2018年2月25日日曜日

谷川知子さんのこと②


知子さんの住まいを初めて訪ねた日のことを覚えている。下北沢にマンションを借りて、別居生活を始めていた時期になる。
わたしは彼女からちょっとした用事を頼まれたのだ。娘の高校時代のクラスメートだったアメリカ人女性がやってくるので、会いに来てほしいという。娘に頼まれて、東京留学が決まったその学生を自宅に置いてあげることにしたのだけれど、当人が到着する日、自分はあいにく仕事で出かけている。そこで、ちゃんと家に入れたかどうか、何か困ったことはないか、見てやって、ということだった。

谷川夫妻は下の子供である娘の志野さんを、高校に入る時点でアメリカに送り出していた。知子さんの話では、すでに修羅場を呈していた谷川一族の家から離れさせなければ、と強く願ってのことだったそうだ。

独居の身になって、知子さんは浅草の手描き提灯の店で働き始めた。紙張りされた無地の提灯に、独特の流儀の文字を描き入れるのだという。もしかしたら、今後の仕事を模索しながら、伝統工芸の手習いをしていたのかもしれない。
もともと東京の下町育ちということもあり、軽口を叩いてからかいあう仕事場の雰囲気のなかで、自分らしさを発揮しているようだった。が、そのうちに提灯の店のことは話題に上らなくなった。

知子さんが自宅に滞在させることになったのはジェーン・W、ボストンの名門女子大を卒業したばかり。下北沢のマンションで時差ボケの姿でいたところにわたしは闖入してしまったが、互いに何とはなしに気に入って、それから先もつきあうことになった。

ジェーンも、どちらかというと、「負の側」の人間だったように思う。国外に出ていくアメリカ人にイメージするような野心も押しの強さもまったく感じられなくて、ちょっとはにかむようなしぐさは、アメリカ社会にいれば負けてしまうだろう、と思わせた。

確かに妙だった。わたしは知子さんともジェーンさんともつきあいを続けたのに、その二人をそろって見ることはなかったのだ。

『婦人之友』という雑誌に知子さんの書いたエッセーが載っている、とジェーンから教えられて読んだことを思い出す。それはアメリカにいる娘を訪ねたおりの滞在記で、知子さんが非常に端正な文章を書く人だと知った。(調べれば、何年の何月号かわかるはずだ)。

わたしはそのエッセーを読んだ感想をジェーンにこう話した。
「知子さんが書いているひとつひとつのことに嘘はない。けど、彼女のわだかまりとなっている肝心な点はすっぽり抜け落ちている。意図的にそういう操作をしているのがわかるので、エッセー全体が嘘っぱちだと言うしかない」

その文章の中で,知子さんはあくまでも谷川俊太郎夫人の立場でいた。そういう自分がアメリカ留学中の娘のもとを訪ね、さまざまな交流を楽しんだ--そういう場面が、出会った人々の姿とともに、こぎれいに綴られていた。

当時の知子さんは、別居を受け入れてはいても、離婚は拒んでおり、その後も長らく拒み続けた。

2018年2月22日木曜日

谷川知子さんのこと①

ゆるゆると続いていた語りが、別の話題のために中断していたが、もとに戻ることにして、『多摩川べりこぼれ話』を承けてさらに続ける。

その記事を、わたしはこんなふうにしめくくった。宙吊り状態のまま。
「それは谷川知子さん、当時、谷川俊太郎と別居中という立場にあった」。

最近、谷川俊太郎の正史ともいうべき『詩人なんて呼ばれて』いう本が--詩人本人はまだ生きているので「とりあえずの正史」ではあるが--出版された。(語り手・谷川俊太郎、聞き手・尾崎真理子、新潮社・2017)

その本の中でわたしの心にひっかかることがひとつあった。
谷川俊太郎が結婚して離婚した3人の女性について、3人とも2010-11にかけて亡くなったと語られている。(聞き手の言葉を引用すれば、「三人の奥様は2010年から翌年にかけて、相次いでこの世を去られました」)

