2021年9月18日土曜日

グレーテさんのことをもっと

 少し前に書いた「ミュンヘン・オリンピック事件が起きた日」は、デンマークのリュスリンゲ・ホイスコーレ滞在中のひとこまを切り取ったものとなった。


思えば、わたしはデンマークの輝きがそこここに現れ出てきた時代を体験していたのかもしれない。アメリカから広まったカウンター・カルチャーも反映されていたろう。リュスリンゲの学校では、大半がまだ10代の若い生徒と、教師やスタッフも同じ敷地内で生活するなか、それぞれが変わりつつある時代を謳歌していた。
わたしにはそれが「自由」というものから湧き出る新鮮な空気のように感じられた。
自由恋愛が単身赴任のスタッフと生徒のあいだであっても、自然体のおとなの対応を見せられるのなら、まわりから気持ちよく受け入れられていた。

(現在のリュスリンゲ高等学校は演劇方面に特化されているようだ)。

グレーテさんは夫のトーベン・ロストボル氏とともに、この学校で30年近く、管理者兼教師として活動を続けた。
わたしがその学校にいた時期、彼女は4人目の子供ができたばかりで、多くの人たちが行き交う環境にあってプライヴァシーの確保もままならなかったろう。
わたしの滞在も終わりになって、別れの挨拶を告げに訪れたとき、授乳の邪魔をしてしまったらしく、嬰児を抱いて戸口に現れた彼女のくたびれきった姿をおぼえている。

当時のグレーテさんについて、とりわけ印象に残る出来事を思い出す。希望者がそろって貸切バスでフュン島南部の砂浜海岸に遠足に出かけたおりのこと、生徒のひとり、美形のジョニーが素っ裸で砂地に突っ伏して日光浴を始めた。その姿を見やりながらロストボル先生は
Han er en mand.
と言ったのだ。
「いっぱしの男だわね」
だれに聞かせるともなく口にした言葉。それがわたしの深いところに届いたがゆえに、ずっと記憶に残ることになった。
その何気ないひと言には、「自分は高いところから判断する」という彼女なりの精神的規範がこめられていたはずだ。そんなふうに理解したのは、彼女を個人的に知るようになってからのこと。

リュスリンゲの夏から4半世紀たった1997年、わたしは思いがけない形でグレーテさんと再会することになる。
「カーレン・ブリクセン翻訳者シンポジウム」が作家ゆかりの館で開かれ、そこにわたしが日本語訳者として招かれたときのことだ。

ひとりのデンマーク人女性の発表を聞いているうちに、この人にはどことなくおぼえがある、という気がしてきた。「いまさら紹介するまでもなく前文化大臣の」という惹句とともに登場したこの人物が、名前も忘れていたあの人だと気づくまでにそう時間はかからなかった。彼女はブリクセン作品に打ち込むようになって、研究書も出していた。
しかも、今は政治家ですって!前の文化大臣ですって!!わたしはその場でただ目をぱちくりさせるばかりだった。



グレーテさんがササカワ財団の理事になって、京都で開催された理事会に出席するため初来日したのは2002年のことだ。それまで手紙やメールをやりとりしていて、わたしは理事会を終えたあとの彼女の案内役を引き受けた。
すでにデンマークのつてによる面会の約束ができていた国会議員や大学教授のもとに彼女を連れていくこともあった。わたしにはおもしろい体験となったが、一方で、こんなに diplomatic としか言いようのない、噛み合わないやりとりをそつなくこなすことのできる精神力というか気力に目をみはった。


東京では引っ越してきたばかりのわが家のマンションに滞在してもらった。そのときのことだ、わたしがグレーテさんといろんな話をしたのは。

彼女の出自は、ユラン(ユトランド)半島の荘園領主の家系にある。その地で学業(理数系)をまだ終えていない頃、知り合いの男性に結婚を申し込まれた。何でも、フュン島の国民高等学校の管理者ポストが空いているのだが、応募資格に結婚していることという条件があるのだ、と。そんな事情を飲み込んで(もちろん相手が魅力的だったからこそ)、グレーテさんは19歳で年齢がひと回り上のトーベン・ロストボル氏と結婚することとなった。

じつを言えば、わたしはリュスリンゲの学校でトーベン氏(実質のところ校長)の飾らない温かい人柄に触れていて、こういう人たちがデンマークを作っているのだと納得していた。

