タイトルの「虎の魂」を、いずれそこへ到る終着地として掲げてはいるものの、今のところ、迷路の入口に足を踏み入れたばかりであり、胸の内に見えている核心部に達するまで、話題は紆余曲折をたどることになりそうだ。
ナツユキカズラ |
このところ気温がガクンと下がった。ベランダのナツユキカズラの茂みの中で毎晩、飽かず歌っていたコオロギにも、ついに諦めの境地が訪れたようだ。
彼--鳴く虫は雄と決まっている--が突然現われた日はわかっている。この夏、台風の風雨が通り過ぎた翌日だった。それからつい二、三日前まで、毎晩、それはそれは熱心に鳴き続けたのだ。
台風の翌朝、ひょっこり現われたといえば、まるで宮沢賢治の〈風の又三郎〉だ。この転校生は学校の生徒たちの心をつかんで離さなかった。そのように現われたコオロギは、異世界から到来した風変わりな客のようなものだったろうか。
客人は声のみでそこにいることを告げていた。暮れ方、おずおずと音を奏で始め、玉を並べて空間を埋めていくような単調かつ律儀な流儀で夜通し歌った。
客人は声のみでそこにいることを告げていた。暮れ方、おずおずと音を奏で始め、玉を並べて空間を埋めていくような単調かつ律儀な流儀で夜通し歌った。
〈コオロギの又三郎〉と名づけてみたものの、鳴き声でしかその存在を知らない。声が聞こえているあたりをライトで照らして探しても、その雄姿を見つけることはできなかった。
あんなに鳴いてはお腹が空くだろう、とスイカやメロンの皮を串に刺して土の上に突き立ててやってみた。でも、それらの食物はダンゴムシの一族を呼び寄せ、繁栄させるだけとわかって、早々に打ち切った。結局、彼はカズラの葉を食べているのだろうと思うことにした。
〈又三郎〉の美声に誘われて雌コオロギがやってきたかどうか、という話になると、それはなかったと思うしかない。雌は鳴かないからどちらとも言えないが、こんな高層階までわざわざ飛んでくる雌はいないだろう。地上の植え込みのいたるところで雄コオロギの声が誘いかけていた。
インターネットで調べると、鳴き声が手がかりとなって、〈又三郎〉の正式名は「ツヅレサセコオロギ」と判明した。何のことはない、コオロギ一族でもいちばんありふれた種だ。(その姿と鳴き声はこちら)
このありふれた地味なコオロギが、地道な主張の持ち主であることをわたしは知った。
このありふれた地味なコオロギが、地道な主張の持ち主であることをわたしは知った。
「ツヅレサセ、綴れ刺せ」、つまり「綴り刺せ」というのは、コオロギの鳴き声を古代の日本人がそのように聞きなしたものだという。言葉を補って言えば、「冬にそなえて衣を綴り刺せ、縫い綴れ」と助言してくれているのだと。
『古今和歌集』のなかに「綴り刺せ」を詠んだ歌が収められていて、その雰囲気をつたえている。巻19中、通し番号では1020番になる、在原棟梁の作である。
秋風にほころびぬらしふぢばかま 綴り刺せてふきりぎりす鳴く
藤袴(フジバカマ) |
「秋風で藤袴-キク科-の花が開きかかったようだ。綴り刺せ、縫い綴れというようにコオロギが鳴いている」--コオロギは古くは「きりぎりす」の名で呼ばれていた。
作者の在原棟梁(ありはらのむねやな)は、かの名高い業平の子だそうだ。生年は不明ながら、没年は898年とわかっている。
1100年以上前に歌われたとは思えないくらい、歌の情感は今の人にも違和感なくつたわってくる。コオロギの単調な歌を聞いていると、ひと針ひと針刺していく地道な縫い仕事を思い出す。すんなり受け入れられるイメージだ。
わたしのように「空間をドットで埋める」といったイメージで実感しては、いかにも風情がない。
1100年以上前に歌われたとは思えないくらい、歌の情感は今の人にも違和感なくつたわってくる。コオロギの単調な歌を聞いていると、ひと針ひと針刺していく地道な縫い仕事を思い出す。すんなり受け入れられるイメージだ。
わたしのように「空間をドットで埋める」といったイメージで実感しては、いかにも風情がない。
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