この「正史」には巻末に年譜が付けてあり、その中で岸田衿子と佐野洋子(最初の妻と3番目の妻)については、没年月日が記されている。
ところが、俊太郎との間に2人の子供をなし、結婚期間も長かった谷川知子の場合、没した事実を記してもらっていないのだ。
これは記載ミスなどというものではないだろう。記さないことでもって、「正史」は、彼女について何ごとか語っているように思える。

「正史」が光り輝くなかで、消えたり消されたりした幾多の物語があり、そういうものを総称する「稗史」という言葉がある。
稗史とは、大まかに言えば、稗官(しがない小役人)が取材して、記し、残した民間の言い伝えのたぐいで、正史の陰で生きてきた民間伝承という趣もある。今の世で言えば、上等なところで歴史小説、でなければ、言い伝えや伝説も含めて、マスメディアとネット上でまとまりなく漂っている情報といっていい。

そういう雑多な世界に、今さら何かを付け加えようというつもりはない。

わたしが知子さんとつきあいがあったのは、多摩川べりの借家に住んでいた1980年代のうちにほぼおさまる。
やはり、自分が記憶にとどめている多摩川べりの風景から、死者たちが呼びかけてくるのだろう。そんな思いで追憶の糸をたどり、思い出を選別して、何らかの形にしてみるまでだ。

そもそもの発端は、1983年9月に出たわたしの翻訳書だった。これについては、当ブロクの初期の記事で関連する事情に言及している、と言うにとどめておく。ともかく、ハンデを背負ったその本を、「まとまった数、買い取りたい」と申し出てくれたのが知子さんだった。工作舎の編集者をしていた友人を介しての話だった。

現実に本の受け渡し場所となったのは、東横線の多摩川園駅(当時の名称)のホームだった。知子さんが横浜へ出かける用事に合わせて、当方にとっての最寄り駅で途中下車してもらったのだ。それが初対面となった。

当時は思いもよらなかったが、彼女からすると、わたしは「負の側」、つまり自分と同じ側にいる人間に分類でき、それゆえに肩入れしてやる気になったのだろう。
年譜によれば、その前年、俊太郎は絵本作家、佐野洋子と交際 を始めたという。

年齢もずいぶん離れているし、そもそも互いの過去に何の接点もなかったのだが、知子さんはわたしによく電話してくるようになった。用事があるわけではない。暇にまかせて、こちらも思いつくまま、ひらめくまま、話を長引かせた。

そうやって気軽におしゃべりをするようになったのは、あるやりとりがきっかけになったものと思う。

わたしはたまたまテレビで見かけた演出家の木村光一のことを話題にした。舞台演劇に関する彼のうがった意見が印象に残っていたのだ。
すると、知子さんは「あっ」と声を上げた。
「木村光一さん! 久しぶりに思い出した。ほんと、物事をよくわかっている人よ。いやあ、昔、こんなことがあったの。ほら、わたし、若い頃、文学座の女優をしてたでしょ。俊太郎の書いた芝居で舞台に立ったことがあるのよ。--それが縁で結婚するところまでいったんだけど。--で、木村さんから言われたの。谷川のあんなもの、よくまあ大まじめで演れるなあって」

年譜から引用しておくと
1955年 6月、一人芝居「大きな栗の木」の作、演出を引き受け、文学座で上演。主演の大久保知子と知り合う。
ということになる。

谷川俊太郎、23歳、木村光一、大久保知子ともにほぼ同年齢。思い出すだけで、痛快な気分になり、甘やかな気持ちがこみあげてくる青春のひとこまだったろう。

2018年2月4日日曜日

映画『湿地』~ アイスランドのツィゴイネルワイゼン(2/2)

この映画の、あるいは原作小説の核心は、『ツィゴイネルワイゼン』のメロディに乗せられた歌詞にあると言っていい。
それは、詩人で小説家のダヴィズ・ステファンソンDavíð Stefánsson(1895-1964)の詩作品だ。


この詩が『ツィゴイネルワイゼン』のメロディにうまくはまることを発見したのが誰かはわからない。しかも、人気歌手に歌わせて、ヒットさせているのだ。
そういう事情は今のところ、不明のままにしておくとして、"Til eru fræ"の詩の原文は以下のとおり。下に拙訳も並べておく。

Til eru fræ, sem fengu þennan dóm:
Að falla í jörð, en verða aldrei blóm.

