2016年11月7日月曜日

エネルギー保存の法則

今やもう遠い昔、中学二年のとき、理科の教師が話してくれたことが心にしみついて、いまだに何かのおりにひょっこり思い浮かぶ。
それは授業でとりあげている内容とは関係がなかった。そのことだけをわざわざ生徒たちにつたえるつもりでいるように思われた。教師は何か特別な教えでも開示するように、〈エネルギー不変の法則*〉について説明したのだ。(*今では「エネルギー保存の法則」と言うようだ)。
容器の水を沸かす。燃料が燃えて失われたエネルギーは、沸いた湯の熱量に変わることで、そこに介在するエネルギーの総量は変わることなく、一定のままであるのが定理だ。
ひととおり説明したあと、教師はひとつの問いを投げかけた。
「では、こんな事例はどのように考えたらいいのか。恨むという行為だ。人がだれかを恨むとき、たいへんなエネルギーを使う。恨むことで使ったエネルギーは、〈エネルギー不変の法則〉をもってすると、何かに変わっているはずだ。それはいったいどんな形をとるのだろう?」。
生徒から答えを引き出そうとしているのではなかった。自分に向かって問うていた。13、4の中学生にそのように語りかけるとは、この教師は過去にどんな恨みを体験したのか。
その語り口は、決して「人を呪わば穴二つ」のような教訓に導こうとしているのではないことは、ともかくわかった。根源を問う姿勢が感じられた。だからこそ、13歳のわたしは深い印象を受けたのだ。

地方都市の固陋と諦念とが不動の空気のように覆っている土地ではあったが、地元大学の実験校だったあの中学校は特別な場所だった。制服はない、支配・服従の掟などないに等しい。変わり種といっていいおもしろい教師が何人もいた。
この理科教師もまた変わり種だった。長年、地元の科学博物館に勤務していたところを見いだされて、初めて学校で教え始めたばかりで、背広にまだ博物館の黴と埃をうっすら付けているみたいなところがあった。

あの話はともかく自分の世界観に取り入れられ、自分の内部にしっかり定着した。
物事を考え、判断するさい、〈エネルギー不変の法則〉が無意識下で働いてきた――と自分では思っていが、それもじつのところは、自己流に単純化して、世界は「プラスマイナスゼロ」となるような力が働いているはずだ、というくらいの願望だろう。
それでも、自分の秤や物差しを持っていると、少なくとも周囲に流されないですむ。

月を見れば、どの相であっても、そこには光を受けず見えない部分がまちがいなくある。光を受けて輝くプラスの部分と、暗いままのマイナス部分とが合わさったのが月というものだ。


だれかを、何かを糾弾するため、寄り集まって、声高らかにスローガンを唱和し、同一のプラカードを掲げて盛り上がっている人たちを見かけることがある。そんなとき、つい考えてしまう。この人たちひとりひとりはどんな闇を、あるいは空虚を抱えているのだろう?


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