2019年11月30日土曜日

破滅寸前の地球を脱した宇宙船〈アニアーラ〉


突飛な思いつきではあるが、グレタ・トゥーンベリという若き環境活動家は、60数年前スウェーデンで出た文学作品『アニアーラ』によって今の世に送り出されたのではなかろうか。

前回書いたように『アニアーラ』は当時、北欧全土で衝撃をもって受け止められた。
地球が終焉を迎えるという設定からして、1956という刊行時点では、まだ記憶に新しい、第二次世界大戦と日本への原爆投下、さらに米ソによる核実験、といった出来事を想起しないではいられない。それゆえにこの書は、人類の未来に対する警鐘として、あるいは覚醒を求める予言として読まれた。

とはいっても、この作品を読みこなすのはむずかしい。比喩にくるまれた詩の言葉は深遠で難解だ。

だから、作者マーティンソンが副題としてわざわざ付した、これまた不可解な「時空における人間をめぐるレヴュー(仏語のrevue、つまり歌舞ショー)」という文言には、首をひねってしまう。
これは作者一流の皮肉・反語だろうか?表に見えるものを引っくり返してはどうかね、というような


そこまで深読みしなくても、意外性による演劇的効果をねらった単なる前口上と解すればいいのかもしれない。--臆する必要はない、宇宙空間を舞台とする人間喜劇を楽しんでくれ、とでもいうように。
恐怖と滑稽さは結構背中合わせになっている。

実際、これをオペラ化した舞台劇は、多彩な音楽と、意表をつく演出によって華麗なレヴュー、バラエティ・ショーに仕立て上げられている(らしい)。

ハリー・マーティンソン (1904-1978) 1974年にノーベル文学賞を受賞している。

それからまた年月が過ぎ、『アニアーラ』はひさびさに注目を集めることになった。昨年、スウェーデンとデンマークの合作によって映画化されたのだ。



深遠さを感じとるしかなかった宇宙叙事詩が、壮大なドラマとなってよみがえり、ようやく理解できるようになったのは、わたしにはちょっとした出来事に思えた。もちろん原作の叙事詩は、映画化された人間ドラマとは別物だと承知してはいるが。

筋書きのわかるドラマの形をとると、原作は、それ自体見おぼえある世界に還元されていることがわかる。宇宙空間を漂流するアニアーラ号の数多くの乗客・乗員は、どこまでも人間じみた葛藤やあがきを繰り広げる。
SFという設定のもとではあるが、いつでもどこにでもありそうな光景である。
さらに、船内の人々の大半が白人という状況もあって、ちょうど今EU域内で起きている紛糾ぶりと重なって見えてくるのだ。

日本ではこの映画はSFジャンルとして公開され、どうやら不評のまま打ち切られたようだ。
その理由は十分推測できる。何といっても、救いのない話だからだ。
あるいは、宇宙物としての組み立てが、マニアからすると、緻密さを欠いているのだろう。それよりも、人間ドラマそのものがフェミニスト的視点で描かれているせいにちがいない。だれがそんなものをSF映画に見たがるか!というわけだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