グレーテさんのほうは自分の心にかなう高みを求めていた。彼女が文化大臣の役職に抜擢されてほどなくして夫妻は離婚した。


 

前にも書いたが、グレーテさんはデンマークで帆船を使って若者を立ち直らせる教育の場にかかわっていて、双方が船舶系の財団というつながりから、ササカワの財団で理事職を務めることになった。

その話を聞いて、わたしはさっそくうちの近所の帆船を見に連れていった。それは海洋大学(旧商船大学)の敷地内、海に面した一角に展示されている帆船〈明治丸〉だ。船体内部に入って見ることができる。帆そのものは傷まないよう取り外してあるが、その古い帆船はグレーテさんには思いがけないうれしい出会いとなったにちがいない

2021年8月31日火曜日

死者たちの夏


 

夏は死者たちがよみがえってくる季節だ。あの世に収容上限数などないだろうが、それでなくても旧盆が鎮座している8月には、数多の死者が生者にまみえるなか、2度の原爆投下の日、日航機墜落事故といった追悼の日が並んでいる。わが家の凛々しい黒猫〈わやん〉が15日に旅立ったことは、以前書き記した

 

今年の7月だった、夜半の寝覚めに、40余年前に亡くなった知人のこと、その死を知らされたときの状況がよみがえってきたのは。眠れないまま起き出して、その名をネット検索していくうちに、その人の思い出が綴られたブログ記事に到達することになった。

「まるで海辺に打ち上げられた瓶をたまたま拾って、中の手紙を読んでいるみたいで、呆然としてしまいました」。地球の反対側におられる未知のブログ主にそう書き送った。

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突如、何の脈絡もなく、知っている音楽が心によみがえってくることがある。そういう体験は悪くない。たいがい、頭にしまわれている音楽が、立体感をともなって聞こえてくるのだから。

 思いもよらない直観や連想がはたらく、あるいは偶然に恵まれるという体験もそれと似ている。少なくとも、わたしには悪くないこととして受け止められる。

直観や連想がはたらき、偶然に恵まれる--それはどこからどういう経路をたどってやってくるのだ?神経回路のなせるわざなのか?

 ともかくも死者たちは、直接知っていた人ならなおさら、多くの面を持つ人物像として、わたしの心によみがえってくる

2021年8月29日日曜日

グレーテ・ロストボル氏のこと


前回の記事から続く。

ミュンヘン・オリンピック事件のことを、当時滞在していた全寮制学校の授業にからめて書いてみた。もっと言えば、わたしはごく最近亡くなった人にいざなわれるまま書きつけたのだ。

その名を明かすと、グレーテ・ロストボルさん。リュスリンゲの学校で『デーミアン』の講読を始めた教師その人である。

双方にとって一期一会の出会いになどなろうはずもないささやかなエピソード。が、のちに思わぬ形で再会することになって....と展開するべき話の道筋には、今この時点でつなげるわけにいかない。その話は次々回で。

グレーテさんが亡くなったのは、東京オリンピックが始まって日後のことだ。わたしがそれを知ったのは、自分の妙な感覚によるものだった。これを〈虫の知らせ〉とするには違和感があるが、やはり虫が知らせたとしか言いようがない。

正確にいつからと言えないが、その頃、なぜかグレーテさんのことが気にかかってしようがなかった。今回の東京オリンピックの開会式で、ミュンヘン・オリンピック事件について報じられたことで、昔のすすけた記憶が鮮明さをとりもどしたせいかもしれない。ともかく説明不能の気がかりが、心の底でかすかな音を響かせ続けた。妄想の暗雲が念頭を離れようとしないのだ。

何でもいいから示唆するものがなかろうかと、わたしはデンマークの新聞のネット版で検索をかけてみた。そして出てきた項目に愕然とさせられた。

そこには元文化大臣の政治家グレーテ・フォウ・ロストボル氏逝去の記事が並んでいたのだ。享年80歳。

--Grethe Fogh Rostbøll (født 30. maj 1941, død 26. juli 2021)



グレーテさんは高等学校教師という場にとどまることなく、政治の世界へと向かった。このあたりのいきさつについて、わたしのほうで勝手な思い込みがあったようだ。地方議会議員として政治の道を歩んでいったものと思っていたが、意外な形で政治家に転身することになったのだ。

