それから何年もたって、日本に戻っていたわたしは稲富正彦の名前を目にすることになった。ムンクの評伝の翻訳者として(ニック・スタング『評伝・エドワルド・ムンク』筑摩書房1974年刊)。
ついでに、ムンクがわたしと同じ誕生日であることも知った。
ついでに、ムンクがわたしと同じ誕生日であることも知った。
1975年の夏、返還からまだ3年の沖縄でキャンプ暮らしをしたあと、ついでのように台湾を訪れて、秋になってもまだ熱暑の残る時分、台北の外港、基隆キールンから那覇に向かうフェリーに乗って帰途についた。
その船上でまたもや稲富正彦の名前を耳にすることになったのだ。今度の情報提供者は、アンドレ・レヴィという名前のフランス人言語学者で、以前、京都大学に研究滞在していたことがあり、まだ日本語を忘れないでいた。
(いっしょに那覇の町を歩きながら、看板の文字に目を止めて、「ぢ」て何ですか?「おかず」って「置かない」ということですか?などと質問を向けてきた)。
彼は妻がノルウェー人だという。
「妻の一族は外国人好みのところがあってね、従姉妹のひとりなど、オスロの日本人と結婚しているよ」
稲富正彦のことだった。
1980年の春、ついにオスロに出向いて稲富氏と対面をはたした。その前年、わたしは初の翻訳を出してもらっていて、これで氏と会う資格ができたように思えた。当時滞在していたコペンハーゲンから、スカンジナビア3首都を周遊する鉄道割引を利用して出かけた。
意図をもってして何かをすると、不発に終わるのがわたしの常らしい。
稲富氏の勤務先、オスロ大学のカフェテリアでの会話は弾まなかった。わたしのほうで横光利一の未完の小説『旅愁』を話題に上げ、横光の異文化体験の描写が的を外していることなど述べた。それを稲富氏は借り物の意見と見抜いたのだろう。その小説にはそれなりの見どころがある、と言って軽くいなした。
わたしは気を取り直し、例のフランス人言語学者、アンドレ・レヴィのことを、意外な出会いとなった楽しいエピソードのつもりで話題にした。ところが、稲富氏は親戚筋にあたるユダヤ系フランス男にあまりシンパシーを抱いていないようす。文学上の不一致が原因のようだった。
「うちの子と約束がありまして」という言葉で、会見は早々に終わった。
春といっても凍結した世界がゆるむ気配も見せない土地が、よそ者をはねつけるように感じられた。
あとで思うと、稲富氏はあの頃すでに体調が思わしくなかったのではないだろうか。
つぎに稲富正彦のことが話題に上ったのは訃報としてだった。
1982年5月、コペンハーゲン行きのパキスタン航空の便に乗ったときのことだ。その便は中継地イスラマバードで乗り換えるさい、長い待ち時間がとってあった。日本からの乗客は10人ほどだったろうか、専用の待合室で同じ食卓をあてがわれた。そのなかに白人の一家がいた。年配の男とティーンエージャーらしき息子と娘。その息子のTシャツの図柄にわたしの目が止まった。ノルウェー国旗だ。それを糸口にして親子に話しかけた。関西在住のノルウェー人牧師の一家と判明した。父親はNotto Thelleという宣教師。今も検索にひっかかってくる人物だ。
当時わたしはノルウェーのあちこちを訪れるつもりで、いろいろと予習していた。その知識をひけらかしているものと見られたのか、少し牽制ぎみの反応があった。だが、そのあとびっくりするようなやりとりをすることになった。
「稲富正彦氏のことはご存じですよね?」
「もちろん知っています。昨日亡くなりました。新聞に出ていました」
ノット・テレ師は聖職者らしく、稲富正彦を顕彰する口調で語るのだった。
「あの人は若い時分からノルウェーという国にひたむきな思いを寄せていました。高校を卒業するとすぐにノルウェーにやってきて、強い意志でもって言葉を習得し、オスロ大学でノルウェー文学を学び、修士号まで取ったのです」
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