2017年5月26日金曜日

偶然という乗り物

 昨日久々に記事を上げることができ、さっそく言い訳しなくてはならないが、このところの空白状態にはちょっとした事情がある。パソコンで日本語入力するための「親指シフト」が突然使えなくなってしまったのだ。といっても、「ローマ字入力」をあたりまえに使っている人たちには何のことかわからないだろう。

「親指シフト」というのは、ワープロ全盛期、富士通が自信をもって広めた合理的な日本語入力方式で、これに慣れてしまうと、万人向けのローマ字入力がまどろっこしく感じられる。そのくらい手になじんでくれる快適な方式だ。思い浮かぶ言葉がじかに文字に置き換わっていくといっていいかもしれない。ストローク数はローマ字入力の半分以下ですむので、当然入力スピードも早い。

だが、富士通の外では普及しなかったため、「親指シフト」はマイナーな方式にとどまってきた。あるいは、熱狂的支持者に支えられて生き延びているともいえる。

だから、この25年間、日本語を書くのに使ってきた方式が、パソコンの画面から消えてしまったのは、筆記に使ってきた道具を失くしてしまったとか、両手が使えなくなったというのと同じくらい狼狽する事態だった。

ここでわたしのパソコン歴を語ってみたいところだが、どれもこれも、機械の進化の過程でちょっと翻弄されたことがあるというだけの話だ。
そもそもワープロを始めるさい、「ローマ字入力」に対する疑問から「親指シフト」を選んだ--このことがあとあとまで影響した。富士通のワープロ専用機を使いこなしていたため、パソコンになかなか切り替えられなかった事情やら何やらは、無駄に涙ぐましい記憶となっている。

最初のパソコンWindows98では四苦八苦した。「不正な処理をしたので終了します」といった高飛車な文言が画面に現れるたびに「ヒーッ」と悲鳴を上げながら、操作の基本は何とか習得した。日本語を書くのは、あいかわらずワープロ専用機だった。

それからまもなくのこと、Microsoft IMEを使わなくても日本語を「親指シフト」で入力できるという話を聞いて飛びついた。
それは「親指シフト」の生みの親、富士通が開発したJapanistというソフトで、簡単に言えば、Windowsパソコンに装備されている入力方式に「親指シフト」方式をかぶせて使えるようにしたものだ。
Japanistの試作ソフトに手応えを得て、バージョン1、さらに2と買い換えて17年、インターネットを立ち上げるブラウザも、マイクロソフトのIEからキツネ紋のやつに、それからグーグル・クロームに変えて落ち着いた。その間、日本語入力は、意識するまでもなく「親指シフト」でこと足りた。

そこに突然の不具合である。これまでパソコンに関してはいろんな事態に対処してきたが、今回は困り果てた。何しろ「親指シフト」自体、マイナーな分野であり、ネット検索しても、これといった解決方法が見つからない。自分なりの判断で、いったんJapanistをアンインストールして、またインストールし直してみたがだめだった。
最終的に富士通のサポートに電話して問い合わせ、そのアドバイスにしたがって、Japanistの最終バージョン2003をインストールすることで解決した。

ここまで、自分でもいやになるくらい、長々と書いてしまったが、それにはわけがある。サポートの人のひと言に感じ入ったのだ。
「これまでずっと2002版が使えていたのは偶然だったのでしょう」
IT技術を専門とする人も「偶然」という言葉を説明に使うことがあるのか!

なぜか自分が、今まで「偶然」という〈觔斗雲〉のような乗り物に乗って、自在に飛び回っていたように思えて、不思議な気分だった。
そういえば、これまでわたしは自分の身に起こる「偶然」を、当然と言わないまでも、ありがちなこととして受け止めてきたような気がする。

前回、稲富正彦をめぐる人たちとの遭遇について書いたように、それは求めて得られるたぐいのものではなく、その時その場にいたがゆえに遭遇したのだ、と言うしかない。

2017年5月25日木曜日

稲富正彦氏のこと (2/2)

それから何年もたって、日本に戻っていたわたしは稲富正彦の名前を目にすることになった。ムンクの評伝の翻訳者として(ニック・スタング『評伝・エドワルド・ムンク』筑摩書房1974年刊)。
ついでに、ムンクがわたしと同じ誕生日であることも知った。

