2016年10月18日火曜日

虎の魂(2/5)

ジグザグの道はまだ続く。今回も虎の尾にも届きそうにない。

前回、『古今和歌集』にあるコオロギを詠み込んだ和歌について書いていて、疑問に思うことがあった。
コオロギが「綴り刺せてふ」--縫い綴れとばかりに鳴いているのは、冬に備えて衣を縫っておくよう助言してくれている、と解釈するのが通り相場のようだ。
でも、もしかしたら、ここのところは、コオロギ本人が「寒くなるから衣を縫わなくちゃ」とつぶやいている言葉かもしれない。
想像が勝手に滑っていく。コオロギは秋のうちに落ち葉を何枚も重ねて縫い合わせて、寒さをしのぐ衣を作りあげ、何とか冬を乗りきるのだ。そのように古代の日本人は思っていなかっただろうか。
たちどころに『アリとキリギリス』が思い浮かぶ。イソップやラ・フォンテーヌの寓話のなかでもいちばん有名な話だ。働き者で、夏のあいだせっせと食べ物を集めて蓄えてきたアリが、冬になって、キリギリスから助けを乞われると、冷酷に言い放つのだ。「夏じゅう音楽を奏でて楽しんでいたやつは、これからもせいぜい楽しくやっていくんだな」。
日本人のだれもがこの話を幼いうちに聞かされて、いやでも勤勉精神を心に刻み込まれたろう。だが、キリギリスの哀れな末路には、内心納得できないでいる人も多いはずだ。
そこには人間と生き物との距離感が働いている。鳥や虫の声を、意味ある言葉に聞きなすということをやってのけるくらいだ。彼らに親しみをおぼえ、つい感情移入してしまうのは不思議でも何でもない。愛すべき鳥や虫に人間の属性を与えてもちっともおかしくない。
イソップやラ・フォンテーヌはあくまで建前の話だということにして、心の中では、身近な生き物に自分を託して納得する。

在原棟梁の時代、夏の終わりから鳴き始めるコオロギの音を心のうちでころがしていると、「ツ・ヅ・リ・サ・セ・〇・〇・〇、ツ・ヅ・リ・サ・セ・〇・〇・〇」(〇は無音)と8拍のリズムに乗って聞こえてきたはずだ。
俳句、和歌の字数は五七五(七七)ということになっているが、じっさいは無音の拍で間をつないで、八八八(八八)の拍で受け止めている。「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」のように、八拍のまとまりはどこでも通用する。
際限なく続くコオロギの声を聞くうちに、おのずと気持ちがまとまっていく。「冬がまた来るなあ、寒さにそなえて衣を縫っておかなくちゃ。人も虫も。それぞれの領分でやっていくまでだ」

ひょっとすると鳥獣虫魚は、人にメッセージを送る力をそなえているのではあるまいか。


山本梅逸《花卉草虫図》




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