前回ふと思いついて書き始め、途中切れで終わったヨーロッパの「文化のグラデーション」を接ぎ穂にする。
グラデーションなどという言葉を使ってはみたが、あのときの気分を振り返ってみるなら、ヨーロッパ文化の色調が微妙に移り変わっていくさまを音楽のなかに感じとっていたということだろう。
現実の社会も、実在する人間も、本を通じて知る著者も、単一の色で成り立っているわけはない。つねに色調の微妙な移り変わりがそこに見てとれるはずだ、ためつすがめつして見るならば。
何にせよ、物事が微妙に色調を変えて広がっているさまを見てしまう。--それは人生の早いうちに、自分がいつも何かのはざまで浮き漂っていて、自分の色合いなど決められないと自覚するところからきている習性かもしれない。
明快な言葉、明白なたたずまいを、色調の移り変わりとして感じさせてくれるなら、それがだれであれ、自分には好ましい人に思えた。
こちらに何の心づもりもないなか、そういう人たちと出くわすのだ。確かにいろんな不思議な出会いがあった。それは求めて得られるたぐいのものではない。その時その場にいたがゆえに遭遇したのだ、と言うしかない。
そういう人たちのひとりが稲富正彦だ。
彼の名前は、日本語のネット検索では、画家のエドヴァルド・ムンクに関連してかろうじてひっかかってくるにすぎない。一方、彼が長くない生涯の後半生を送ったノルウェーでは、日本出身の特筆すべきノルウェー人として記憶されている。
1971年の夏のこと。アイスランド大学での初年度を終え、魚工場のアルバイトでちょっとした資金を手に入れると、わたしは待望のヨーロッパの旅に出た。前の年、初めて日本を出て、コペンハーゲンに数日滞在したあと、アイスランドに渡って、ずっと冬の暗い時期を過ごしたのだ。ともかく「ヨーロッパ」に出ていかねば、という気持ちに駆られていた。(アイスランド人も「ヨーロッパに出かける」という言い方をする。自国もいちおうヨーロッパに属するのだが)。
当時すでにヨーロッパ周遊のための便宜はととのえられており、鉄道を使って長旅ができるユーレイルパスは、西ヨーロッパのほとんど全土をカバーしていた(島嶼部のブリテンと軍政下のポルトガルは除外されていた)。旅の始まりをイギリス、アイルランドに選んだのは、そのあとユーレイルパスで大陸を無駄なく周遊するつもりだったからだ。以前、アイルランドがらみで書いた話題はそのときのこと。
今のEUの危うい状態、ヨーロッパを目指して難民が押し寄せていることなどを思うと、当時が茫漠とした昔のことのように感じられる。ともかく、あのころのユーレイルパスは、何とも太っ腹なことに、鉄道のファーストクラスが、期間限定ではあるが乗り放題だったのだ。ジプシーに負けないくらい気ままで、どこまでも快適な移動が実現できた。ほんの1年前には想像もできなかった自由をわたしは手にしていた。
とはいえ、安直に得た自由は空回りする。身についた手順をこなすように、つぎのユースホステルを目指して移動することが旅の目的となり、惰性となっていった。ついにはそういう移動生活に疲労をおぼえるようになっていた頃、同じコンパートメントに乗り込んできた日本人の男性と話をすることがあった。
最初の儀礼的なやりとりのあと、もう少し立ち入った話をするうちに、彼はオスロ在住の稲富正彦の名前を出したのだ。わたしがアイスランドの大学で古代文学を勉強していると話したのがきっかけだった。
「それじゃ、この人を訪ねるといい。オスロ大学で文学を教えているそうだから」と言って、紙切れに住所を書いて渡してくれた。たまたまオスロの美術館で稲富氏と出会って話がはずみ、ノルウェー人の奥さんと住んでいる自宅に居候させてもらうことになったのだそうだ。1カ月も。
この日本人は短時間乗車しただけで降りていった。名前ももう忘れてしまった。なのに、彼が口癖のように言っていた言葉だけはおぼえている。「オレ何々は嫌いなんだよ」と。細身にダンガリーの上下という姿はいっけん若者風だったが、顔はずっとふけて見えた。
あれは列車がどの国を走っていたときだったのか。それも記憶からとんでしまった。つかのまの出会いで、相手のことを聞き出すところにまではいたらなかったため、気障な部分がとくに印象に残ったのだろう。あらためて推測してみるに、この人は何らかの美術方面の仕事をしていて、オスロのムンク美術館を訪れたということだったのだろう。
そのときの旅の終着地はオスロだった。でも、わたしは気後れして稲富正彦に連絡をとることはしなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