1975
年の夏、返還からまだ3年の沖縄でキャンプ暮らしをしたあと、ついでのように台湾を訪れて、秋になってもまだ熱暑の残る時分、台北の外港、基隆キールンから那覇に向かうフェリーに乗って帰途についた。
その船上でまたもや稲富正彦の名前を耳にすることになったのだ。今度の情報提供者は、アンドレ・レヴィという名前のフランス人言語学者で、以前、京都大学に研究滞在していたことがあり、まだ日本語を忘れないでいた。
(いっしょに那覇の町を歩きながら、看板の文字に目を止めて、「ぢ」て何ですか?「おかず」って「置かない」ということですか?などと質問を向けてきた)。
彼は妻がノルウェー人だという。
「妻の一族は外国人好みのところがあってね、従姉妹のひとりなど、オスロの日本人と結婚しているよ」
稲富正彦のことだった。

1980年の春、ついにオスロに出向いて稲富氏と対面をはたした。その前年、わたしは初の翻訳を出してもらっていて、これで氏と会う資格ができたように思えた。当時滞在していたコペンハーゲンから、スカンジナビア3首都を周遊する鉄道割引を利用して出かけた。
意図をもってして何かをすると、不発に終わるのがわたしの常らしい。
稲富氏の勤務先、オスロ大学のカフェテリアでの会話は弾まなかった。わたしのほうで横光利一の未完の小説『旅愁』を話題に上げ、横光の異文化体験の描写が的を外していることなど述べた。それを稲富氏は借り物の意見と見抜いたのだろう。その小説にはそれなりの見どころがある、と言って軽くいなした。
わたしは気を取り直し、例のフランス人言語学者、アンドレ・レヴィのことを、意外な出会いとなった楽しいエピソードのつもりで話題にした。ところが、稲富氏は親戚筋にあたるユダヤ系フランス男にあまりシンパシーを抱いていないようす。文学上の不一致が原因のようだった。
「うちの子と約束がありまして」という言葉で、会見は早々に終わった。
春といっても凍結した世界がゆるむ気配も見せない土地が、よそ者をはねつけるように感じられた。
あとで思うと、稲富氏はあの頃すでに体調が思わしくなかったのではないだろうか。

つぎに稲富正彦のことが話題に上ったのは訃報としてだった。

1982
年5月、コペンハーゲン行きのパキスタン航空の便に乗ったときのことだ。その便は中継地イスラマバードで乗り換えるさい、長い待ち時間がとってあった。日本からの乗客は10人ほどだったろうか、専用の待合室で同じ食卓をあてがわれた。そのなかに白人の一家がいた。年配の男とティーンエージャーらしき息子と娘。その息子のTシャツの図柄にわたしの目が止まった。ノルウェー国旗だ。それを糸口にして親子に話しかけた。関西在住のノルウェー人牧師の一家と判明した。父親はNotto Thelleという宣教師。今も検索にひっかかってくる人物だ。
当時わたしはノルウェーのあちこちを訪れるつもりで、いろいろと予習していた。その知識をひけらかしているものと見られたのか、少し牽制ぎみの反応があった。だが、そのあとびっくりするようなやりとりをすることになった。
「稲富正彦氏のことはご存じですよね?」
「もちろん知っています。昨日亡くなりました。新聞に出ていました」
ノット・テレ師は聖職者らしく、稲富正彦を顕彰する口調で語るのだった。
「あの人は若い時分からノルウェーという国にひたむきな思いを寄せていました。高校を卒業するとすぐにノルウェーにやってきて、強い意志でもって言葉を習得し、オスロ大学でノルウェー文学を学び、修士号まで取ったのです」

ノルウェー版 Wikipedia にはこうある。

稲富正彦氏のこと (1/2)

前回ふと思いついて書き始め、途中切れで終わったヨーロッパの「文化のグラデーション」を接ぎ穂にする。
グラデーションなどという言葉を使ってはみたが、あのときの気分を振り返ってみるなら、ヨーロッパ文化の色調が微妙に移り変わっていくさまを音楽のなかに感じとっていたということだろう。

