2017年5月29日月曜日

「偶然」の内部には物語の種が

「偶然」とは、『大辞林』によれば、「何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま」と定義されている。

そこには最低限の舞台設定が欠かせない。だれかの身に何かが起き、状況からすると、それが通常ありえないということになり、因果律からはずれた奇縁だとして、人は偶然というものに思いをいたすのだろう。

ならば、「偶然」の内部には、いつも何かしらストーリーの種が納められているのではないかしら。

最近、人と話をしていて、話題が小説『犬に堕ちても』のことになって、わたしはこう言った。
「あの本については、まあ、途中いろんなおかしなことがありましてね。翻訳、出版と平行して、メイキング・オブ・〈犬堕ち〉の別冊だって作れるくらいでしたよ」
惜しむらくは、それらの出来事は、実在する人たちがかかわっているという事情もあって、気軽に語り散らすわけにいかない。

だが、当時あったひとつの出来事なら、知らない者同士のすれちがいのようなものだから、バラしたからといって、とがめられる心配はなさそうだ。

それは房総半島に持っていた家を売却しようとしていた時期のことだった。
わたしがその小さな家を手に入れたのは、自分のうちの季節に駆られた衝動からだったし、四半世紀過ぎて、それを売りに出すことにしたのも、やはりその季節がめぐってきたと悟ってのことである。何よりも、家がこのまま湿気にやられていくと、手のほどこしようがなくなる。

房総半島は、全体が地層の褶曲した山地といっていい。狭い海岸部を離れると、低い山と深い谷とが深緑の襞をなしてどこまでも続く迷宮を作っている。そういう土地の、小さな漁港から急坂を尾根近くまで上がったところにその小さな家があった。

緑の季節になると、売却物件を見に不動産屋に連れられてくる人たちがぽつぽつ現れた。

そんな春爛漫の日、地元の不動産屋の若い伜が連れてきた客は、見るからに神経質そうな女だった。スカーフやアクセサリー、それに室内でもはずそうとしないサングラスといった小物が、小柄な当人をちまちました姿に見せていた。小物で飾りたてたお座敷犬のような印象もあった。

サングラス越しに、女は家の内部、窓の外に目を走らせながら言った。
「住む家を探しているんです、別荘じゃなくて」

いささか突飛な思いつきだ、気まぐれのような。しかも車の運転はできないという。
それでも、ここで暮らすのは十分可能だ。

それから彼女は何よりも気になっているらしい点について聞いた。
「怖いってことありません?」

怖いといえば、家にいたる最後の急坂がそうだ。崖に無理して作った、しかもデコボコの小道だ。
そのほか、山中の環境を知らなければ、夜のしじまに聞こえる物音は気味悪く感じられるかもしれない。
でも、朝早くから鳴き始めるウグイスその他の鳥の声は、それを補ってあまりある。

わたしは自信たっぷりに言った。このあたりは定住している人たちもいるし、暮らすうえでは安全ですよ。それに、車がなくても、自転車があれば、日常生活も何とかやってゆかれますし、と。

女は自分の不安な心だけ、残響のように置き去りにしていった。

何たる偶然だ。まるでわたしが訳している小説から出てきたみたいではないか、この女は。
わたしは演劇プロデューサーになりかわって、彼女を不幸のどん底に突き落としただろう男のこと、その演劇効果を吟味していた。

ヘレ・ヘレの小説『犬に堕ちても』の主人公は42歳の女。家出して、知らない寂しい海辺の土地にたどり着いたあと、海岸の先に見える小島に小さな家があると聞いて、そこに住みたいと言い出すのだ。この気まぐれのような思いつきも、日常生活のなかにまぎれてしまい、いつのまにか忘れられてしまうのだが。


房総の家はしばらくして買い手が見つかった。
あの小柄な女は「泣くのにちょうどいい場所」を見つけたろうか。あのとき42歳だったにちがいない。



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