Eins eru skip, sem aldrei landi ná,
og iðgræn lönd, er sökkva í djúpin blá,
og von sem hefir vængi sína misst,
og varir, sem að aldrei geta kysst,
og elskendur, sem aldrei geta mæst
og aldrei geta sumir draumar ræst.

Til eru ljóð, sem lifna og deyja í senn,
og lítil börn, sem aldrei verða menn.


こんな定めを受けた種がある、
地に落ちても、花を咲かせることのない。

岸にたどりつくことのない船のような、
深海色に埋もれた先進工業国のような、
翼を失くした希望のような、
口づけもできない唇のような、
出会えないまま、わずかな夢に
乗り出すこともできない恋人たちのような。

生まれたとたんに死ぬ詩がある。
大人になることのない幼児がいる。


前回の記事の末尾にあげた YouTube 動画の作成者は、この歌詞の意をくみ取って、近年の難民問題を念頭に置いて、ネットで拾えるなかから写真を選んできたものと推察できる。
ヨーロッパを目指して海を渡ってくる難民の悲劇はまだ続いている。

それにしても、往年の人気歌手、ホイクル・モルテンスの歌いっぷりは、つやめき過ぎて、ポマード臭が鼻につく。
ホテルのラウンジだろうか、ダンス・フロアで熟年カップルたちがこの歌に合わせて踊っている動画まである。(どんな気分で踊るのだ?こんな重たい歌詞を聞きながら)。
口直しに、アイスランドの男子高校生たちによる合唱をあげておく。(リンクはここ)。

現実のアイスランドで、個々の人の遺伝子情報の詳細が明らかにされたとしても、その先にあるのは、負の遺伝子を背負った者たちにどう対処するかという問題だろう。
それ以前に、人の心の闇は、遺伝子のデータでわかるものではない。


『湿地』という作品は、小説であれ、映画版であれ、現実の社会問題を突きつけて考えさせようという意図はない。にもかかわらず、向き合う者に、自分の心の深みにまで降りてゆかせる力がある。

2018年2月1日木曜日

映画『湿地』 ~ アイスランドのツィゴイネルワイゼン(1/2)

前回までの5回、ゆるくつながって続いていた話を、いったん中断して、別の話題を差しはさむことにする。

昨夜の赤い月が誘いかけるのだ。
待たれていた皆既月食は予想外にはっきりと見ることができた。肉眼では、半ば欠けた月面が赤みがかって見えるのに、双眼鏡を通して月そのものを引き寄せてみると、いつもと同じように白っぽいのはどういうわけだ?
翌朝になると、天気は一変して下り坂。冷たい雨が小雪に変わって、世界が白い靄の中に閉されていく。わたしの心はそのまま、あの映画の世界へと沈み込んでいった。
アイスランドのミステリー映画『湿地』(2006年制作)。

原題は Mýrin --文字通り沼地や湿地のことだ。英語圏ではタイトルを変えられて、 Jar City(瓶詰めの町)になっている。

月からこの映画へと連想が続いていくのにはわけがある。映画の最初のほうで、『ツィゴイネルワイゼン』のメロディが圧倒するように迫ってくるが、その曲には『ジプシーの月』という別名があるのだ。サラサーテが中心メロディとして借りてきたハンガリー民謡ではそう呼ばれている。
ユニゾンのハミングで歌われる男声合唱の声が、ごくゆっくりしたテンポでうねり広がって、荒寥たる風景一面を覆い、陰惨な殺人事件の背景を教えてくれているように思われた。

