コンサートの話題を出したからには、少し前に聴いたレクチャー・コンサートのことも書いておかねば。
ひとつは、ロシア連邦内の共和国、トゥバの音楽を追い求める日本人、寺田亮平氏の喉歌と楽器演奏。この方も伝道師といっていい。すっかり現地の楽人になってしまっている。そこに音楽への気魄という凄味が加わって、身も心もトゥバの地に捧げる求道者のようなたたずまいが感じられる。
場所は明治大学のオープン講座。モンゴル出身の相撲取りの土俵入りを思わせる重厚な足運びで壇上に現われた寺田氏は、顔だちもモンゴル系で通用しそうだ。
ロシア連邦の南端にあってモンゴルに隣接するトゥバは、遊牧という生活様式もあって、文化的にモンゴルと共通する部分が多いようだ。ただし、トゥバ語はテュルク系の言語。また、国自体、大山脈にはさまれた盆地にあり、山の起伏や川の流れがしっとりと緑をはぐくんでいて、平原の続くモンゴルの風景とまったくちがう。
これまでわたしはモンゴルの喉歌(ホーミー、ホーメイ)を聴く機会を得てきた。そういう場を何度も体験するうちに、歌い手はじつはアクロバットを演じてみせているのではないかと思うようになった。
うなり声で歌いながら倍音を響かせ、同時に二色の声を出すといった離れ技は、なるほど曲芸ではある。
ところが寺田氏が喉を絞って歌う声には不思議と初々しさが感じられる。その理由は氏の説明で腑に落ちた。モンゴルの喉歌が楽器の役割をしているのに対して、トゥバでは歌詞を歌うのだという。
レクチャーの場で歌った伝承歌の内容を寺田氏は意訳してくれている。歌われているのは、山や川や沼の風景、そこにやってくる野鳥、生活の糧である馬や羊。いとしい恋人、大切な友人。家族の絆。歌詞の情景だけ取り出すと、まるで『万葉集』だ。
ふだん忘れてしまっているが、ほんらい日本の和歌はゆるやかに吟詠するものだ。年の始め、宮中の歌会始で吟詠されるのを聞くと、和歌が歌だということをあらためて思い出させてくれる。
もしかしたら万葉時代の日本をトゥバという国で感じることができるかもしれない。行ってみたくなった。たいへん行き難いところだそうだが。
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もうひとつのレクチャー・コンサートは成城大学でおこなわれた〈歴史に現代の響きを聴く〉。
オーボエ奏者、三宮正満氏の主宰する〈アンサンブル・ヴィンサント〉による極上の演奏で、バッハ、モーツァルトの音楽が当時の楽器で再現され、贅沢な空間にひたることができた。
オーボエについては、現在の形になるまでの姿を古楽器、民族楽器でたどることができる。三宮氏がチャルメラで「夜鳴きそば」のメロディをひと吹きし、トルコの民族楽器ズルナで勇壮な軍隊行進曲を吹き鳴らすと、ホールの気分は一挙に盛り上がった。
そのあと、チェンバロと、現代ピアノができる以前に使われていた〈フォルテピアノ〉の解説、演奏と続いていく。
チェンバロはなるほど演奏の表情をつけるには難があるものの、弦をはじく音には鮮烈な彩りが感じられ、空間をきらめきで満たしてくれる。
そこのところで〈フォルテピアノ〉はかなり地味である。ハンマーで弦を叩く音は、広いホールではくぐもって聞こえるが、当時としては画期的な、強弱と表情をつける工夫がこらされている。
バッハやモーツァルトの時代、サロンで演奏者たちを囲んで聴くにはちょうどいい音量だったろう。
いや、今の時代でも、そういうやわらかな音のピアノがふつうにあってほしい。密集して暮らすなか、現代のピアノはやかましいと感じることがあるのだから。
バッハやモーツァルトの時代、サロンで演奏者たちを囲んで聴くにはちょうどいい音量だったろう。
いや、今の時代でも、そういうやわらかな音のピアノがふつうにあってほしい。密集して暮らすなか、現代のピアノはやかましいと感じることがあるのだから。
このコンサートに招いてくださった成城大学のT先生、本当にありがとう。
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