2016年12月28日水曜日

待たれるゴドーはデンマークで

「書割かきわりのような」という形容がかならず思い浮かぶ。暮れ方、空に残る青みが、日の没した地平の朱とせめぎ合い、つかのま色彩のページェントが繰り広げられるとき。そこに金星が張りついていれば、わざとらしさの仕上げとして、これ以上望むものはないくらい。晴天の宵のちょっとした見ものだ。冬の東京では珍しくない。
書割の夕空がいわば「イデア」として、現実の夕空を先取りしてしまうとはおかしな話だ。自分ではわかっているが、それはまちがいなくサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の舞台背景からきている。この芝居をダブリンの〈アベイ・シアター〉で見たときの衝撃とともに、舞台上の書割の夕空が自分のうちに刻み込まれてしまったらしい。1976年のこと。

『ゴドーを待ちながら』という劇には、劇的(ドラマチック)といえるものがいっさいない。登場人物や台詞、道具立ても、限りなく切り詰められ、何かの原型になるまで削ぎ落とされている。道端の一本の木の前に風来坊の男が二人、ゴドーを待ちながら、所在なさげにすわりこんでいる。退屈まぎれにたわいない言葉をかわすばかり。
出来事といえば、奴隷とその主人が闖入して雑音を入れたり、幕間の区切りをつけるように使いの少年が現われて、「ミスタ・ゴドーは今は来られないが、そのうち来る」というメッセージを告げる。ただそれだけ。何事も起こらない。待っている男たちもゴドーがだれか知らない。

何かの原型として考えると、そこから始まるものがありそうだ。だれにでもありそう。どこにでもありそう。



このブログの初回の記事にもどっていく。そこでわたしは作品を翻訳する過程で、意外な事実を発見したり、奇想にいざなわれたりする、と表明している。これは自分としてはちょっとした目くらましのつもりだった。インタビュアーの凡庸な質問に対して、期待される答えを裏切ってみせるため。
だが、実際のところ、翻訳中の〈思いつきメモ〉は、断片のままたまっている。その一部は「訳者あとがき」に生かしてきた。だが、大半は「箪笥のこやし」として、さいわいかさばるものではないので、パソコンのしかるべき場所に寝かせてある。

そう、わたしはデンマーク小説『犬に堕ちても』を訳す過程で思いついたことを開陳するつもりで、ここまで延々と書いてきたのだ。手持ちの「奇想」のひとつをここで明かすと、作者ヘレ・ヘレはベケットの『ゴドーを待ちながら』の影響のもとでこの小説を創りあげた、というものだ。(ヘレ・ヘレ氏とはメールでやりとりしてきたが、わたしはまっとうな翻訳者の態度を保つことにつとめ、自分の奇想を話題にしたりはしません)。

『ゴドーを待ちながら』の原題は En attendant Godot / Waiting for Godot 。最初フランス語で書いたあと、ベケットはその英語バージョンを完成させた。 
フランス語なればこそ Godot は「ゴドー」と読まれ、当然、英語版でも「ゴドー」という読み方は引き継がれている。作品自体、有名になって、「ゴドーとは何者か」ということが論じられるなかで、Godot のなかに God を見いだしたり、綴りを逆にした to dog のなかに「犬」を見いだしてみたりと、評論家に議論の種を提供してきた。

ところで、デンマーク語からすると Godot はどう感じられるのか?
Godot を逆さに綴った to dog 。デンマーク語で to(ト)は数字の2。英語の助詞 to(トゥ)は、デンマーク語では同じニュアンスの助詞 til (ティ)が対応する。英語とデンマーク語の両方をこきまぜ、たゆたわせていくうちに、to dog が「to hunde 2匹の犬」になったり、「til hunde 犬のほうへ」になったりしながら、 gå i hundene にたどりつく。「犬に成り下がる」、つまり「零落する」という意味で普通に使われる言い回しだ。これが小説の題名として Ned til hundene (Down to the Dogs) に落ち着いたものと推測される。

「泣くのにちょうどいい場所を探している。そんな場所はなかなか見つかるものではない。何時間もバスを乗り継いで、こうして海辺でぐらつくベンチにすわることになった」。
そうやって主人公の「わたし」は登場する。冬のデンマーク、荒れ模様の夕方、うらぶれた風景のなかに降り立って、ひとりじっと待っている光景は、まるで『ゴドー』の冒頭場面のパロディだ。が、それから先となると、何も起こらない『ゴドー』とは対照的に、この小説は日常の出来事で埋めつくされている。主人公の「わたし」だって、ありていに言えば、抱えている重荷に負け、「人生詰んでしまった」という思いから家出してきた事情が少しずつ明らかにされていく。
だが、自分ではあずかり知らないことだったが、降り立った土地で「わたし」は待たれていたのだ。友達として、話し相手として、伴侶として。はからずも2頭の猟犬の世話係まで引き受けさせられる。

住民が出ていった寂しい集落に踏みとどまる人たちは、それぞれの心が思い描く「ゴドー」を待っていた。

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