かれこれ50年近くが経とうとしている。
1972年、ミュンヘンで開催されたオリンピックで、パレスチナのテロ・グループがイスラエルの選手宿舎を襲撃、人質をとって逃亡をくわだて、最後は銃撃戦でイスラエル選手9人、テロリスト5人、警察官1人の犠牲者を出して終わった。9月5日未明から夜中にかけての出来事である。
これほどの惨事にもかかわらず、すでに始まっていたオリンピックは中断されることなく、9月11日の最終日まで続けられ、主催者側はたいへんな非難を浴びた。
今年、1年延期の東京オリンピックが開催され、7月23日の開会式の夜には、49年前のオリンピックで命を落としたイスラエル人選手たちに黙祷がささげられた。長年希求されていたことで、意義深い出来事として報じられた。
--ミュンヘン大会での事件の犠牲者遺族は長年、国際オリンピック委員会(IOC)など五輪関係者に対して、開会式で犠牲者を追悼するよう求めていたが、事件から49年後についに実現した。(BBCNews 2021.7.24)--
この事件があった当日のことをわたしはよくおぼえている。デンマークの学校に滞在中で、すでに秋学期の授業が始まっていた。
思えば、特別な待遇だったにちがいない。わたしはアイスランド大学の夏休みを利用して、フュン島のリュスリンゲ・ホイスコーレに9週間にわたり置いてもらった。芸術科目が多く用意されていた全寮生活は願ってもない環境だったし、何よりも、自分の中途半端なデンマーク語をやり直したかった。
この学校が夏休みに入る前の3週間、夏休み期間の3週間、そして秋学期の3週間という変則的な滞在だったが、外国人、とくにポーランドを逃れた若者たちも受け入れていたなかで、わたしの存在はべつだん特異なものではなかったようだ。
3週間の夏期休校中も、学校施設は一般向けの音楽プログラムに使われた。
音楽教師として来ていたオランダ人女性がベビーシッターをさがしていて、わたしにアルバイトが回ってきたり、炊事場で賄いスタッフたちとの食事にいれてもらったり、島を自転車で周遊してみたり。晴れ続きの明るい季節を心ゆくまで味わった。
それはヘルマン・ヘッセの『デーミアン』を--デンマーク語訳ではあるが--読んで話し合う授業だった。
デンマーク独特の〈国民高等学校〉について、ここで解説しているわけにいかないのではしょるが、何はともあれ議論をかわすところにその理念があらわれていた。
Vi skal diskutere.-話し合おうよ-という言葉がいつでも聞かれた。
授業の初回、わたしは教師に向けて、16歳のとき『デーミアン』を読んですっかり引き込まれ、自分はもともとそういう世界に生きているように思った、と、いわば告白した。
だから、9月5日は2度目の回だったろう。
ドイツのテレビ局がとぎれず中継している映像が、ラウンジのつけっぱなしのテレビから流れてきて、心配でたまらない人たちが出入りしている。『デーミアン』受講者たちも気もそぞろで、一同は教師とともにラウンジに収まった。
だが、膠着状態の現場中継など見続けていられるものではない。「テレビはもう終わりにしない?」と教師に提案したのはこのわたしだった。一同は教室にもどったものの、そのあとどのように授業が続けられたのか、まったく記憶にない。
後に、自分のこのときの態度に忸怩たるものをおぼえることになった。その日よりほんの3カ月ほど前、テルアビブ空港で日本人3人が銃撃テロを起こしていたというのに。
つぎの授業を待たず、わたしはリュスリンゲを去り、コペンハーゲンからレイキャヴィクに向かう客船に乗ってアイスランドにもどった。
(続く)
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