りでいっぱいだった、『湿地』という映画は。

少し前、初めてこの映画をDVDで観ていて、ハミングで歌われるメロディに見舞われてうろたえた。そこでいったん停止して、
「この曲、ほんと、よく知っているのに、題名が出てこない。何だ、何だっけ?」
とつぶやきながら、メロディを反芻していくうちに、ようやく、ツィゴイネルワイゼンだ!と言い当てることができた。

この映画での歌いぶりを聴けば、だれだってうろたえるだろう。独奏ヴァイオリンが弾くあの張りつめた調子とは真反対の境地にあるのだ。
サラサーテ版を思いきり引き延ばしたスローテンポで、男声合唱のハミングで歌われるメロディは、寒冷な湿地に立ち込める霧のように、あるいは、際限なく落ちてくる雪のように、出口の見つからない絶望となって、うなりやうねりの重圧感で迫ってくる。

『湿地』という物語自体、アイスランドの特異な現実がベースになっている。国民の遺伝子情報を集めてデータバンク化するというプロジェクトが本当に実行されているのだ。

主人公は事件現場での経験豊富な警部。彼がひとつの殺人事件を調べていくうちに、人間ドラマの断片らしきものが明らかになっていく。
その一方で、自分の遺伝子を切実な思いで調べている若い父親がいる。幼い娘が難病に苦しんでいるのだ。遺伝子バンクの情報から、病気の原因は自分が受け継いだ遺伝子にあることをつきとめると、彼は悪い血に対する復讐へと向かっていく。

この二人のドラマが平行して流れ、最終的に合流したとき、男は自分の呪われた血を断ち切る決意でいた。




アイスランドの「バイオバンク法」がらみの話自体、それでなくても興味がつのるのに、警部自身のとうてい自慢できない家庭内事情や、好物の食べ物のことなどが出てきて、書き始めると収拾がつかなくなりそうなので、とりあえず、この映画について、ポイントをひとつに絞って語りたい。

そう、まさに音楽をめぐる話だ。しかも、それはこの映画の構成において要(かなめ)の役割を果たしている。

この映画の監督はバルタサル・コルマウクル(1966-)。ミュージシャンのムーギソン(芸名。1976-)~ロッカーでありブルース・シンガーでもある~と緊密な共同作業をしながら、この映画を作り上げたにちがいない。映像と音楽とが絡み合って、もはや両者を引き離すことができないほどだ。

ムーギソンはこの映画のサウンドトラックを公表しているので、映画で使われた音楽のひとつひとつをあらためて聴くことができる。(リンクはここ)。
タイトルからわかるように、それらはアイスランドの昔の流行歌、歌いつがれてきた国民唱歌、子守歌、賛美歌といったよく知られた古いメロディが大半だが、その中にとびきり新しい自分のナンバーもまぎれこませている。歌詞のないハミングで歌っているのは、警察官で編成された男声合唱団だ。彼らの姿も映像の合間に差しはさまれる。

ギリシャの古典劇では、「コロス」と呼ばれる合唱隊が控えていて、登場人物のセリフだけではわかりかねる内容を補足・説明していたそうだ。
この映画では、登場人物たちに代わって彼らの心を開いて見せるかのように、男声合唱隊の声が荒寥たる原野と海岸に吹き渡っている。

サウンドトラックの最初に出てくるのがハミングによる『ツィゴイネルワイゼン』のメロディ。 「Til eru fræ ティル・エル・フライ--(そんな)種がある」というタイトルがつけられている。
1950年代のアイスランドではやった歌だ。 Haukur Morthens ホイクル・モルテンスという歌手が歌ってヒットしたらしい。どうやらアイスランドでこの曲は、「ティル・エル・フライ」という名前で知られているようだ。「ツィゴイネルワイゼン」ではなく。

 YouTube でその歌を聴くことができる。いくつか上がっている中から、今風のイメージ写真を付けられたものを選んでみた。(ここ