現実の社会も、実在する人間も、本を通じて知る著者も、単一の色で成り立っているわけはない。つねに色調の微妙な移り変わりがそこに見てとれるはずだ、ためつすがめつして見るならば。
何にせよ、物事が微妙に色調を変えて広がっているさまを見てしまう。--それは人生の早いうちに、自分がいつも何かのはざまで浮き漂っていて、自分の色合いなど決められないと自覚するところからきている習性かもしれない。
明快な言葉、明白なたたずまいを、色調の移り変わりとして感じさせてくれるなら、それがだれであれ、自分には好ましい人に思えた。
こちらに何の心づもりもないなか、そういう人たちと出くわすのだ。確かにいろんな不思議な出会いがあった。それは求めて得られるたぐいのものではない。その時その場にいたがゆえに遭遇したのだ、と言うしかない。

そういう人たちのひとりが稲富正彦だ。
彼の名前は、日本語のネット検索では、画家のエドヴァルド・ムンクに関連してかろうじてひっかかってくるにすぎない。一方、彼が長くない生涯の後半生を送ったノルウェーでは、日本出身の特筆すべきノルウェー人として記憶されている。

1971年の夏のこと。アイスランド大学での初年度を終え、魚工場のアルバイトでちょっとした資金を手に入れると、わたしは待望のヨーロッパの旅に出た。前の年、初めて日本を出て、コペンハーゲンに数日滞在したあと、アイスランドに渡って、ずっと冬の暗い時期を過ごしたのだ。ともかく「ヨーロッパ」に出ていかねば、という気持ちに駆られていた。(アイスランド人も「ヨーロッパに出かける」という言い方をする。自国もいちおうヨーロッパに属するのだが)。

当時すでにヨーロッパ周遊のための便宜はととのえられており、鉄道を使って長旅ができるユーレイルパスは、西ヨーロッパのほとんど全土をカバーしていた(島嶼部のブリテンと軍政下のポルトガルは除外されていた)。旅の始まりをイギリス、アイルランドに選んだのは、そのあとユーレイルパスで大陸を無駄なく周遊するつもりだったからだ。以前、アイルランドがらみで書いた話題はそのときのこと。

今のEUの危うい状態、ヨーロッパを目指して難民が押し寄せていることなどを思うと、当時が茫漠とした昔のことのように感じられる。ともかく、あのころのユーレイルパスは、何とも太っ腹なことに、鉄道のファーストクラスが、期間限定ではあるが乗り放題だったのだ。ジプシーに負けないくらい気ままで、どこまでも快適な移動が実現できた。ほんの1年前には想像もできなかった自由をわたしは手にしていた。

とはいえ、安直に得た自由は空回りする。身についた手順をこなすように、つぎのユースホステルを目指して移動することが旅の目的となり、惰性となっていった。ついにはそういう移動生活に疲労をおぼえるようになっていた頃、同じコンパートメントに乗り込んできた日本人の男性と話をすることがあった。
最初の儀礼的なやりとりのあと、もう少し立ち入った話をするうちに、彼はオスロ在住の稲富正彦の名前を出したのだ。わたしがアイスランドの大学で古代文学を勉強していると話したのがきっかけだった。
「それじゃ、この人を訪ねるといい。オスロ大学で文学を教えているそうだから」と言って、紙切れに住所を書いて渡してくれた。たまたまオスロの美術館で稲富氏と出会って話がはずみ、ノルウェー人の奥さんと住んでいる自宅に居候させてもらうことになったのだそうだ。1カ月も。

この日本人は短時間乗車しただけで降りていった。名前ももう忘れてしまった。なのに、彼が口癖のように言っていた言葉だけはおぼえている。「オレ何々は嫌いなんだよ」と。細身にダンガリーの上下という姿はいっけん若者風だったが、顔はずっとふけて見えた。
あれは列車がどの国を走っていたときだったのか。それも記憶からとんでしまった。つかのまの出会いで、相手のことを聞き出すところにまではいたらなかったため、気障な部分がとくに印象に残ったのだろう。あらためて推測してみるに、この人は何らかの美術方面の仕事をしていて、オスロのムンク美術館を訪れたということだったのだろう。

そのときの旅の終着地はオスロだった。でも、わたしは気後れして稲富正彦に連絡をとることはしなかった。


2017年4月19日水曜日

春雨の日のコンサート

うかうかするうちに、前回のブログからずいぶん間があいてしまった。そこからさらに続いていくはずだったのに、今や弾みが失せ、足を踏み出せないでいるという状態だ。再び接ぎ穂をととのえるまで、間奏曲をはさんでおくことにする。コンサートの話題を。

