2017年4月19日水曜日

春雨の日のコンサート

うかうかするうちに、前回のブログからずいぶん間があいてしまった。そこからさらに続いていくはずだったのに、今や弾みが失せ、足を踏み出せないでいるという状態だ。再び接ぎ穂をととのえるまで、間奏曲をはさんでおくことにする。コンサートの話題を。

3月の終わり、印象深いコンサートふたつに接することができた。どちらも雨降りの日のこと。あたり一面をけぶらせる春雨が、音楽の余韻までしっとり包みこみ、はぐくんでくれた。花の蕾が春雨にはぐくまれ、ふくらんでいくように。

まずは平井千絵のピアノコンサートから。
題して『フランス近代音楽シリーズvol.2〈フランス南西部から届く郷愁の香り〉』
会場は横浜の歴史地区、馬車道通りにあるスタインウェイ・ピアノのショールーム。そこに席を並べた親密な空間で、どこまでも贅沢なサロンコンサートが実現した。

ピアニストの平井千絵氏は、じつは昨年秋、成城大学でおこなわれた古楽器コンサートで〈フォルテピアノ〉をレクチャー演奏してくれた方だ。(古楽器コンサートの記事はここに)。その珍しい楽器について、音色と響きのちがいを実演で聴かせ、解説する講師ぶりが堂に入っていたせいか、〈フォルテピアノの伝道師〉というイメージをわたしの記憶に残していた。
この日の演目はデオダ・ド・セヴラックのピアノ曲集。楽器はもちろんスタインウェイのピアノである。

セヴラックといえば南仏ラングドック地方を故郷とする作曲家。その音楽も、地中海とスペインが混じり合う風土に刻印されている。活動したのがドビュッシーと同時期のパリということもあって、あの時代の香りをどことなく漂わせている。
そういう音楽について平井氏は、自身のヨーロッパ体験を織りまぜた随想にして語り、みずからの言葉でつたえるように弾いた。
平井氏は北の国オランダに長く居住していたそうだ。わたしは知らなかったが、そこの天気は雨と曇天ばかりだという。セヴラックの、乾いた土地を感じさせる音楽を、北の湿った土地から思い描いて表現すると、とびきり軽妙な音のきらめきになるのだろう。その場は軽やかさに満たされた。
シューマンの影響を受けたというセヴラックのピアノ曲は、小品ひとつひとつが身近な生活に根ざしたタイトルをつけられている。南仏の風土にいろどられた心象スケッチといっていいかもしれない。それを北のピアニストが、自分を通して新たな心象スケッチにして聴かせてくれたのだった。

ヨーロッパの「文化のグラデーション」というものをあたらめて考えてみる。それはヨーロッパの魅力のひとつでもある。国境など考慮に入れずに全体を見渡すと、土地の色調が少しずつ変化しながら広がっているさまがわかる。
ひところ熟読していた田淵安一のことを思い出す。戦後まもなくフランスに渡り、ずっとヨーロッパで活動していた画家である。『西欧人の原像』を始めとする彼の著作は、ヨーロッパの北に軸足を置いて見えてくる「文化のグラデーション」を語っていることに思い当たった。(この話題はここで中断)。

Francesco Dillon
もうひとつのコンサートはイタリアの若いチェリスト、フランチェスコ・ディロンのリサイタル『時空を越えて』。
会場は九段のイタリア文化会館。
イタリア・バロックの曲と、とびきりの現代曲が、ミルフィーユのように交互に並べられていた。
ガブリエッリ、ダッラーバコ、ジプリアーニといった名前になじみがなくとも、彼らの作曲した、これぞバロックという風合いの曲たちはどこまでもなじみ深く、ディロン氏の奏でるチェロの深々した音色が、耳の奥深くへと染みわたり、体全体に回るかのように思われた。(そういえば、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』は、チェロの音色が病気を直す話でもあったなあ)。

それと対照的に現代曲のほうは、心地よさと対極をなす音色を追求するものだった。正直に言えば、耳をさいなまれそうな音もあった。だが、電子音で作った音色が単体として放たれるのとちがって、人がじかに出す音色は、何か大きなものにつながっているように感じられるのだ。かなり不快な音を響かせている弦が、別の弦を共鳴させ、柔和な倍音を立ち昇らせる。オーストラリアのアボリジニーが使うディジュリドゥという楽器の音を模して演奏させる曲もあった(Kate Moore 作曲)。
こういうことをチェロでやってのける演奏家もいるのだ。ただただ驚嘆。

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