フュン島のリュスリンゲで夫とともに長らく高等学校の運営・教育にたずさわっていたところを抜擢されて、保守党シュルーター政権の第4次内閣改造時に文化大臣の役職に就くことになったのだ。1年あまりの短命内閣ではあったが。元文化大臣という肩書は一生の糧となり、名誉職への道筋を作ってくれた。

このように書いていて、わたしのグレーテさんへの敬意が足りないように思われるだろうことは承知している。

彼女は決して野心家などといった言葉で形容される人物ではなかった。堅固そのものの信念の持ち主で、まちがいなく自己実現のための道を選んでいた。それゆえどんな批判のつけいる隙もなかった。

デンマークではフルトン財団(ヨットによる青少年教育施設)にかかわっていて、同じ船舶つながりということで、スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団の理事に選任され、日本をたびたび訪れた。

数年の名誉職としてならともかく、彼女がそのポストにあまりに長くとどまり続けていることをわたしは批判せずにはいられなかった。

そもそも笹川の財団は競艇というギャンブルを原資としている。

以前、江戸川区の荒川べりに住んでいた頃、広い河の対岸で競艇がおこなわれているのが見えたし、駅前には競艇場行きの無料バスの停留所が設けられ、見るからにうらぶれた男たちが行列を作っていた。

そういう競艇場をササカワの人に案内してもらってはどうか、とわたしが皮肉まじりに言うと、グレーテさんは短い言葉ではねつけた。信念のためには些事になどかまっていられないといったところだったか。

ずっと前、このブログ記事で実名を伏せて書いたのは、このとき自分が体験したことだ。

https://blixenbl.blogspot.com/2016/10/55.html

彼女はまさに tigerish だった。堅固な魂の持ち主にとって、自己実現の途に立ちはだかる者には哮りたつのが当然だったろう。


2021年8月26日木曜日

ミュンヘン・オリンピック事件が起きた日



かれこれ50年近くが経とうとしている。

1972年、ミュンヘンで開催されたオリンピックで、パレスチナのテロ・グループがイスラエルの選手宿舎を襲撃、人質をとって逃亡をくわだて、最後は銃撃戦でイスラエル選手9人、テロリスト5人、警察官1人の犠牲者を出して終わった。95日未明から夜中にかけての出来事である。

これほどの惨事にもかかわらず、すでに始まっていたオリンピックは中断されることなく、911日の最終日まで続けられ、主催者側はたいへんな非難を浴びた。

今年、1年延期の東京オリンピックが開催され、723日の開会式の夜には、49年前のオリンピックで命を落としたイスラエル人選手たちに黙祷がささげられた。長年希求されていたことで、意義深い出来事として報じられた。

--ミュンヘン大会での事件の犠牲者遺族は長年、国際オリンピック委員会(IOC)など五輪関係者に対して、開会式で犠牲者を追悼するよう求めていたが、事件から49年後についに実現した。(BBCNews 2021.7.24)--

この事件があった当日のことをわたしはよくおぼえている。デンマークの学校に滞在中で、すでに秋学期の授業が始まっていた。

思えば、特別な待遇だったにちがいない。わたしはアイスランド大学の夏休みを利用して、フュン島のリュスリンゲ・ホイスコーレに9週間にわたり置いてもらった。芸術科目が多く用意されていた全寮生活は願ってもない環境だったし、何よりも、自分の中途半端なデンマーク語をやり直したかった。

この学校が夏休みに入る前の3週間、夏休み期間の3週間、そして秋学期の3週間という変則的な滞在だったが、外国人、とくにポーランドを逃れた若者たちも受け入れていたなかで、わたしの存在はべつだん特異なものではなかったようだ。

3週間の夏期休校中も、学校施設は一般向けの音楽プログラムに使われた。

音楽教師として来ていたオランダ人女性がベビーシッターをさがしていて、わたしにアルバイトが回ってきたり、炊事場で賄いスタッフたちとの食事にいれてもらったり、島を自転車で周遊してみたり。晴れ続きの明るい季節を心ゆくまで味わった。