3月の終わり、印象深いコンサートふたつに接することができた。どちらも雨降りの日のこと。あたり一面をけぶらせる春雨が、音楽の余韻までしっとり包みこみ、はぐくんでくれた。花の蕾が春雨にはぐくまれ、ふくらんでいくように。

まずは平井千絵のピアノコンサートから。
題して『フランス近代音楽シリーズvol.2〈フランス南西部から届く郷愁の香り〉』
会場は横浜の歴史地区、馬車道通りにあるスタインウェイ・ピアノのショールーム。そこに席を並べた親密な空間で、どこまでも贅沢なサロンコンサートが実現した。

ピアニストの平井千絵氏は、じつは昨年秋、成城大学でおこなわれた古楽器コンサートで〈フォルテピアノ〉をレクチャー演奏してくれた方だ。(古楽器コンサートの記事はここに)。その珍しい楽器について、音色と響きのちがいを実演で聴かせ、解説する講師ぶりが堂に入っていたせいか、〈フォルテピアノの伝道師〉というイメージをわたしの記憶に残していた。
この日の演目はデオダ・ド・セヴラックのピアノ曲集。楽器はもちろんスタインウェイのピアノである。

セヴラックといえば南仏ラングドック地方を故郷とする作曲家。その音楽も、地中海とスペインが混じり合う風土に刻印されている。活動したのがドビュッシーと同時期のパリということもあって、あの時代の香りをどことなく漂わせている。
そういう音楽について平井氏は、自身のヨーロッパ体験を織りまぜた随想にして語り、みずからの言葉でつたえるように弾いた。
平井氏は北の国オランダに長く居住していたそうだ。わたしは知らなかったが、そこの天気は雨と曇天ばかりだという。セヴラックの、乾いた土地を感じさせる音楽を、北の湿った土地から思い描いて表現すると、とびきり軽妙な音のきらめきになるのだろう。その場は軽やかさに満たされた。
シューマンの影響を受けたというセヴラックのピアノ曲は、小品ひとつひとつが身近な生活に根ざしたタイトルをつけられている。南仏の風土にいろどられた心象スケッチといっていいかもしれない。それを北のピアニストが、自分を通して新たな心象スケッチにして聴かせてくれたのだった。

ヨーロッパの「文化のグラデーション」というものをあたらめて考えてみる。それはヨーロッパの魅力のひとつでもある。国境など考慮に入れずに全体を見渡すと、土地の色調が少しずつ変化しながら広がっているさまがわかる。
ひところ熟読していた田淵安一のことを思い出す。戦後まもなくフランスに渡り、ずっとヨーロッパで活動していた画家である。『西欧人の原像』を始めとする彼の著作は、ヨーロッパの北に軸足を置いて見えてくる「文化のグラデーション」を語っていることに思い当たった。(この話題はここで中断)。

Francesco Dillon
もうひとつのコンサートはイタリアの若いチェリスト、フランチェスコ・ディロンのリサイタル『時空を越えて』。
会場は九段のイタリア文化会館。
イタリア・バロックの曲と、とびきりの現代曲が、ミルフィーユのように交互に並べられていた。
ガブリエッリ、ダッラーバコ、ジプリアーニといった名前になじみがなくとも、彼らの作曲した、これぞバロックという風合いの曲たちはどこまでもなじみ深く、ディロン氏の奏でるチェロの深々した音色が、耳の奥深くへと染みわたり、体全体に回るかのように思われた。(そういえば、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』は、チェロの音色が病気を直す話でもあったなあ)。

それと対照的に現代曲のほうは、心地よさと対極をなす音色を追求するものだった。正直に言えば、耳をさいなまれそうな音もあった。だが、電子音で作った音色が単体として放たれるのとちがって、人がじかに出す音色は、何か大きなものにつながっているように感じられるのだ。かなり不快な音を響かせている弦が、別の弦を共鳴させ、柔和な倍音を立ち昇らせる。オーストラリアのアボリジニーが使うディジュリドゥという楽器の音を模して演奏させる曲もあった(Kate Moore 作曲)。
こういうことをチェロでやってのける演奏家もいるのだ。ただただ驚嘆。