そうか、月食の途上の月があのように赤い色をしているのは、地球という大きなものにさえぎられ、自分の感情を押し殺しているせいか。
そういう押し殺した怒りでいっぱいだった、『湿地』という映画は。

少し前、初めてこの映画をDVDで観ていて、ハミングで歌われるメロディに見舞われてうろたえた。そこでいったん停止して、
「この曲、ほんと、よく知っているのに、題名が出てこない。何だ、何だっけ?」
とつぶやきながら、メロディを反芻していくうちに、ようやく、ツィゴイネルワイゼンだ!と言い当てることができた。

この映画での歌いぶりを聴けば、だれだってうろたえるだろう。独奏ヴァイオリンが弾くあの張りつめた調子とは真反対の境地にあるのだ。
サラサーテ版を思いきり引き延ばしたスローテンポで、男声合唱のハミングで歌われるメロディは、寒冷な湿地に立ち込める霧のように、あるいは、際限なく落ちてくる雪のように、出口の見つからない絶望となって、うなりやうねりの重圧感で迫ってくる。

『湿地』という物語自体、アイスランドの特異な現実がベースになっている。国民の遺伝子情報を集めてデータバンク化するというプロジェクトが本当に実行されているのだ。

主人公は事件現場での経験豊富な警部。彼がひとつの殺人事件を調べていくうちに、人間ドラマの断片らしきものが明らかになっていく。
その一方で、自分の遺伝子を切実な思いで調べている若い父親がいる。幼い娘が難病に苦しんでいるのだ。遺伝子バンクの情報から、病気の原因は自分が受け継いだ遺伝子にあることをつきとめると、彼は悪い血に対する復讐へと向かっていく。

この二人のドラマが平行して流れ、最終的に合流したとき、男は自分の呪われた血を断ち切る決意でいた。




アイスランドの「バイオバンク法」がらみの話自体、それでなくても興味がつのるのに、警部自身のとうてい自慢できない家庭内事情や、好物の食べ物のことなどが出てきて、書き始めると収拾がつかなくなりそうなので、とりあえず、この映画について、ポイントをひとつに絞って語りたい。

そう、まさに音楽をめぐる話だ。しかも、それはこの映画の構成において要(かなめ)の役割を果たしている。

この映画の監督はバルタサル・コルマウクル(1966-)。ミュージシャンのムーギソン(芸名。1976-)~ロッカーでありブルース・シンガーでもある~と緊密な共同作業をしながら、この映画を作り上げたにちがいない。映像と音楽とが絡み合って、もはや両者を引き離すことができないほどだ。

ムーギソンはこの映画のサウンドトラックを公表しているので、映画で使われた音楽のひとつひとつをあらためて聴くことができる。(リンクはここ)。
タイトルからわかるように、それらはアイスランドの昔の流行歌、歌いつがれてきた国民唱歌、子守歌、賛美歌といったよく知られた古いメロディが大半だが、その中にとびきり新しい自分のナンバーもまぎれこませている。歌詞のないハミングで歌っているのは、警察官で編成された男声合唱団だ。彼らの姿も映像の合間に差しはさまれる。

ギリシャの古典劇では、「コロス」と呼ばれる合唱隊が控えていて、登場人物のセリフだけではわかりかねる内容を補足・説明していたそうだ。
この映画では、登場人物たちに代わって彼らの心を開いて見せるかのように、男声合唱隊の声が荒寥たる原野と海岸に吹き渡っている。

サウンドトラックの最初に出てくるのがハミングによる『ツィゴイネルワイゼン』のメロディ。 「Til eru fræ ティル・エル・フライ--(そんな)種がある」というタイトルがつけられている。
1950年代のアイスランドではやった歌だ。 Haukur Morthens ホイクル・モルテンスという歌手が歌ってヒットしたらしい。どうやらアイスランドでこの曲は、「ティル・エル・フライ」という名前で知られているようだ。「ツィゴイネルワイゼン」ではなく。

 YouTube でその歌を聴くことができる。いくつか上がっている中から、今風のイメージ写真を付けられたものを選んでみた。(ここ)