95日の事件であるが、新学期が始まったばかりの授業と、それに付随する出来事として、とりわけわたしの記憶に残っている。

それはヘルマン・ヘッセの『デーミアン』を--デンマーク語訳ではあるが--読んで話し合う授業だった。

デンマーク独特の〈国民高等学校〉について、ここで解説しているわけにいかないのではしょるが、何はともあれ議論をかわすところにその理念があらわれていた。

Vi skal diskutere.-話し合おうよ-という言葉がいつでも聞かれた。

授業の初回、わたしは教師に向けて、16歳のとき『デーミアン』を読んですっかり引き込まれ、自分はもともとそういう世界に生きているように思った、と、いわば告白した。

だから、95日は2度目の回だったろう。

ドイツのテレビ局がとぎれず中継している映像が、ラウンジのつけっぱなしのテレビから流れてきて、心配でたまらない人たちが出入りしている。『デーミアン』受講者たちも気もそぞろで、一同は教師とともにラウンジに収まった。

だが、膠着状態の現場中継など見続けていられるものではない。「テレビはもう終わりにしない?」と教師に提案したのはこのわたしだった。一同は教室にもどったものの、そのあとどのように授業が続けられたのか、まったく記憶にない。

後に、自分のこのときの態度に忸怩たるものをおぼえることになった。その日よりほんの3カ月ほど前、テルアビブ空港で日本人3人が銃撃テロを起こしていたというのに。

つぎの授業を待たず、わたしはリュスリンゲを去り、コペンハーゲンからレイキャヴィクに向かう客船に乗ってアイスランドにもどった。

(続く)

2021年5月28日金曜日

白内障記

 赤星隆幸医師の執刀で白内障の手術を受けた。まず左眼を、続いて右眼を。全部で10分も要しなかったと思う。

無事手術が終わり、点滴装置などをはずし、ガウンとキャップをぬいで保護用ゴーグルをつけてもらって、先ほどまで何時間かを過ごした待合室にもどると、同じ空間が輝いていた。くすみを拭き取ったみたいに色鮮やかで、眼にくっきり映じて見える。過去にはこうして見えていた。記憶に残らない幼い日の眼にはさらに鮮やかに映じていたろう。

翌朝の快晴の光の中にあると、鮮明さがあふれかえるほどで、視界のすべてをあらためて確認するように眺めた。

その夜楽しみにしていた皆既月食は曇り空でほとんど見られなかった。時折雲が薄れたあいだから、赤い月が欠けた姿をのぞかせるばかり。

 

赤星医師の独自に編み出した手術法は、わたしのほうでしっかり頭にたたきこんでいて、手術台の上で自分の目に何が起きているかをたどっていた。あとで思い返すと、手術の流れと平行して、自分が空中を移動していたというふうに感じられた。一連の流れについては、空港で飛行機が離陸するプロセスとして捉えられた。(よく知っている羽田のように大きな空港で、機がつぎつぎと、一連の流れになって離陸していくさまが連想されたのだ)。

手術を待つ6人ほどが手術室の扉の見える待機室に坐らされ、点滴と血圧用ベルトを取り付けられて、定期的に麻酔薬を点眼してもらいながら、順繰りに、手術を終えた人と入れ代わるように手術室に移動していく。ひとりひとりが離陸待ちの飛行機だった。過密状態の空港で、決められた滑走路から離陸するまで、機が移動しながら順番待ちしているといった光景。

手術台に横たわった時点では、すでに離陸していたと言える。

角膜に1.8ミリの切り込みを入れ、そこに小型の器具を差し込むところから手術が進められる。白内障の根幹である水晶体内部を切り分け、乳化させて吸い取る。空になった水晶体の袋の内部に、畳んだ状態の眼内レンズを挿入し、開かせる。

一連の驚くばかりの手法については、幾度も読んでわかっていたはずだ。だが、当然ながら、それが自分の身に起こっていることとして感じられない。

わたしは宇宙船の中にいた。そこの狭い窓の外に星雲を見た。ぎらつく光のなかで雲状の渦が巻き上がっている。何億光年ものかなたにある星雲に目をこらした。--星雲とは宇宙空間に漂う、重力的にまとまりをもった宇宙塵や星間ガスなどから成る天体のこと。(Wikipedia)--

つぎの瞬間、星雲は雲散霧消して、目前は明るい平面に変わっている。着陸したのだ。

手術完了。そこで起こしてもらい、立ち上がると、日常世界が待ち受けていた。色鮮やかに変化をとげた待合室だった、新しい眼がとらえたのは。

 

別の角度からの印象も付け加えておく。あのひんやりとした手術室は食肉処理場のミニチュア版のようでもあったなあと、ちらと思った。


らせん星雲(みずがめ座)