前回の記事から続く。
ミュンヘン・オリンピック事件のことを、当時滞在していた全寮制学校の授業にからめて書いてみた。もっと言えば、わたしはごく最近亡くなった人にいざなわれるまま書きつけたのだ。
その名を明かすと、グレーテ・ロストボルさん。リュスリンゲの学校で『デーミアン』の講読を始めた教師その人である。
双方にとって一期一会の出会いになどなろうはずもないささやかなエピソード。が、のちに思わぬ形で再会することになって....と展開するべき話の道筋には、今この時点でつなげるわけにいかない。その話は次々回で。
グレーテさんが亡くなったのは、東京オリンピックが始まって3日後のことだ。わたしがそれを知ったのは、自分の妙な感覚によるものだった。これを〈虫の知らせ〉とするには違和感があるが、やはり虫が知らせたとしか言いようがない。
正確にいつからと言えないが、その頃、なぜかグレーテさんのことが気にかかってしようがなかった。今回の東京オリンピックの開会式で、ミュンヘン・オリンピック事件について報じられたことで、昔のすすけた記憶が鮮明さをとりもどしたせいかもしれない。ともかく説明不能の気がかりが、心の底でかすかな音を響かせ続けた。妄想の暗雲が念頭を離れようとしないのだ。
何でもいいから示唆するものがなかろうかと、わたしはデンマークの新聞のネット版で検索をかけてみた。そして出てきた項目に愕然とさせられた。
そこには元文化大臣の政治家グレーテ・フォウ・ロストボル氏逝去の記事が並んでいたのだ。享年80歳。
--Grethe Fogh Rostbøll (født 30. maj 1941, død 26. juli 2021)
グレーテさんは高等学校教師という場にとどまることなく、政治の世界へと向かった。このあたりのいきさつについて、わたしのほうで勝手な思い込みがあったようだ。地方議会議員として政治の道を歩んでいったものと思っていたが、意外な形で政治家に転身することになったのだ。
フュン島のリュスリンゲで夫とともに長らく高等学校の運営・教育にたずさわっていたところを抜擢されて、保守党シュルーター政権の第4次内閣改造時に文化大臣の役職に就くことになったのだ。1年あまりの短命内閣ではあったが。元文化大臣という肩書は一生の糧となり、名誉職への道筋を作ってくれた。
このように書いていて、わたしのグレーテさんへの敬意が足りないように思われるだろうことは承知している。
彼女は決して野心家などといった言葉で形容される人物ではなかった。堅固そのものの信念の持ち主で、まちがいなく自己実現のための道を選んでいた。それゆえどんな批判のつけいる隙もなかった。
デンマークではフルトン財団(ヨットによる青少年教育施設)にかかわっていて、同じ船舶つながりということで、スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団の理事に選任され、日本をたびたび訪れた。
数年の名誉職としてならともかく、彼女がそのポストにあまりに長くとどまり続けていることをわたしは批判せずにはいられなかった。
そもそも笹川の財団は競艇というギャンブルを原資としている。
以前、江戸川区の荒川べりに住んでいた頃、広い河の対岸で競艇がおこなわれているのが見えたし、駅前には競艇場行きの無料バスの停留所が設けられ、見るからにうらぶれた男たちが行列を作っていた。
そういう競艇場をササカワの人に案内してもらってはどうか、とわたしが皮肉まじりに言うと、グレーテさんは短い言葉ではねつけた。信念のためには些事になどかまっていられないといったところだったか。
ずっと前、このブログ記事で実名を伏せて書いたのは、このとき自分が体験したことだ。
https://blixenbl.blogspot.com/2016/10/55.html
彼女はまさに tigerish だった。堅固な魂の持ち主にとって、自己実現の途に立ちはだかる者には哮りたつのが当然だったろう。
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